第9話 ユイの失敗

「か、火事だ!」

 突如、何処からともなく発せられたその叫び声は、瞬く間に大使館中に響き渡った。


 館内にいた人々は予期せぬその声に驚くと、慌てて各部屋や職場から廊下へと顔を覗かせる。そして彼らは、モクモクとした煙が、三階の廊下から下へ向かって広がり始めようとする光景を目にした。


 煙は瞬く間に館内に立ち込め始め、燃え盛る炎の音が人々の鼓膜を震わせると、彼らはたちまちパニックに陥る。

 そしてそれはこれからムラシーンと連絡を取り、ユイを軟禁する為の計画を練ろうとしていたホイスとて例外ではなかった。


「馬鹿な、火事だと! クソ、なんでよりによってこんな時に」

 火の不始末をした人間に対し、心の中で散々毒づきながら、ホイスは一心不乱に部屋を飛び出した。そして彼は一目散に、大使館の入り口に向かって駆け出す。

 彼がたどり着いた大使館の入り口では、同じように館を脱出しようと殺到した職員たちが我れ先にと外へ飛び出す姿がそこにあった。


 もちろん当然のことながら、仕事よりも命を優先して、館外へと逃げ出そうとすることはやむを得ないといえよう。

 だからこそその場にいた誰もが、人がいなくなるや否や、館内の機密書類を漁り始めようとする人間が存在するなど、思いもしていなかった。


「一体何が起こった? 火の不始末をした奴は誰だ!」


 どうにか庭へと脱出することに成功したホイスは、大使館の三階の窓から煙が天に向けて舞い上がっていく光景を目にして、部下たちに向かい怒鳴り散らす。


「わかりません、火事の叫び声を聞いて、初めて私も事態に気づきまして……」


 部下の一人が、突然の出来事に動揺を隠せない様子ながらも、自らの置かれた状況を説明する。

 ホイスは他の職員に対しても順番に詰問していったが、誰一人として今回の火事の発生原因がわからず、役に立つ回答を返すものはいなかった。


 そうして彼が犯人探しに狂走している間にも、大使館を包む炎は一層強さを増し始める。

 すると、その炎が一層強くなったタイミングで、命からがらの体で大使館から飛び出してきたクレイリー達の姿をホイスは視界に捉えた。


「閣下は、閣下はどうされている?」


 クレイリー達一行の中にユイの姿を認めなかったホイスは、動揺の隠せぬ声で彼らに向かいそう問いかける。


「旦那でやすか? 大使館内に残った者がいないか確認すると、部屋をいくつか見まわっていやした。でも、さすがにもうすぐ出てくるはずでやすぜ」


 クレイリーがそう答えたタイミングで、大使館からの最後の脱出者となったユイが、炎に追い立てられるような格好で、転がりながら飛び出してくる。


「ふぅ、危ない危ない。もう少しで炎に飲み込まれてしまうところだったよ」


 何らかの荷物を詰め込んだ肩袋を地面に下ろすと、ユイは右腕で額の汗を拭い、大きな安堵の溜め息を吐き出した。


「閣下! ご無事でしたか?」

「ああ、私は大丈夫だ。中を見まわった限りは取り残された人はいなかったけど、他の職員の確認は済んだかい?」


 ホイスの問いかけを受けて首を縦に振ると、ユイは他の職員たちの安否を彼へと問い返す。

 その問いかけを受けた瞬間、今回の火事の責任追及にばかり思考が周り、他の職員の生存のことが頭から抜け落ちていたことにようやくホイスは気が付いた。そして彼はうつむき加減のまま、気まず気な表情でユイに返答する。


「いえ、まだ確認をしておりません……」

「なにをやってるんだい。君が率先してくれないとダメじゃないか! まずは大使館職員全員の無事を確認すること。それが最優先だ。私はキスレチン共和国の大使館に、火が燃え移る危険性を警告しに行く。君は今すぐに職員の安否確認を開始したまえ!」


