馬鹿で愚かで賢いやり方

 三十分。

 どう急いで盤面を整えても、それだけの時間を要してしまった。校舎内にある生命が三つばかりであるという点では、常時よりも格段に速く整えられてはいるのだが、三十分……少々納得しかねるタイムではある。もう少しだけでも速く、せめて二十分程度であれば納得もできるのだが、もう少し速く動けたのではないか、だなんて、酷い話か。

 今は労っておこうかな。

 自分自身を賛美して、これなら行われる試練に立ち向かうとしよう。

「どうでもいいか」

 あの言葉はボクに勇気をくれる。

 だからそれ以外の全てはもう、どうでもいい。

「——————ッ」

 千年万年先輩と人狼は、ボクが逃げ出したあの場面から変わることなく二階生徒用玄関奥の階段前にて戦闘を行なっていることは既にこのロクに役にも立てない裏方向きの千里眼で確認済みだ。いや、ボクの素人目から見て戦闘を行っているように見えるだけで、きっと、見る人が見れば圧倒的なまでの差というものがそこにはあるのかもしれない。悪い言い方をすれば一方的虐殺というヤツだ。そこはどうにも言い切ることが叶わないが、いや、それすらもどうでもいいか。

 誓ったのだから、どうでもいいのだ。

 正攻法なんてクソ喰らえだ。

 今回のボクはちょびっとばかし、はっちゃける。

 戦闘現場介入まで予測二十秒。

 十九、十八、十七、十六、十五、十四、十三、十二、十一、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一ッ——‼︎

「先輩! 一歩左‼︎」

「——⁉︎」

 そう叫ぶと同時に、先輩の退避なんて微塵も気には留めず何気にこの時初めて消火器というものを使用した。ホースの先を右手で本体の赤いタンクを左手で掴み、人狼に向かって白煙を噴出する。狼というからには鼻もいいのだろうが、そんなところまで気にしてちゃどうにもならんというものだ。まずは何よりも"異常事態"と"視界の奪取"。逃走にはそれが必要だ。

 パーフェクトゲームなんざ別に求めていないのだから、程々に手を抜いて勝つくらいのことはやってみせるさ。

「逃げますよ!」

 十秒ほどで噴射を止めた消火器を少しばかりの足しとして人狼の元いた地点へと放り投げて、次の一秒で千年万年先輩の位置を把握し手首を掴み逃げ出す。驚きと戸惑いに満ちた顔をしていると思いたい千年万年先輩の手を引いて、ボクは一気に三階まで階段を駆け上がった。

「手短に説明します。ボクはあの長時間を使って、三つの対抗手段を模索し、トラップを作成しました。しかし前半二つは期待もできない足止めです。メインは最終三つ目なのですが、一人では色々と厳しいので二人で行いたいと思います。まずは三階にあるもの、次に一階、そしてその次は体育館となっています。トラップの説明はちょいとばかし面倒なのでその都度手伝って頂く内容のみ説明させていただきますね」

「——……!」

 多分通じた。

 握っていた千年万年先輩の手首を放し、下の階から聞こえてくる怒りの咆哮にビビリ散らかし走行スピードを上げる。焦っていたこともあり上記の説明で正確な内容まで説明することが叶わなかったので、明らかにボクなんかよりも足が速いであろう千年万年先輩を先に行かせてあげられないことは悔やまれるが、これ以上上手くやれって方が無理である。ボクは、ちょろっと目が良いだけの殺人鬼と殴り合いする程度のスポーツしか嗜んでいない一般人なのだ。過度の期待は御法度ってーモンだこんちくしょう。特別になりたい。

 やってやらぁ、やってやらぁ。

「……ああ、そうだ。破魔先輩から先輩の六感について聞きました」

「——……」

 ボソボソと、聴き取り辛い声量で。尚且つ芯まで震えた声で千年万年先輩は言う。

「いえいえ、ボクが聞いた訳ではなく、あちらさんが勝手にぺちゃくちゃと喋りまして。はい。ボコすなら破魔先輩を、来周にでも」

「——————」

「その……何と言いましょうか。いえ、今回ばかりは素直に言いましょうか。ありがとうございます、ボクなんかのために傷ついてくれて。あなたが受けた傷の分、ボクは努力させていただきましょう」

