第8話 木掛さんのつぶやきが気になる

 カナコの助言を受けて、俺は足繫く木掛さんの元へと通った。もう、それが以下の通りルーティン化されつつある。


①六時起床。出社前にコンビニでエナジードリンクを一気飲み。

②鞄をデスクに置いて、一直線に上司の元へ。

③サンサン薬局にパンフレットを届けに行ってきます!(おれ)

④お、おう(上司)


 以上、終了。とまあ、こんな感じである。


 くるりと上司に背を向けて、メールチェックや得意先への依頼、企画書の修正などてきぱきと片付ける。無数に積み上げられたパンフレットの中から、未だ渡してないものを見繕って鞄に詰め込み――


「行ってきます!」


 最近気付いたことだが、木掛さんへの顔見せ(+サンサン薬局にマムシドリンクを採用してもらおう作戦)を通じて、事務処理能力が格段に向上した気がする。いつもの俺なら、得意先から課せられた宿題に頭を悩ませて、あーでもないこーでもないと四苦八苦し、時だけが無情に過ぎていくだけだった。

 恋も仕事も積極性こそが己を変えるのだろうか。


「あっ、こんにちは」


 今では、すっかり木掛さんとこんな感じの挨拶に変わっている。

 この微妙なニュアンスがおわかりだろうか。『いつもお世話になります』から『こんにちは』になっている。つまり、これは仕事上の事務対応ではなく、一歩進んだフレンドリーな会話へと変化している証なのだ。


「あの、今日も暑いですね」

「そうですね」とにこやかに返すと、

「汗」と指をさされた。


 よくみると、あまりの暑さにシャツが汗で張り付いていた。危ない危ない、まだデートもしてないのに乳首までお披露目するところだった。妙な恥ずかしさを覚え、うろたえる俺にくすくすと口元を押さえる木掛さん。


 もう九月になるというのに今年の夏は異常なぐらい暑い。連日ニュースは異常気象、異常気象と耳タコ状態で連呼している。どうやら、あまりの暑さに各地で不思議な現象も相次いでいるようだ。


 蜃気楼でタージマハルが見えたとか。

 干上がったダムの底で恐竜の化石が見つかったとか。

 謎の発光体が飛び回っている、とか。


 日本中干上がってしまうのではないかと心配になる。俺だけじゃなく、どの営業マンも死にそうなぐらい汗をかいてサンサン薬局に来訪している。そんな瀕死状態の営業マンのオアシスが木掛優さんだ。彼女は暑さは無縁とばかりに、いつも涼しげな笑顔を向けてくれる。彼女の存在感そのものが清涼感に溢れている。ラムネのような爽やかさに、いつも俺は癒されています。


 木掛さんが働くサンサン薬局本社は、東京都のど真ん中、千代田区の高層ビル群の一角にあり、グローブ製薬からドアツードアで三十分もかからない。こんな物理的距離の近さでお互い働いているなんて奇跡としか思えない。出会うべくして出会った二人であると素敵な勘違いをしてしまうのは人情ってもんだろ。


 なぜ、月一回しか訪問しなかったんだと、過去の自分を殴りたい。頻度の高さと物事を成すハードルの高さは反比例する。つまり、行けば行くほど行きやすくなる。早口言葉のようだが、実際にその通りだった。顔出し頻度、名刺渡し頻度、名前呼び頻度を上げた結果がこれだ――


営治えいじさん、今日も商品バイヤーにパンフレットをお渡しすれば宜しいですか?」


 俺の名前を覚えてくれているのだ。


「はい。木掛きがかりさん、宜しくお願いします」


 カナコの言った通りにコトが進行しつつある。

 そろそろ第二段階へと駒を進めてもいいのでは?

 にやける心に強力な栓をして頬を引き締めた。努めて真面目に、かつ爽やかに、


「木掛さん。もしよかったら、今度うちの会社……」



「電子タバコは、思ってるほど体に良くないですよ」



 木掛さんはこちらを遮り、ぼそりと漏らす。

 えっと。

 今、何て言ったの?

 電子タバコ?


 憂いを帯びたその横顔。

 瞼を半分閉じたような夢見心地な瞳が、こちらの憶測を助長する。

 彼女は一体、何を考えているんだろう。

 これから俺に不幸な出来事が待っているように目を背ける。

 意味がわからない。


「あ、ありがとうございます。なんか、この前も自分のことを心配してくれたみたいで」

「この前……」

 木掛さんはこのワンフレーズに反応した。

「いや、あの、だいぶ前なんですが、高血圧に気を付けてくださいって」


 心のどこかで引っかかっていた。最高気温四十度超という異常事態のなか、彼女は確かに俺の身を案じた。

 いきなり。

 ぼそりと呟くように。

 意味不明な投げかけを。


 高血圧ってどういう意味なんだろう。そして、電子タバコって一体。

 あれから、俺は無性に木掛さんのことが気になってしまったのだ。知的好奇心を駆り立てる奇妙な魅力を放つ彼女に。


 木掛さんは、かあああっと耳まで真っ赤になりながら、ごまかすように小首を傾げた。


「そえ、そんなこと言いましたっけ?」


 あ、あれ? 覚えてないの? もしくは覚えてないフリをしているの?


 木掛さんは呆けた俺を無視して、背後から現れた営業マンに向かって、あたふたしながら応対を始めた。

 彼女の仕事の邪魔にならないように、毎度おなじみの商品バイヤー宛てにパンフレットを手渡し、ぬるっと横にそれた。


「○○ですね。今、取り次ぎますので、少々お待ちください」「あっ、いつもお世話になります。荷物はこの通路を右に曲がった場所に倉庫がありますので、仮置きして頂けると助かります」などなど。先ほどのやりとりは夢幻かのように、せわしなく事務対応をしていく。


 首を捻りながら、少し距離を置いて、つぶさに彼女を観察。


 うーん。


 高血圧。


 電子タバコ。


 気になる。


 

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