 初めて受けるユイからの叱責に、ホイスは一瞬凍りつく。しかし、すぐに自らの過ちを認めると、それ以上反論を述べることなくユイの命令を了承した


「わ、分かりました。すぐに確認を行います」


 頬を引き攣らせたホイスはそれだけを述べると、ユイの前から逃げだすような格好で部下たちの下へと駆け出していった。

 一方、厳しい表情で彼を叱責したユイは、すぐにいつものゆるい表情となると、彼につき従う一同へと視線を移す。


「まあ既に全員脱出していることは、彼女とともに既に確認済みなんだけどね。ともかく、邪魔者には適当な用事を押し付けたことだし、この隙に逃げ出すとしようか」


 館を脱出する直前に、彼の下へと報告に駆けつけた黒髪の女性の事を脳裏に思い浮かべながら、ユイは一同に向かってそう口にした。


 そして彼はカインスに背負われたリナの震える頭を一度撫でると、大きな肩袋再び担ぎ直す。

 そのまま彼は一同を先導する形で走り始めると、周囲の誰からも呼び止められることなく大使館の門をくぐり抜けていった。


 完全に監視の目がなくなったことを確認したクレイリーは、背中越しに先頭を行くユイに向かって一つの疑問をぶつける。


「旦那ぁ、あの策は何時から考えていたんですかい?」

「策? ああ、大使館を燃やす手かい。いやぁ、あれは私が大使なのに開示してくれない資料があまりに多くてね。なんとか機会を見計らって、そのあたりを見てやろうとは思っていた時に思いついたものの一つさ。さすがに実際に使う機会はないと思っていたけど、いやはやどんな手段でも考えておくものだね」


 苦笑しながらユイがそう答えると、背後からクレイリーの呆れた声が返される。


「しかし火事を起こすことで機密資料の置かれた部屋から職員を追い出せる上に、資料を抜き出した証拠まで消してしまうとは……なんていうか、旦那の悪知恵って本当にたちが悪いでやすよね」

「そんなにたちが悪いかな。私としてはあまり自覚がないんだけどねぇ」


 ユイが首をわずかにひねりながらそう感想を漏らすと、クレイリーばかりかカインスまでが思わず苦笑する。

 そんな会話を挟みながらも、一行はしばらくの間、大使館から少しでも距離を稼ぐためにセーブルの道をまっすぐに走り続けた。


 どれだけの時間を駆け続けただろうか。いつしか大使館の煙が細い糸のように見える距離まで遠ざかると、ようやくユイは足を止めて一息つけた。


「ふう……取り敢えず、これぐらい離れれば大丈夫だろう」

「それで旦那。これからどうしやす?」


 大きく一つ深呼吸をしたユイに対し、クレイリーは今後の予定を尋ねる。


「理想はセーブルをこのまま出て行く形だね。申し訳ないんだけどカイル、そのフードは外せないのかな? リナはノアの買ってきてくれた服を着れば問題ないだろうけど、君のフード姿はさすがに門の守衛官に止められると思うんだ」


 弱ったような笑みを浮かべながらユイはそう尋ねると、カイルはやや迷った様子を見せながらも首を左右に振る。


「すいませんが、市内でこれを外すわけには……ましてや守衛官の前ではちょっと」

「……やはりそうか。だとすると、どうするかな」


 特別な通路を使用して街の内外を移動していると口にしていたことからも、ほぼ正確に彼の事情を察したユイは、それ以上彼を追求することはなかった。そしてユイはその場で腕組みをすると、王都からどの脱出方法を選択するのが有効か、思案を開始する。


 しかし、そんなユイの思考を邪魔するかのように、少し後方にいたナーニャ歩み寄ってくると、満面の笑みを浮かべながら彼の肩をポンとたたいた。


「隊長。街から出るなんて簡単さ。アタイがそこの城壁を壊して、そこから――」

「却下」


 完全な力技の方法を提示しようとしたナーニャの発言を途中で遮ると、ユイはあっさりと不採用を宣告する。


「ちょ、なんでだい? 隊長の大使館を燃やすアイデアより、よっぽど誰も危険に晒さないし、遥かにまともなアイデアじゃないか」


 最後まで提案を語り終えることなく途中で拒否されたナーニャは、不服そうに口をとがらせる。

 もちろんユイの中の選択肢として、ナーニャの魔法を使用した上で、城壁を破壊し強行突破を図ることは選択肢の一つとして存在していた。


 しかしながら、大使館の炎上はクラリス内の問題と強弁できるが、城壁破壊は明らかにラインドルに対する破壊行動である。現状として、まだラインドル王国自体と正面から対峙するのは時期尚早と考えていたこともあり、それ故にユイとしてはまだナーニャのアイデアを採用するわけにはいかなかった。


「さしあたって取り得る選択肢は二つだね。カイルとここで別れて市外で合流するか、それともカイルに頼んで市外への通路を……」


 カイルを横目でちらりと見ながら持論を述べ始めるも、彼は途中で口を閉じる。それは自分たちの周囲を、見慣れぬ武装した者達が取り囲もうとしだしていることに気がついた為であった。

