夢現逃花

ふぁる

第一章 エデン編

第1話 里桜

 出来立てホヤホヤのアスファルトの匂いが辺りに立ち込めている。背後でモクモクと白い湯気を上げながら、凸凹だった道路が整地化されていく。赤い光を発する誘導棒を動かして、白いヘッドライトを発する車両たちをテキパキと誘導しながら、里桜は時折押し寄せる虚しさと睡魔に格闘しつつ仕事に勤しんだ。


  彼女は頭部にはヘルメット、衣服は青い作業着に反射シートのついたベスト、腕には警備会社の腕章を身に着けていた。ただ、髪はブラウン色で三つ編みに結わえて背中に垂らしており、瞳はブルージルコンの様な色を放っていた。


 日本人とはかけ離れた外見であることも災いしてか、時折通行する車両の運転手から理不尽な暴言を浴びたが、里桜は顔色一つ変えずに仕事をこなす。


(もう、疲れた。助けて。誰か)


 表には出さない裏で、脳内で何度も繰り返す、誰でもいい『誰か』に対する助けを求める言葉は、里桜の癖になっていた。

 どう助けて欲しいか、自分にとって何が助けとなるのかすら分からなくなってしまっているというのに。


「お疲れさん! また明日も頼むよ! 里桜ちゃんが居ると、現場の連中もやる気を出してくれるから助かるよ」


「ありがとうございます。お疲れ様です」


バイト先の中年男性に愛想笑いを返し、


(ばーか。勝手に『里桜ちゃん』だなんて呼ばないでよね)


と、心の中で悪態をつき、くたくたに疲れ切った体で彼女は自転車を漕ぐ。朝日が昇り始めた空を憂鬱に思って視線を落とし、けれど、滅入った気持ちを僅かなりとも元気づけようと、脳内にお気に入りの音楽を流した。


 2年前、里桜の母親が死んだ。


 と、言っても、それはなかなかに凄惨な状況だった。

 里桜の家は曾祖父の代から会社を経営し、かなり裕福だった。何不自由無く豪勢な暮らしが送れていたし、今となってはバイトに明け暮れている毎日ではあるが、当時はパーティだ会食だなんだと正反対の理由で忙殺されていた。


 里桜が高校に上がってすぐ、父が受け継いだ会社が倒産。里桜の父は酒に溺れ、母親に暴力を振るうようになった。里桜が何度必死になって止めたことか知れない。幸いにも里桜に対しては甘々だった父親は、娘には暴力を振るわなかったので、それをいいことに里桜が体を張って母親を守る事が多かった。


 そんなある日だ。朝起きたばかりの里桜の目に飛び込んだのは、血まみれの母親の亡骸だった。酔いつぶれて血まみれになった包丁を握りしめたまま眠りこけている父親を見て、警察に連絡をしたのは里桜だった。


 その頃からだ。


(助けて。誰か、誰か助けて)


 彼女が脳内でそんな言葉を繰り返すようになったのは。『誰か』なんて居ない。居るはずも無い。誰も居ないのだ。彼女は分かっていた。


 父親が逮捕され、里桜は母親の弟。つまり、叔父の家に引き取られることになった。しかし、その叔父もまた問題があった。落ちぶれた後の里桜の父親と全く変わらない程の酒浸りの男だったのだ。


 当然、生活が楽なワケも無く、ボロ家には借金取りが時折来るような環境だ。上流階級から一気に底辺にまで突き落とされた彼女は、当然、私立高校の学費等払えるはずもなく、公立の学校へと編入したが、そこもまた泥の沼でしかない。


 お嬢様学校の制服を着て、フランス人の母親を持つ里桜は外見も日本人離れし、その上美しく優雅な所作がこの上なく目立つ。それでいて人殺しの父親を持つ彼女を、思春期の少年少女が受け入れられるわけが無いのだから。