 誰か傷ついたから強くなれる、なんて物語の主人公みたいな行為をボクに求められても困りものだけれど——自分のために傷ついてくれた他人がいた時に覚悟を決めるくらいなら、できるのかもしれない。いや、そう在らなければいけない、と表現した方がこの場合正解なのかもしれない。

 いつか、自分かのじょが取り決めた。

 ボクじゃないボクの希望に極力添いたいのだ。

 遠い昔のようにも思うが、しかし、実際はそう遠くはない過去。過去からの呪縛、ボクの罪、捨てたもの、捨てた人。

「いやはや、まったく……」

 隣を走る千年万年先輩にも聞こえないほどの小さな声で、ボクはそっと呟き捨てる。

 ああクソ。今はそういうキャラクターじゃなくて、相手が相手だからちょいと昔のキャラクターで行こうと思ってたんだけど、ままならないなぁ。残酷に行くならあっちのが適任なのに、人はそう簡単には変わらない、か。馬鹿神父が喜びそうな話題だよ。不変主義とか今どき流行らねーって。二重人格もな。

「あ、そこ左に曲がったら即座にジャンプしてください。人狼の前に先輩が乙ることになってしまうので」

「——⁉︎」

 我が校の本校舎は管理棟。その三階渡り廊下を抜けた先を左に曲がった地点には、理科室があるのだ。第一、管理、第二といった具合に。

 そんな理科室が近くにあるからこそ行えるのが、

 第一のトラップ。

 濡れた廊下にぶちまけられた透明な液体。流石に危険なので今はまだ起動してはいないけれど、事故を防ぐためその液体には触れない方向でいって欲しいのだ。あと単純に滑るかもしれないし。

 角を左折すると同時に、勢いを活かしてその川を超える。

 ボクは結構ギリギリだったのだが、千年万年先輩は余裕で超えたことに裏切られたような妄想をしはしたけれど、心臓に剛毛が生えていても震え上がりそうな追跡の足音に即座にそんな思考は消し飛ぶこととなった。無意味なことを考えるのは誰にも譲れないくらいの得意分野ではあるが、この世の森羅万象は時と場合を考えて行わなくてはならないのである。

「あ、千年万年先輩はそこで待機で」

 廊下の真ん中に千年万年先輩は待機して頂きボクだけで理科室内に入る。入ると言っても上半身だけで、扉の裏に置いておいた透明の液体が入ったガラス瓶二本を拾い上げて千年万年先輩の元へと持って帰る。

「人狼が見えたらこの瓶を両方ぶつけてやってください。できれば身体の上の方に……中の液体が体表に満遍なく塗りたくられるくらいのイメージで」

 それだけ伝えて千年万年先輩の手中に瓶を押しつけて、再度理科室内へと戻る。遠くから聞こえてくる、そして確かに近付いてくる足跡に内心心臓が張り裂けるほど恐怖しているがその恐怖を噛み砕き、あの理科室独自の成長を遂げた黒い長方形のテーブル群の中でも最も廊下に近い位置にある黒テーブルの元へと駆け寄る。

「第一のトラップを発動しますので、もう少し下がってください!」

 廊下にぶちまけられた透明の液体の川の中に垂れた先が切れて中の銅線が見えてしまっているケーブル。その対極の先——つまりコンセントプラグを、理科室独自の黒テーブル横にあるコンセントに差し込む。そうすると当然ケーブル内の銅線を伝って電気は流れる——しかし行き着く先は行き場しかない空間。切れて剥がれて広がっている。そして廊下にぶちまけられている液体。これは、最早バレてしまってはいるだろうが電気伝導率ほぼ百パーセントの食塩水なのだ。