 ユイは仕方ないとばかりに一度頭を掻くと、改めて周囲を取り囲む者達に向かい、やや大きな声を発する。


「さて、君たちが誰かは知らないけれど、私たちに何か用かな?」


 ユイのその問いかけに対し、十数名に及ぶ男たちの中からリーダー格と思しき男が、一歩前に進み出てきた。そして彼は、ユイに向かって抑揚のない声で警告を発する。


「ユイ・イスターツ、貴様を拘禁する。大人しく我々に従うか、それともここで命を潰えるか、好きな方を選ぶがいい」

「はは、これはまた突然の話だね。私はクラリスの大使なんだけど、その辺りの外交的事情も理解した上で、拘禁しようとしているのかな?」


 前へと進み出てきた男に向かい、ユイは両手を左右に広げながら確認するように問いかける。

 それを受けたリーダー格の男はニヤリと右の口角を吊り上げて見せた。


「貴様が我らの兵士に対して窃盗を行った棄民を連れていること、そして何よりレジスタンスに連なる者を匿っていること、これらは既に調べが付いている。まあ、その棄民とレジスタンスを我々に突き出すというのなら、同盟国の大使として多少は寛大な処置も考えるところだが、さて如何かな?」


 その男の言動を耳にした瞬間、ユイは眉をピクリと動かす。

 ユイ達の行動をまるで監視していたかのように、これまでの事態の推移を理解し、そして立ちどころに彼らを補足してみせた手際の良さ。


 この二つの事実を踏まえた上で、ユイはこのような状況が生み出される可能性を脳内で素早く整理していく。すると、ユイの脳裏には一人の女性の姿がくっきりと浮かび上がることとなり、彼は一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


 しかしまずは現状の打開を優先すべきと考えると、彼はすぐに思考を切り替える。そして目の前の男たちを前にして、ユイは頭を掻いてみせた。


「突き出す、突き出さない以前にさ、このように取り囲むのではなく、正式な手続きを経てから話し合いをすることにしないかい? もし君たちに、良識と常識というものがあるのならね」


 口元を歪めて皮肉交じりにユイがそう言い放つと、彼の背後から「良識と常識って……よりによって旦那が言いますか」という声が、彼の耳に入る。

 クレイリーめと内心で思いながら、ユイは感情を表情に表すこと無く、リーダー格の男をそのまままっすぐに見つめ続けた。


「そうか、わかった。あくまで貴様らは、犯罪者達の味方をするのだな。だとすれば、我々も力で持って、貴様らを排除せねばなるまい」

「いやいやいや、私の話をちゃんと聞いているかい? 味方をする、しない以前に、正式な手続きを済ませてから、再度私の下へ来てくれないかと言っているんだが……」


 最初から台本に用意されているセリフを、会話の齟齬を無視しながら読み上げているかのようなその男に対し、ユイは困ったような表情を浮かべながらそう述べる。

 するとそんなユイに対し、彼の背後で周囲を警戒していたクレイリーが、目の前の男たちを揶揄する声を放った。


「旦那、そんなこと言っても無駄ですぜ。既に脚本が出来上がっているわけで、目の前のおっさんにアドリブを求めるのは、いささか酷っていうものじゃないでやすかねぇ。だいたい旦那の論法に引きずられると、脚本からのズレがひどくなるのは目に見えてやすから、むしろあっしとしては賢い方法を選択したと感心さえしやすぜ」

「まあなんていうか、宮仕えってのは嫌だよね。いくら理不尽で無意味なことでも、上が言うからには従わなくてはいけないからさ。ほんと同情するよ。君もその口なんだろ?」


 明らかにこの場で行われるのにはそぐわぬ問いかけを受けて、ユイの眼前に立ちはだかる男は初めて動揺を見せる。


「な、なにを言っている。今のこの状況がわかっているのか?」

「だいたいさ、あんな若い子や幼い子どもを捕まえてもなんになるんだい。おそらくクラリスと事を起こすきっかけを欲した、宰相殿の筋書きなんだろうけどさ。でも、いささか性急すぎる気もするし、あまり出来のいい脚本じゃないと思うんだ。だからさ、出演俳優としては少し筋書きの変更を要求したいところなんだけど」


