第10話 逃げなさい
翌日。
日が高くなってきたところで、カンナがリリスに告げた。
「お前の村に戻るぞ」
肉体的疲労に精神的疲労が重なり半日ほど眠り続けていたリリスだったが、ようやく落ち着いたのだろう、つい先ほど目を覚ましたところである。
「村?」
「ああ。もう用事は済んだだろう? だったらここから早く離れた方がいい」
「……カンナは?」
「俺もお前の村まで行く。途中であの男がまた出てこないとも限らないからな」
「う、うん」
カンナの『あの男』という言葉に、リリスは一瞬身を固めた。恐れるのも無理はない。
「心配するな。俺が守るから」
「……」
「どうした?」
リリスが不思議そうに見上げてくるので、カンナが聞きかえす。すると彼は小首をかしげた。
「どうして俺のこと、こんなに助けてくれるんだ?」
なんだか今更な気もする質問にカンナは小さく笑った。最初に聞くところだろう、と思わず言ってしまいそうになる。
呼ばれたからというのがまず理由の一つだ。一部関わってしまったからというのもその一つだし、カンナ自身の職業病からくるものが理由なのかと思ったが、実のところ自分自身でもよくわかっていない。
ただ、カンナにもなんとなく思うところがあった。
「昨日言われた言葉をそのまま返すようで悪いが、お前はなんだか懐かしい感じがする。こんな理由では不満だろうか」
過去にどこかで因縁でもあったのか、だからこうやって自分は呼ばれたのか、その理由はまだ分からない。それでもリリスといることが、何故かとても自然なことのように思えてしまうのだ。
ぶっきらぼうに言ってのけるカンナに、リリスはふわりと笑った。
さて、出発が決まったからといって寝床にしていた納屋からまっすぐリリスの村へ向かうわけではなかった。
いや、カンナはむしろそうするつもりだった。あの男に出くわす前に一刻も早くここから離れるべきだと提唱した。しかし。
「旅に出る前は、儀式をしなきゃいけないんだ」
リリスがそう言うので、その儀式ができるという大聖堂に一旦寄ることになった。
しかし昨日の今日で、よくもまあこの場所へ行こうという気になるものだ。
リリスには見えていないのだろうが、聖堂は相変わらず禍々しい雰囲気を漂わせている。きっとこれが可視化されていれば、寄りつく気にもならないだろう。
こっそりとため息をつくカンナをよそに、リリスは祭壇の正面に立ってお祈りを始める。
「ゼンチゼンノウの神よ、ねがわくばわがあゆみしみちをてらしたまへ。なんじのみちからをさずけたまへ。なんじ、われをめでたまへ……」
(……相変わらず棒読みじゃないか)
リリスのお祈りを聞き流しながら、改めて呆れてしまう。
彼の祈りの文言を聞いていると、どうやらいにしえの言葉が混ざっているようである。しかしリリスはこの祈りの言葉の、果たして何パーセントを理解しているのであろうか。
(全知全能もわかってなさそうだな)
妙に納得するカンナである。
しかしその全く理解できていないであろうリリスが祭壇に祈りの言葉を捧げるごとに、精霊たちが彼のまわりに集ってくるのだから不思議でたまらない。
この雰囲気で彼らはすっかり逃げてしまっているはずなのに、一帯どこから沸いてくるのか。
おそらくリリス自身の力が元々強いのだろう。しかし自ら精霊を引き寄せる能力がないため、祈りの言葉を媒体として精霊を呼び寄せていると考えられる。
ひたすら棒読みの祈りの言葉で、だ。
聖堂内に漂っていた禍々しい雰囲気は今や消え去り、呼び寄せられた精霊たちで満たされ始めている。昨日見たときは大聖堂としての復帰は難しいかもしれないと思っていたが、きっとすぐに元通りの神聖さを取り戻すだろう。
(言葉の意味を正しく理解したら、きっとこれどころではないのだろうな)
リリスの言葉で歓喜に満ちる精霊たちの舞をぼんやりと眺めながら、カンナは思う。しかしそうなってしまえば、リリスはこの世界にはいられないのではないか、とも考えた。
「はー、おわったー」
一気に祈り終えたリリスは、晴れ晴れしい笑顔でカンナの方を向いた。
「さて、帰ろー」
「そうするか」
彼が脳天気で天然で少し頭が弱い様子でいるのは、彼なりの無意識な処世術なのかもしれない。そう思いながらカンナがリリスと一歩踏み出したとき、大聖堂の入口を人の影が塞いだ。見れば父親である。
「あ、父さん」
「リリス、まだいたのか!」
父親はリリスの姿を確認して焦る。
「……父さん?」
「早く、早く家に帰りなさい!」
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