 散々な虐めに遭い、里桜の制服はたちまちボロキレになった。仕方なくジャージで学校に通う彼女は教師からも疎まれ、高校生ながら社会からも偏見の目で見られた。


 生きていてもいい事等一つも無い。真っ暗な部屋の隅で、呪文のように


(誰か助けて。誰か)


と言いながら、何度自殺を考えたことか。手首に傷こそ無いものの、何度想像の中で自分を殺しただろうか。ふとした拍子でも「あ、ここで一歩踏み出せば……」と、自然と考える様にまでなっていた。


……だが。


彼女はある日ふとふっきれた。


「なんで私が悪く無いのに、死んでやらなきゃならないの?」


 一度吹っ切れると人は強い。里桜はいくつものバイトを掛け持ちし、大学に行く為の費用を稼ぐ事にした。頼れる大人なんて居ない。いいや、頼りたい大人が居ないのだ、と。


 当然、学力についても下げる訳にはいかない為、学校にもしっかり行く。家での勉強も怠らない。自分にとっての『今』は、修行期間だと考えればいい。


 大学を卒業する頃には、修行も明けて人間らしく生きられるに違いない。と、彼女は自分の志を貫くことに決めた。一生懸命に生きる人間は美しい。彼女は元々の美貌に拍車をかけるが如く、精神面が強く研ぎ澄まされて、周りからは増々孤立していった。

 当然、友人の一人もできなかったし、作ろうとさえ彼女は思わなかった。元々明るく人当たりの良かった里桜の性格は氷の様に冷たく、他人を寄せ付けなくなっていった。そうすることで自分を守っていたのだ。

 他人に傷つけられないようにするためには、自分が堅牢に拒否するしかないのだ。


 里桜はいつの間にかすっかりと人間嫌いになっていた。当然、年頃の少女だというのに恋愛の一つも無ければ、むしろ完全に拒絶反応すら出ている程だった。男性に対しては特に嫌悪感すら抱いていた。それは、父親に対して抱いた不審感からきたものだろう。


 玄関の明かりすら灯っていない真っ暗な家に到着すると、自転車を隅に停め、なるべく音を立てない様に玄関のドアを開けて家の中へと入った。そうっと廊下を歩き自室へとたどり着くと、荒らされた状態の部屋を見て、唖然として立ち尽くした。


 泥棒が入ったのか? いや、まさか。酒浸りの叔父が毎日家に居るのだから。ということは、犯人は叔父以外に居ない。目当ては里桜の預金通帳だろう。


 彼女の考えは的中した。机の引き出しに入れておいたはずの預金通帳が無くなっている。殺したい程に憎しみが沸き起こった。憎しみは涙になって溢れ、叫びたい衝動を、唇を噛み切らんばかりに噛み締めて抑え込む。


 冷静にならなければ。今キレてはダメだ。まだ取り戻せるかもしれないのだから。相手は酔っ払いとはいえ男性だ。腕力では到底は敵わない。叔父は、父親とは違う。里桜に暴力を振るう危険性は十分にあるのだ。


「……叔父さん」


 リビングのソファで死んだように眠る叔父に里桜は声を掛けた。「私の通帳、知らない?」と、言葉を続けようとした彼女の目に、大量の酒が散乱している光景が飛び込んで、言葉を飲み込んだ。


 辺りを見回し、ゴミくずの中から大事な通帳を見つけ出し、震える手で開いた里桜は、絶句した。


 残高に「0」が表示されている。


 眠り続ける叔父を心の中で罵詈雑言を浴びせながら叩きのめす。悔しくて溜まらずに両頬を涙で濡らし尽くし、里桜は嗚咽を漏らした。

 どうして、自分はこうも無力なのか。そして、なんて愚かだったのだろう。想像できたはずだ。この人間のクズなら、やりかねないことを。通帳を常に持ち歩かなかった自分の落ち度でもある。里桜は抑えようの無い怒りを自分に向け、反省に色を変えようとした。


 拳で涙を拭い、時計を見た。学校までまだ時間がある。とりあえず、体中に染み付いたアスファルトの臭いだけでも落としたい、と。里桜はシャワーを浴びる事にした。


 熱めのシャワーに打たれながら、思い切り泣き、鼻水も垂らしまくった。


(誰か。お願いだから、誰か助けて!! 早く!!)