 ユイはそう述べ終えると、その場で深い溜め息を吐き出す。

 一方、図星を付かれた焦りからか、リーダー格の男は怒りの感情を含ませた声で、部下たちに向かって指示を下した。


「くそ、好き勝手言いおって。これ以上、我らの間に言葉は必要ない! 此奴らはただの罪人だ。者ども、囲め!」


 彼がそう宣言した瞬間、周囲を取り囲む者達は一斉に武器を握り直し、ユイたちに対する包囲を縮め始める。

 そんな光景を目の当たりにして、ユイは弱ったように頭を掻いた。


「最初からさ、なにも取り繕わずそう言えばいいのに……しかし説得は失敗か。実に残念」

「旦那ぁ、本当に説得する気なんてあったんですかい?」

「あるに決まっているだろう。説得だけで済めば楽でいいじゃないか」


 クレイリーの問い掛けに対し、何を言っているんだという表情を浮かべながら、ユイはすぐに言い返す。

 戦いを目の前にした状況での、ユイたち二人による意味があるとも思えない会話。

 そんなくだらないやりとりに苛立っていた人間は、敵対する兵士たちだけではなく、ユイたち一行の中にも存在していた。


「あんたら話が長いんだよ。喧嘩はね、まどろっこしいこと抜きが一番さ。喰らいな、フレイムバースト!」


 もはや我慢ならないという表情を浮かべた赤髪の女性は、先手とはこうやって取るんだとばかりに、灼熱の炎を一気に編み上げると前方へ射出する。

 彼女から放たれた炎は、小爆発を伴いながら前方へと拡散していき、兵士たちによって築かれた円状の包囲網は、一瞬にして瓦解した。


「隊長。取り敢えず目の前の奴らは、アタイの獲物だ。手を出すんじゃないよ。いいね?」


 既に手を出した後に許可を求めてくるナーニャに対し、ユイは呆れたように右の手のひらで自らの顔面を覆うと、彼女に向かってその行動を追認した。


「……ああ、もう好きにやってくれ。ただし長居は無用だから手短にね」

「了解! じゃあ、行くよ。ファイヤーアロー!」


 ユイの許可を受けたナーニャは、嬉々としながら許可を受ける前から既に編み上げ始めていた二発目の魔法を前方へと放つ。そしてそのまま彼女は、前方に向かって駆け出した。


「まったく……あれだけ大使館の中で炎をばら撒いたのに、まだ火遊びする気なのかい」

「ははは、隊長。ナーニャにそんなこと言っても無駄ですよ。ところで、オイラも少し弓を馴らしておきたいんで、リナをカイルにお願いしてもいいですか?」


 しんがりで後方を警戒していたカインスは、後ろから距離を詰めつつある敵兵を睨みながら、ユイに向かって背中越しにそう問いかける。


「ああ、後方は任せた。あと右手はクレイリーで、左は……仕方がないから私が担当しよう。カイル、君はリナとノアを見ていてくれ」


 生死をかけた戦場を目当たりにして、ノアとリナは足がすくんで動けなくなっていた。だからこそユイは、カイルに向かって彼女たちの護衛を依頼する。


「そんな……僕だって戦えます!」

「万が一君が怪我をしたら、誰が私達をレジスタンスの下へと案内してくれるんだい。それに第一、君は本来前線に出るべき人間ではないだろ? それは君自身が、一番わかっていることだと思うけど」


 自らの腰に下げた刀の柄に手を伸ばしながら、ユイは近づいてくる敵兵を威嚇しつつ、背中越しにそう言い放つ。

 すると、カイルはユイのその言葉に衝撃を受け、驚愕の表情を浮かべた。


「そっ、それはどういう……」

「残念ながら、今はおしゃべりをしている時じゃないな。とにかくなにか危険が迫ったらすぐに私を呼んでくれ。それじゃあ、彼女たちを頼んだよ」


 それだけ告げると、カイルにその場を任せ、ユイは一足飛びに駈け出していく。

 周囲を見渡すかぎり、三倍以上の人数差となる戦い。

 それ故に、その場を任されたカイルは、自らも戦いに加わらなければという強い焦燥感を覚えていた。


 だがそんな彼の感情は、目の前の予想だにせぬ光景によって、立ちどころに塗り替えられていく。

 もちろん実際に彼の目の前で繰り広げられている戦いは、人数差に大きな開きがある戦いであることは間違いない。しかしそれ以上に覆しようのない差が、ユイたちと敵兵たちとの間には存在していた。そう、技量という名の明確な差が。


 ナーニャが攻勢魔法で数名を同時に薙ぎ払えば、クレイリーは槍のリーチの長さを有効に活用しながら、確実に一体ずつ敵兵を葬り去っていく。そして先程までリナを背負っていた温厚なカインスも、その大柄な体からは想像もできぬほど正確な射撃で、次々と敵を射抜いていった。