 ならば言うまでもないだろうさ。

 感電死。

 狙っているのは、感電死だ。

 足音は、すぐ近くまで近付いて来ている。角だ。今、角にいるのだろう。

「霧ヶ音騎式、第一のトラップ『大雷山ビックサンダーマウンテン』……なんて」

 ビックもマウンテンの要素ないけど、別に構わないだろう。ノリだノリ。

 極大の静電気のような音。

 強い力で叩き割れるガラスの音。

 その音を聞きつけると同時に、ボクは開け放ちっぱなしの扉に向かって脚を急がせる。理科室内から脱出し、早速次のトラップの元へと移動を開始する。その際ちらりと後方を千里眼を用いて一瞬観察してみたが、上手いこと罠にハマり人狼に電流は流れているようだ。しかし流石に決定打にはなり得ていない様子である。人ならば余裕で死ぬと思うが……悲しきかな、これが野生と養殖の違いというヤツだろう。しかし、電流が流れている時点で筋肉は縛り付けられたように動きを拘束される。あのトラップがぶっ壊れるのに五分と時間は要さないだろうが、失敗してもこの失敗は次に繋がる糧となる。

「今のうちに第二のトラップまで退避します!」

 ボクは呆然自失とまではいかないものの、驚きが薄く見える千年万年先輩にそう叫び、また走り出す。今度は一階、保健室前だ。あんなトラップでは足止め程度にしかならないようだが、足止め程度でもできれば上々ということで諦めよう。殺せなかったら次回頑張れば良いんだ。

 何度も死んで死んで死に続けて自爆特攻が早速ノーマルな認識になりかけている日本人なボクが言うのも変な話なんだけれど、『命あっての物種』と言うし、ここはひとまず逃走にオールインと言うことで。

「……あ、そういえば。今話すのも何ですが」

「——?」

「人狼を殺さなければ六感能力を消すことはできないんですか? 触れるだけで消し去れるのであれば、触れていられるようにどうにか工夫すれば、と考えたんですが」

「……——。…………——……」

「成る程。能力の効果的に心臓に近しいところを触れていたい、ですか。十五分も? それは確かに厳しいですね。あの馬鹿力を拘束するなんて……無、難しいですからね」

 だから最初から「殺せ」と由比ヶ浜部長は命令したのか。

 無茶振りとしての嫌がらせもやはり含まれているのだろうと思ったが……根っからの正義の味方だったのか、あの人は。それはそれでちょろっと不服だったりしてしまうな。

 まあ、勿論ボクの我儘な訳だけれども。

 同じ堕ちた人間かと思っていたら全くの対極の人間だったのだ。勝手に裏切られたような気持ちになり続けてしまうのだから、救えない。

 ……救われようとしていたのか? ボクが?

 馬鹿馬鹿しい。

 よく言うよ、

「…………ヒト殺し分際で……」

「………………?」

「……——いえ、すみません。何でもありませんよ。人を殺したのかって? あーまあ、はは、秘密ですよ? ボクはこれで今の六感課外活動部の生活が気に入っているんです。ははは、そう構えないでくださいよ。安心してください、やたらめったらに殺しまわるような殺人鬼ではありませんから。ボクは、そんな品のないどこぞの『焦道』なんかとは違いますから」

「……?」

「『焦道』とは、ですか? いえ、知らないのであれば知らない方が幸せな世界ですよ。いや本当に、影の世界なんて、今でも踏み込まなきゃよかったって後悔しているんですから」

「………………」

「ええ、聞かないでください。縁が結ばれてしまってからでは、どうしようもありませんから」

 ……ホラを吹くのって、やっぱ楽しいな。

 もう、目と鼻の先に第二のトラップが見えてしまっているのに。緊張感と無縁な会話をしてしまった。

「。ま、これもそれもどれもこれも根こそぎ総じて偽言なんですけどね。嘘、フェイク、フィクション。流石にそんなことはしたことありませんって。そんな度胸があったなら、既に数学の島崎はこの学校にゃいませんよ」