 いい加減、誰か助けて。もう、限界だ。


 当然。その『誰か』は、居ない。自分を助けられるのは、『自分』しかいないのだから。相変わらずまだ他に希望を追い求めているのかと自嘲して、押し寄せる虚しさに耐えた。

 風呂から上がり、伸び放題の長い髪を乾かす間もなく三つ編みに結い上げて、さっとジャージへと着替えを終えて脱衣所のドアを開けた。が、里桜は、思わず「うっ」と息を詰まらせた。


「里桜ちゃん、帰っていたんですね」


 腹の出た醜い体形の叔父がゆらりと彼女の目の前に立っている。吐く息は酒臭く、里桜は吐き気を抑えるのでいっぱいだった。邪魔だ。どけ、と言わんばかりに彼女は睨みつけたが、代わりに反してきた叔父の視線に、ゾクリと背筋を凍らせた。


 湿っぽいその目線は、明らかに里桜の体を見ている。叔父が着ているスウェットの股間が膨れ上がっているのに恐怖を覚え、後ずさろうとした里桜の手首を、叔父が力任せに掴んだ。ゾワリと全身の毛が逆立った。


「止めて!! 離して!!」


叫んだ里桜の頬は力任せに殴りつけらた。痛みよりも恐怖が里桜を支配した。


「止めて!! 叔父さん!!」


壁に押し付けられ、頭を強打した瞬間、彼女の恐怖は怒りへと変わった。


 里桜には何か、『ぶちキレスイッチ』でもあるのだろうか。彼女はぎゅっと歯を食いしばり、叔父に思い切り頭突きを食らわせた。


「痛っ!!」


ふらりとよろめいた叔父は、里桜の手首を握る力が弱まった。素早く抜け出し鞄を掴むと、その地獄の様な家から彼女は脱出した。


 坂道を駆けのぼり、駅へと向かう人々に逆走しながら、里桜は無意識にも母親が埋葬されている墓のある丘へと向かった。墓所の入り口へとたどり着き、切らせた息を整え涙を擦ると、叔父に殴られた頬が今更になってズキリと痛んだ。


 その痛みに、里桜の涙が反応でもしたかのように滝の様にだらだらと流れ出した。


 だめ。こんな顔、お母さんに見せられないよ。きっと、心配させちゃう。がっかりさせちゃうよ。


 彼女は墓所の入り口で泣きじゃくりながらしゃがみ込んだ。ガクガクと震える体は恐怖に支配され、自分の制御が一切効かなくなってしまったようだ。


「どうして、私も一緒に連れて行ってくれなかったの? お母さん……」


声すらも震えた。自分のその声に情けさを覚え、里桜は歯を食いしばって蹲った。


 白い太陽の日差しが容赦なく照り付ける。時間は誰にも平等とは言うが、だからこそ酷でもある。日が高くなるにつれ、彼女の頭は冷静になっていき、逃げ場の無い現実をつきつけられるかの如く、喉の渇きに気がついた。


 まいったなぁ。学校をサボっちゃった。しかも二度とあの家には帰れない。帰りたくない。大学に行くお金も無くなった。それどころか、生活すらどうしたものか。


 深いため息をつき、辛うじて持ち出した鞄の中を探って財布を取り出す。千円札が三枚と、小銭が少し。それと、バイト先の中年男性から半ば強引に買わされた宝くじ。


 苦笑いをし、財布を鞄にしまった。宝くじの抽選結果はとっくに出ているだろうけれど、これ程の不幸続きの自分が当たるはずも無い。それよりも、これが数百円の現金であった方が、今はどれほどに有難いか。