 ユイの部下たちの圧倒的な力量。

 それを目の当たりにしたカイルは、焦りととも僅かな高揚感に包まれる。そして何より彼の視線を捉えて離さないものは、英雄と呼ばれる黒髪の男による、これまで目にしたこともない戦闘術であった。


 東方で製造されると伝え聞く反りのある剣を手にした彼は、剣技の中に蹴りや投げなどの体術を織り交ぜる独特のスタイルで、まるで演舞のように軽々と立ち回りながら、瞬く間に敵を制圧していく。

 その美しいとまで言える戦闘風景に、カイルの胸はますます熱くなり、そしてそれが彼の背中を押してしまう原因となった。


 カイルはユイの剣技に圧倒され、彼に立ち向かうことに躊躇している一人の敵兵の存在を視界に捉える。剣を手にしながらも、腰が引けている彼を、カイルは自分でも十分に倒すことが出来る相手と認識した。

 周囲をぐるりと見回し、彼はほぼ自分たちと敵兵との間に人数差が消失していることを把握すると、腰に下げていた剣を握りしめる。そして再度周囲に敵兵がいないことを確認し、リナたちに危険はないと判断すると、彼女らをその場に残したまま彼は戸惑っている兵士に向かって躍りかかっていった。


「僕だって、僕だって戦えるんだ!」


 カイルの存在に気がついた敵兵は、ユイとは異なって与し易しと判断すると、先程までの躊躇など何処かへ投げ捨てて剣を握り直す。


 一合、二合、三合。


 敵兵とカイルの剣は火花を散らしながら交錯する。

 そして四合目の交錯を二人の剣が重ねた瞬間、突然カイルの鼓膜には後方から発せられた女性の叫び声が飛び込んできた。


 慌てて敵兵と距離を取り、カイルは後方を振り返る。

 するとそこにはリナを抱きしめたまま、恐怖のあまり顔を引き攣らせて尻餅をついているノアの姿があった。


 カイルはなぜ彼女が叫び声を発したのか理解できない。しかし、ノアの視線が近くの建物の上方を捉えていることに気がつくと、その視線を追った彼はそこに氷の魔法を編み上げようとする一つの影を認識した。


「魔法士!」


 カイルは思わず驚きの声を上げる。カイルは慌てて彼女らの下へと駆けつけようとするが、彼のそんな隙を対峙していた兵士は見逃してくれなかった。


 取ったはずの距離は瞬く間に詰められ、カイルは振り下ろされる剣を、自らの剣で慌てて受け止める。

 そして事ここに至り、彼は初めて自らのしでかした失態を理解した。だからこそ、彼は恥も外聞も投げ捨てて黒髪の男の名を叫ぶ。


「ユイさん、助けてください。リナたちが魔法士に!」


 目の前の男と対峙しながら、カイルはあらん限りの声でそう叫んだ。

 その彼の悲痛な声がほぼ眼前の敵を一掃しつつあったユイの耳へと届くと、彼はすぐさま後方を振り返る。


 そしてカイルが何故か前方に釣り出されてリナたちの側を離れてしまっていること、そして敵の魔法士が無抵抗のリナたちを狙おうとしていることを瞬時に理解すると、ユイは全力でその場を駆け出し一つの呪文を口にした。


「マジックコードアクセス」


 彼がその呪文を口にした瞬間、建物の屋上に潜んでいた魔法士の魔法は急速に外部から侵食を受け、一瞬にして八割近くの法則が書き換えられる。

 そして彼はその氷の軌道をリナたちではなく、カイルと対峙している兵士に向けて修正すると、キーとなるコードを口にしようとした。


 しかしまさにその時、屋上を目視していたユイは、氷の呪文を作り上げていた魔法士の隣にもう一つ影が存在することを視界に捉える。そのユイの視界に映ったもう一つの影は、両手を前方へと突き出すと、躊躇することなく編みあげ終えた風の魔法を解き放った。


「ウインドカッター!」


 二人目の魔法士の声が周囲に響き渡った瞬間、彼の手元からリナたち目掛けて風の刃が解き放たれる。


「まずい……リナ!」


 ユイは乗っ取っていた魔法式を拡散させて手放すと、手に持っていた刀さえ投げ出し、全力でリナの下へと駆け出す。そして風の魔法が彼女たちに直撃する直前に、ユイはリナとノアへと跳びかかるような形で二人に覆いかぶさった。

 そして次の瞬間、その空間には赤い色が迸る。


「旦那ァー!」


 異変に気がつき後方を振り向いたクレイリーが目にしたもの。

 それは一人の英雄の首元から吹き上がる紅色の液体が、セーブルの大地を紅いキャンバスへと書き換えていく光景であった。

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