第16話

「ソレイユ!? お待ちくださいソレイユ!」

 シルキーが慌てて追いかけてくる。聞く耳を持たない様子のトキに、彼女は必死に食らいつきながら「一体どうなさったのです!」と問うた。

「爪だよ、爪!」

「はい?」

「爪が入ってたんだよ!」

 二つ折りにされた便箋に包まれていたのは、血がべったり付いた爪だった。大きさから考えて指のものだろう。きっちり片手ぶん――五枚、入っていた。

 便箋と封筒は放り出してきたが、爪はしっかりトキの手に包まれている。

 走り続けるトキの背中に、シルキーがワンピースの裾をたくし上げながら声を張った。

「ただのいたずらではありませんの? 嫌がらせとか」

「それなら良かったけどな、『レチアさまへの捧げもの』って文言を見て放っておけるか! 爪も多分、桂樹のだ」

「!? そんなどうして、恭佳さまのものだと」

「あいつ自身に神力はねえが、二ヵ月も俺の家にいたんだ。俺やお前、あとは河童と火の玉と……とにかく、色んな神力があいつに香水みたいにまとわりついてんだよ。爪からそれを感じた!」

 そんなことがあり得るのかとシルキーは目を丸くする。

「それだけじゃねえ。家の奴のものじゃない神力――いや、魔力かも知れねえが、まあどっちでもいい――を一番濃く感じた。ってことは、なんらかの道具じゃなくて力を使って剥がしたってことだ」

 力の使用者はトキが他人の神力を知覚出来るなんて思いもしていないのだろう。だからこんな分かりやすい手がかりが残った。爪に残されていた神力を辿れば、なんらかの事件に巻き込まれた可能性の高い恭佳の所在を探れるはずだ。

 だが一ノ宮邸を飛び出して間もなく、トキは脚を止めていた。

 恭佳にまとわりついたトキたちの神力は、はっきりと分かるほど明瞭に残っているわけではない。時間の経過とともに薄れていくし、彼女が歩いた道に残っているものならなおさらだ。

 ならば爪に残っていた力をと感じる先を変えても、一向に探れない。

「くそ、どういうことだ」トキは地面に膝をつき、湿り気のある土を撫でる。「桂樹は行き帰りのどこかでさらわれたはずだ。その場に力を持つ奴はいなかったのか? 濃厚なのに全然探れねえ。腹立つ」

 どれだけ集中してみても結果は同じだ。シルキーに神力を辿ったり感じたりする能力はなく、彼女はいら立ちを募らせる主人を前に、不安げに胸の前で手を揉むしかない。

「ん……?」

 指先になにかが触れた。細長く、土や石の類ではない。陽が落ちたせいでよく見えず、トキはぱちんと指を鳴らした。それに反応したように、どこからともなく現れた火の玉が手元を照らす。

「これは……!」

「恭佳さまの頭飾りですわ!」

 かんざしと言うのでしたっけ、とシルキーはトキの隣にしゃがみ込み、無残にも踏み砕かれたそれを手に取った。揺れればしゃらしゃらと音を奏でていた桜の花は、儚く地面に散らばっている。

 恭佳が意図的に残したのか、落としたのかは定かではない。どちらにせよかんざしがここに落ちているということは、彼女はこの場で攫われたのだ。しかしかんざしから感じるのはやはりトキやシルキーたちの神力だけで、爪に残るものと同一の力はない。

「あいつはどこに連れていかれた。町か、それとも別の場所か……」

「ソレイユ!」

 シルキーに呼ばれて顔を上げたと同時に、肩を勢いよく突き飛ばされた。不安定な体勢でいたせいでトキは呆気なく転がり、体を起こした時、目に映ったのは胸を刀で貫かれたシルキーだった。

 己の身になにが起こったのか理解が追い付いていないらしい。陸に打ち上げられて喘ぐ魚のように、シルキーは何度もはくはくと口を開けて、胸から飛び出ている刃物に目を落としていた。

「シルキー!」

「動くな」シルキーを貫いた人物が警告を発する。レンフナ語だった。「不審な動きを見せれば、この幻獣を壊す」

「……〈機関〉の」

 火の玉に照らし出されたのは、〈機関〉の黒衣に身を包んだ立川だった。

 爪に残る力を探ることに集中していたせいで、立川の接近に気付けなかった。彼はシルキーから刀を抜かないまま、凍てついた眼差しをトキに向けてくる。

「言ったはずだ。今後幻獣および魔獣に関わっていると判断すれば、即座に斬り捨てると」

「うるせえ、邪魔をするな。それどころじゃねえんだよ! そもそもいきなりシルキーを壊そうとせずに警告した時点で、まだちゃんと判断が出来てねえってことじゃねえか!」

 図星だったのか、立川はわずかに言葉に詰まったようだった。

「だが幻獣とともに家を飛び出したということは、関わるつもりがあるということではないのか」

「テメエとうだうだ話してる時間は無えんだよ。さっさとシルキーから刀を引っこ抜け馬鹿野郎。……つーか、俺たちが家を飛び出してすぐに追いかけてきたってことは、前に言った通り見張ってたってことだよな?」