 行く当てもなければ喉も乾いた。おまけに顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの為、人気のない神社へと向かった。


 手水舎の水で顔を洗い、ぐびぐびと飲むと、水のお礼に5円だけお賽銭を入れ、手を叩いた。

 サアっと、心地よい風が頬を撫でる。風に乗って香木か何かの、甘い良い香りが里桜の鼻をくすぐった。


 なんとなく元気を貰った様な気持ちになり深呼吸をすると、近くのベンチに腰を下ろした。困ったときの神頼みとも言うが、普段から信心深くもなんとも無い自分は、まさにそれだな、と思って苦笑いを浮かべる。

 里桜は神頼みついでに宝くじの抽選結果をスマホで見てみることにした。


「……ウソ……」


 ポツリと里桜は呟いて、何度もスマホに表示されている番号と、宝くじ券を見比べた。カタカタと手が震える。震える手で恐る恐る宝くじを財布にしまい、その財布を鞄へと丁寧に入れた後、その鞄を抱きしめるように抱え込んだ。


(3憶。当たった……)


 ウヒャーーーーッ!! っと叫びたくなるのを彼女は必死で飲み込んだ。

 ちょ、ちょっと待って。それだけお金があれば、大学なんて余裕じゃない!? 住むところにだって困らない。この先の生活だって、贅沢さえしなければ不自由無いじゃない!?


「やったぁ……あ!」


 控えめに、且つ、心の底から絞り出すかのように里桜は叫んだ。

 もう、最高。私の人生で一番幸せな瞬間なのかも。そう、世の中お金が全てを支配するのだもの! お金があれば、お父さんがあんな風にならなかっただろうし、お母さんも……。


 いや、両親の事なんかどうでもいい。私は絶対に人を好きにならないし、結婚もしないだろう。子供の頃の夢は『お嫁さんになりたい』なんて可愛らしい事を言っていたけれど、そんな事は最早どうでも良いことだ。お金さえあれば、人に頼る事を最小限にして生きる事ができるのだから。誰にも邪魔されず。人に関わる事も無く。


『助けて!! 誰か、誰か助けて!!』


どくん……と、里桜の心臓が激しく鼓動した。


……何? 今の。私の声じゃない。誰?


『お願い! 誰か! 助けて!!!!!!!!!!!!!!!!!!』


 眩い光に包まれて、里桜は眉を顰めた。何? 何なの? UFOか何か?? それとも、ミサイルでも振って来たとか!? ちょっと、冗談でしょう! 私は今からやっと幸せな人生を歩むの! 絶対に死んでなんか堪るもんかっ!!


……いや、待てよ?


 嫌に冷静になって、里桜は考えた。こんな最低な人生から抜け出して、別の人生を歩むのもいいかもしれない。どうせなら、日本では無いどこかの異世界で、絶世の美女になれたらいい。物語に出て来るようなお姫様で、お金にも周囲にも何不自由なく暮らしていければいい。白馬の王子様なんて要らない。ただ、今とは全く違う私になれたらどれほどにいいだろうか……。


 そう、願わくばサラサラの金髪に神秘的な蒼い瞳のお姫様……いや、女王様がいいな。両親もいらない。勿論夫も要らない。自分の国で、悠々自適に幸せに暮らせたら、どんなにかいいだろう。


 フッと光が消えた途端、里桜は人々の視線に囲まれた中にポツンと立っている事に気づいた。


……ン? どこかな、ここは?? と、瞳をパチクリと瞬きし、辺りを見回した。


 なにやら宗教じみた長いローブのようなものを身にまとった人たちがじっと里桜を見つめている。何見てんの? と、瞳を細めて里桜が睨み返すと、先ほどの神社では無く、ここがどこかの屋内だということに気づいた。