「…—…——……—…——……—……—…—……—………—……………—…———…—………—…——………——………—…—…—…———」

「——………………」そんなことを言われてしまったら、ボクはどうしようもない言うのに。由比ヶ浜部長も破魔先輩も、根っこから腐るような善人の集団がどうして成り立っているのかと正直不思議に思っていたら、そういう。てっきり鴉間校長や日向姉がバランスを取っているのだとばかり思っていたんだけれど……これも縁ってやつか。「何てことはない偽言ってことにしておきましょうよ。坂にある朝露ほどの戯言だったんだって。お互い、そっちの方が楽ですし」

「………………」

「さぁて、何のことやら。何も喋ってないのに何を言っているのかなんて通じる訳ないでしょ、セ・ン・パ・イ」

 ………………。

 心臓の鼓動が聞こえる。

 全く……慣れないものだな、これだけは。慣れていいものでもないけれど、どうせならばさも平然とした姿勢で臨んでカッコイイボクでありたいのだがね。過去の自分に振り回されるなんて、カッコ悪いったりゃありゃしない。

「————」

「ンなこたァわかっていますとも」

 第二のトラップ。

 いや、これはとてもトラップだなんて呼べた代物ではないか。

「今回も千年万年先輩にもお手伝いをしてもらいたいのですが、よろしいですか?」

「——……?」

「何、単純な仕事ですよ。ただ、渡したガラス瓶を人狼目掛けて——出来れば顔面に——投げて欲しいだけなんですよ。ただそれだけですよ、単純な作業でしてね。前と同じですよ」

「————」

「いーえー、知りませんでしたとも。あなたにそんな技能があること何て全ー然、全く、これっぽっちも、一切合切、毛ほども知りませんでしたとも。え? いやいや、それはチョイと困ると言うか、何というか……今はあなたも正義の灯火を追い掛ける者なんですから、自重してくださいよ」

 そんなところで、最後の直線に入った。

 十メートルもない直線コースを、上層から聞こえてくる野生的な物音に怯えながらも突っ走る。今ボクはここで、この身にまとっている全てを剥がれ落とさなくてはならないのだ。全ては第三のトラップに繋ぐ試練なのだから。試練に犠牲は付き物であり、犠牲を支払わない試練は試練としての最低条件をクリアしてはいないのだ。

 第一のトラップ、第二のトラップは第三のトラップへと繋ぐ試練。

 そして、最後の直線を走り終える。

 保健室の前の廊下。そこには保健室内に設置されていた長机の長辺を壁沿いして設置されており、その上には四本、中に液体の入ったガラスビンともうひとつボクのとっておきが置いてある。言うまでもなく、これはボクが用意したものである。

「————?」

「中身ですか? 高濃度のアンモニアですが? これをぶつけてやれば、少しくらいは嗅覚も悪くなるというものでしょう。ええ、願望ですとも」

 卓上にある瓶をそれぞれ両手に持ち、人狼の襲来を待ち構える。足音は次第次第に近付いてきて、ボクの心臓は驚くべきほどに高鳴り始める。

 一度殺されたからといって、ここまで緊張するボクでもないと自負していたのだけれど、どうやらこれでボクは相当に怖がりであるようだ。こんな緊張は、学年末テスト以来というものだ。胃がギリギリと音を立てて……単純に苦しい。

「ああ、あともうひとつ。ボクの第一球を放つときにゃ、目を袖なり何なりで隠しておいてくださいね」

 襲来まで、数えて十秒と言ったところだろうか。

 グルルルルル、だなんて今の時代じゃそうそう聞くこともないような野生的な唸り声が聞こえ始めた——九。

 大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる——八。

 鼻を抜け、喉の奥へと流れる空気は、代わり映えしない鉄の香り——七。

 より良い策なんていくらでもあるだろうけれど、ボク程度の脳ではこれくらいが限界なのだ——六。

 悲しい現実である——五。

 英雄的な活躍はできないし——四。

 英雄ほどの度胸もない——三。

 勝つも負けるも運次第——二。

 それがボク、霧ヶ音騎式の人生だ——一。

「チェェェストォォォォォッッッッッッッッッッ‼︎」——零。

 肩が外れるのではないかと心配になるくらいの、全力投球。一陣の風と言うほどの速度ではないが、まあそんな表現をしたくなるくらいに全力で投げたボクのとっておきは、人狼の眼前で上手く起動する。

「気になるだろ? 狼相手にすんなら人間よりも優れた部分を削り落とすに限るからなァ。アンモニアで鼻を、このビックリドッキリメカで目を頂いていく」起動したとっておきは瞼の裏も白く照らした。「本来飛行モンスターが飛んだ時に叩き落とすアイテムなんだけどね……閃光玉だ」

 閃光玉の作り方。

 マグネシウムを電球に入れる。以上。

「先輩、全力掃射」

「……————‼︎」

 千年万年先輩の放ったガラス瓶のそのことごとくは人狼の顔面に当たり、砕け、あの独特の異臭を辺りに充満させた。目標の人狼は閃光玉をモロに喰らった時点で目を押さえて暴れ回っていたというのに、その動き回る頭部に的確にガラス瓶をぶつけるなんて、どんなコントロールをしているのやら。運動神経は悪くはないが、どうにもこうにも球技が苦手な霧ヶ音くんにゃ、とても出来た芸当ではありゃせんよ。

 まあ、何はともあれ無事に目と鼻は奪い取った。

 人狼も着実に感覚機能を回復させている様子だし、さっさと聴覚頼りで追ってくる奴を第三トラップの元まで誘導しなくてはならないな。

 さてと。

「逃げますか」

「——…………」

 狼狽えながらも確実にボクらの吐息を聴きつけて近付いてくる人狼を尻目に、ボクらは恥も外聞もなく背を向けて走り出す。生憎ボクの辞書には、「背中の傷は生者の証」という言葉があり、どのような傷を負うことになろうとも生きている奴こそが勝ち組なのである。カッコ悪くても、生きていれば良いのだ。まあ、流石にこんな姿鴎には見せたくはないけれども……残念至極、ここにゃ鴎はありゃせんのよ。

 残すトラップも残すところ最後のひとつとなってしまった。まあ、そのラストひとつだけは自信作であり何より大本命なことだし、これでどうにかなってくれという願いを託してさあ行こう。

 保健室のある管理棟の廊下を少しばかり奥まで進み、そのまま直線コースをスタスタと走っていくと、一度渡り廊下を挟み、そこにあるのが体育館である。良くも悪くもただの体育館であり、それ以上でもそれ以下でもない体育館である。

「——————⁉︎」

「どうです? 必殺ですよ」

 体育館内。

 そこにも元々地獄が広がっていたが、そこに有った死体は入り口ちょい横に山積みにして片付けさせていただき、体育館中には学校の暖房器具で使用する灯油をばら撒かせて頂いたのだ。灯油があったのはありがたいことに体育館横にある用具倉庫であり、そこは渡り廊下沿いであったため幸いにも学校内の判定を頂けたのだ。

「————?」

「正気か、ですか? いやぁ、学校に火ぃつけようって言ってるんですから、とても正気とは言い切れませんね。はい。あー、千年万年先輩には、火をつけていただきます。結局、先輩が生き残らなくてはどうにもならないので、そこにある館内倉庫の中から火をつけて頂き、着火を確認次第即座に内部に隠れていただきまして、内側から鍵を掛けていただければ、と。そうしたら破魔先輩の結界の判定で結界が張られて、倉庫内は安全圏に成りますので。着火剤ですか? マッチが倉庫内に。ん? はい。あー、ボクですか? ボクはこの入り口扉を閉じるんですよ。ああ、そうですね、入り口の扉を閉めてから火ぃつけてください。え? はい、死ぬ気ですとも。心中ってヤツです。はい、はい。では」