 大理石の柱に床。石造りの壁。先ほどの神社とはうってかわり、随分と西洋風だと小首を傾げた。


「勇者様の召喚が成功しましたぞ!!」


クリーム色のローブを身にまとった老人がそう叫ぶと、他の者達も皆「勇者様!!」と口々に言った。どうも自分を見て言っているように感じる。


 この人たち、完全にイカレちゃってる……。と、唖然とする里桜の前に、純白の豪華なローブを身にまとった女性がしずしずと進み出て優雅に跪いた。


 金色の長い髪が大理石の床にまで続く。里桜の髪も随分と長い方ではあるが、彼女には負ける。金髪の女性は息を呑む様な絶世の美女だった。黄金色の長い睫毛に、蒼く神秘的な瞳。陶器の様な白い肌。


 まるで理想のお姫様像をそのまま実写化したようなその姿に、思わず里桜は見惚れてしまった。


「勇者様。よくぞ我召喚に応えてくださいました」


恭しくそう言った彼女の言葉にポカンと口を開け、里桜は間抜け顔を晒した。


「えーと、勇者って、私? 貴方は誰?」


念のため確認しておこうとそう聞くと、周りに居た者達がざわついた。


「勇者様。この方はですな……」

「私はアシェントリア女王エルティナ・ヴァレイヌ・アシェントリア。此度は勇者様にお願いがあり、召喚致しました」


 傍らに居た位の高そうな身なりの老人が言う言葉を遮り、エルティナ女王様とやらが深々と頭を下げてそう言った。


 何なのコレ。ドッキリかなにか? こんなバカげた状況を信じるか信じないか試してるってこと? どこかにカメラが隠れてるのかな?


 里桜は脳内をフル回転させて考えた。


「召喚……ねぇ」


 ふぅ、と、ため息をつき、面倒だから乗ってやるかという考えに収まった。そしてさっさとこの茶番を終わらせ、宝くじを換金しに行くんだっ! と、意気込むと、さっと手を掲げて悠然たる態度をとって見せた。


「そなたらに召喚されし我こそは、勇者里桜。願いとは何か!」


棒読みでわざとらしくそう言ったというのに、周りがざわざわとざわつき、「勇者リオ……」と、口々に唱えたので、今更に恥ずかしくなり、里桜は顔を真っ赤にした。


 しかし、ローブを身にまとった連中達が女王様役の女性を見習うかのように次々と跪いたので、里桜は掲げた手を引っ込める事も何もできず、固まった。


「願いというのは、他でもございません。隣国である、魔国ムアンドゥルガの魔王を退治して頂きたいのです」


……なんてファンタジー的展開。女王様の次は魔王様ですか。わかったわかった。乗ると決めたからにはとことん乗ってあげるよ。


「魔王退治か。承知した。ではさっそく参ろうではないか」

「願いを聞き入れて頂き、感謝致します!」

「おお! 勇者様!」

「勇者様!!」


這いつくばった連中達が、称えるように口々に里桜を「勇者様!」と連呼するので、里桜はむずかゆくなって苦笑いを浮かべた。この人達、ホント、バカみたい……と、心の中で冷笑する。


「ではさっそく旅支度を致しましょう。こちらへ」


 促されるまま鉄製の扉の外へと出ると、赤い絨毯が続く長い廊下へと出たので、里桜は頭の上に「?」を沢山浮かべた。


 やけに凝ったセットだ。ここまで作り込むだなんて、随分なお金をかけているのね。スポンサーはどこかな。等と思いながら、彼女は騎士風の恰好をした人たちと一緒に先導する、ローブを着た老人の手を見つめ、ヒヤリと鳥肌を立てた。