 ………………。

 ………………。

 ………………。

『失敗したらどうするんだ。お前の死は無駄になるんだぞ?』か。

 愚かだなぁ。

 失敗は恐れてはいけないのだ。そうだ。昔、神楽姉が言っていたではないか。「失敗は敗北ではない。『敗北を失う』と書いて『失敗』なんだ。つまり失敗とは勝利だ! 勝利への架け橋だ! 恐れることはないんだよ、キリィ。兎に角挑んでみな」と。兎に角挑んでみるんだ。挑んでみればいいのだ。死んでも勝ち、生きても勝ち、希望に全てを託すのがあるべき人間の姿なのだから——ボクは最後まで、闘って勝つ。

 最終トラップ。

 最後になるかもしれない足音。

 ボクは、息を潜める。左の胸を強く握って、バクつく心臓の鼓動を抑える。

 自分を強く持つのだ。

 イカサマチートにハッタリかまして違法に嘘吐き偽言を交えて何をやっても勝ちましょう。

 この言葉はボクに勇気をくれる。

 勇気——不覚にも部長殿の下の名前の優希と同じ音である。何だから由比ヶ浜部長に頼っているようで気が引けるが、あの人からの命令なのだから、少しは力を貸してもらわなければ公平性が取れないだろうか?

 獣は、やってくる。

 目……は既に回復済みだろうか? 少なくとも鼻はまだ回復したいないはずだが、それを失ったからといってその索敵能力に劣るところは無いようで、見事にこの体育館内までボクらの痕跡を辿ってやって来たのだ。訝しむように内部の様子を確認し、何度も鼻をヒクヒクと動かすも、どうやら相当にボクらは頭に来ているらしく、この油まみれの体育館へと恐れることもなく足を踏み入れた。

 進んでゆく。

 鋭い瞳を這わせて、先に伸びた鼻を研いで、三角の耳を動かして——唯一この結界内で生存し続けているボクらを炙り出そうとする。

 人狼が体育館の中央あたりに差し掛かったところで、ボクは潜んでいた亡骸の山の中から音を立てないよう細心の注意を払ってに這い出し、そっと、入り口の扉を閉めたのだった。しかし、いくらそっと扉を閉めたとしても、ガチャッ、と、音は鳴るものである。その瞬間、驚異的なスピードで人狼はボクを視認し、突進を開始する——と同時に、千年万年先輩は一瞬、ほんの一瞬だけ館内倉庫の扉を開き、中に用意しておいたマッチに火を灯して、灯油塗れの体育館内を火の海へと変貌させたのだ。

 迫る炎。

 迫る狼。

 何とも絶望的な状況である。

 しかし、引くことは許されない。というか、引く道などとうの昔に断たれてしまっているのだ。自らの手で断ち切って、そうしてこんな舞台を作り上げたのだから。

 ならば、進むのみである。

 ボクも、脚を進める。

 決着は一瞬。

「ガアアアアアァァァァァ……ッ」

 僕が鳴く。

「——————————……ッ‼︎‼︎」

 狼が鳴く。

 ボクの体当たりは人狼に当たり、人狼の爪はボクの顔半分を無惨にも引き裂いた。全力の体当たりを受けた人狼は後方へとよろけ、火の海に身を落とし、その身を燃やす。全力の体当たりをしたボクの亡骸は力無く前方によろけて火の海の中に身を落とし、この身を焦がす。

 想像の百倍以上に焼死というものは辛く、体育館という天井の広い場所であるため二酸化炭素中毒による死は望めなかった。火の海の中でも未だ活発に動く人狼の牙はボクの首に吸い込まれるように消えてゆき、そして、ボクの首は、ポキリ、と、そんなポッキーでも折れるような、とても肉体が慣らしたとは思えない軽い音を奏でて、折れたのだ——死ぬ間際は時間感覚がおかしくなり、世界がスローに見えると言うが、そんな、スローな世界でボクが見たのは、何てことはない、燃え盛る火の海であった。

 その焔の美しさは、

 今でも瞼を焼いている。

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