 老人の手の上には懐中電灯があるのかと思いきや、光るボールのようなものが宙に浮き、辺りを照らしていたのだ。


「……ねえ、それ、何?」

「光の魔法ですじゃ」


語尾に『じゃ』をつけて喋る老人なんて、初めて見た。と、笑いそうになるのを必死にこらえ、里桜は続けた。


「光の魔法って?」

「おや、勇者様はご覧になったことが無いのですかな?」


老人はニコリと微笑むと、その光るボールを指先で操る様に空中を漂わせ、里桜の周りを一周させて見せた。


 さ、最近の演出ってスゴイ。どこかに3D映像の投影装置があるのかなと、里桜はゴクリと息を呑んだ。


「へ……へえ。光の魔法以外にも、おじいさんは何かできるの?」

「ワシは王宮魔術師ですからの」


 老人は得意げに胸を反らせると、炎の玉や氷の粒を出して見せた。里桜は見てはいけない物を見てしまった気分になり、つっと目を逸らしたが、逸らした視線の先に窓があり、窓の外には彼女の見たことも無い異国の風景が広がっていたのだから、思わず「ひぃいい!!」と悲鳴を上げた。


「?……勇者様?」

「ちょ……ちょっと待って、ここ、何処!?」

「聖王都アシェントリアの王宮です。」

「なんで私ここに居るの!?」

「魔王討伐の為、勇者様を女王陛下が召喚されました。……勇者様、大丈夫ですか?」

「大丈夫なワケ無い!!何それ、どうしたらいいの!?」

「突然召喚されたのですから無理も無いですな。ですが、ご安心なされよ。旅支度は全て整えております」


いや、安心できないから、それ!!


「女王陛下が勇者様の為に、それはそれは見事な甲冑を……。」


と、言いながら、老人はチロリと里桜を見つめた。


「勇者様は随分と小柄でいらっしゃるので、甲冑はサイズが合わないかもしれませぬな。いや、まさかこのような、一瞬女性かと見まごうような少年が勇者様とは思いもせなんだもので」

「ちょっと待った、私は……」


そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。里桜の脳裏に今朝の出来事がまざまざとフラッシュバックされる。


 震えながら、里桜は叔父に掴まれた手首を見つめた。くっきりと、赤くまだ跡が残っている。殴られた頬の痛みも僅かながら残っている。


 自分が女性だと、ばらさない方が好都合かもしれない……。魔王を倒す為の人身御供だとか、何かの捧げものだとか、女性ならではの危険を被る可能性があるのだ。そうなれば、日本に帰れなくなるリスクが高まるばかりか、自分の身を一層危険に晒してしまうと言えるだろう。危なかった。


「それにしても、勇者様のそのお召し物は変わっておりますな。見た事も無い素材ですし、流石異世界より召喚された方は一味違いますな」

「ただのジャージだよ」

「じゃーじというのですか。素晴らしいですなぁ」


 別に素晴らしくもなんともない。大体ね、私からしたらあなたたちの方が異世界なんだってば。と、里桜は頭痛のする頭を抑えた。


 着替えが置いてあるという部屋に通され、侍女らしき方々が出迎えたので、女性だとバレる訳にいかない里桜は焦りつつも冷静に嘘をついた。


「私の背には、魔王を封印する為の印がある為、人に見られては困ります。着替えは一人でさせてください」

「なんと、それは大層な……。承知致しました、皆、席を外すのだ」


 ゾロゾロと部屋から退散する侍女達を笑顔で送り出し、部屋の扉をピッタリと閉じると、里桜は一目散に部屋の窓へと駆けた。


 冗談じゃない。魔王討伐だなんて大学受験を控えた一般市民の女子高生の私ができるはずがないでしょ! さっさとここから逃げ出さないと、大変な事になってしまう。ただでさえ不幸だというのに、ここまで不幸になってどうするの私!!


 窓の外を見下ろし、里桜は愕然としてペタリと床に座り込んだ。奇しくもこの着替え用の部屋に宛がわれた場所は、王宮の一番見晴らしの良い断崖絶壁に位置していたのだ。これでは逃げるイコール死だ。絶望に打ちひしがれ、彼女は暫く座り込んだ。

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