「そうだが」

「だったらどうして桂樹が攫われたのに気付かなかった!」

 トキは怒りをむき出しにして立川に詰め寄る。対して彼はどういうことだと言いたげに眉間にしわを寄せ、トキから距離を取るべくシルキーを引きずりながら後退した。

 ほとんど八つ当たりだというのは自覚している。立川にぶつけた言葉は己への叱責でもあった。

 やはり一人で行かせるべきではなかったのだ。ただの休日だからとたかをくくらずに、雇い主という立場を最大限に利用して、拒まれても彼女についていくべきだった。

 きっとどこかで思っていたのだろう。〝なにかあっても見張っているはずの〈機関〉が出張ってくるに違いない〟と。

「『フィオーレ』って立場ならテメエには部下がいるよな。廃屋で幻獣を創ろうとしてた奴らを殺した時にはいたはずだ。どうしてそいつらに桂樹を見張らせなかった!」

「彼女一人なら幻獣調査の危険性は無さそうだし、ただ買い物に行くだけに見えると報告されたから見張っていなかった。僕らも他に任務がある。四六時中見張れるわけではない。いやそれより、どういうことだ。攫われたとは」

 説明する時間は惜しかったが、話さないことにはシルキーを解放してもらえない。トキがかいつまんで話したところで、立川はようやく刀を引き抜いた。幸い〈核〉に損傷はなかったようで、シルキーの傷は音もなく元通りに治った。

「ここにいるのはテメエだけってことは、部下は今いねえんだな。なら好都合だ、俺にとっても、テメエにとっても」

「……なに?」

「桂樹捜しに協力しろ。頼むのはしゃくだが、俺一人じゃ現時点ではどうしようもない。手当たり次第に捜すのも時間がかかりすぎる」

「なぜ僕が君に協力せねばならない。自分で言うのもなんだが、僕は敵だぞ」

があれば桂樹を捜せると思ったからだ」

 明らかに立川の雰囲気が強張った。一度は鞘に納めた刀に再び手を伸ばし、今にも引き抜こうとする。トキは動じることなくじっと立川を見すえ、挑むように唇に笑みを乗せた。

「どうして知ってるって顔してんな。廃屋の時からおかしいとは思ってたんだよ。〈機関〉のくせに神力の気配がしたから」

「…………」

「魔術師とか幻獣とか、要するに神力が関わるものを忌避する組織に属してるのにどういうことだ? しかもテメエの場合、魔術師でも幻獣でもないのに、感じる力はだ。そうなると残されてる可能性は一つ。だろ?」

 初めは勘違いかとも考えた。例の廃屋では幻獣が何度も作られていたようだったし、そちらの気配を立川のものと受け取った可能性もあったのだ。だが熊の魔獣騒動の時、疑惑は確信に変わった。

「……出鱈目を言うな」

「適当なこと言ってるわけじゃねえのを一番よく分かってるのはテメエのはずだろ」

「神力を探れる人間など聞いたことがない」

「まあ俺もただの人間じゃねえし。その辺の話はあとだ、桂樹を優先したい。言ったはずだ、うだうだ話してる時間は無えってな」

 もう一度「協力しろ」と迫っても、立川は首を縦に振ろうとしない。トキはため息をつき、くるりと背中を向けた。

「手を貸さねえなら仕方ねえ。秘密を〈機関〉に流すしかねえな。俺はここで指一つ鳴らしただけで、テメエの隠し事をヨサカにいる〈機関〉の奴ら全員に教えることだってできる」

「なっ……」

「分かりやすい脅しだなと思ってんだろ。ああ、そうだよ。脅しだよ。で、どうする?」

 協力するか、しないのか。

 逡巡した末に、立川は渋々頷いた。協力する面倒より、自身が抱える秘密を広められる面倒が勝ったらしい。トキが掴んだ情報が〈機関〉に流れれば、面倒どころか立川の首は物理的に飛ぶだろうから。

 トキは手に握っていた爪を立川に見せた。血まみれのそれを目にした彼は痛ましそうに一瞬だけ目を細め、意図を悟ったのか一枚つまみあげると、すん、とにおいを嗅いだ。

「美味そうだとか思ってねえよな」

「……やかましい」

 ――絶対にはぐらかしたな。思ってやがったのか。

 トキが唖然とするのに構わず、次いで立川は地面に顔を近づけると、同じようににおいを嗅ぐ。犬みたいだなと思ったものの、口にしようものなら調べが進まない。しばらく待っていると、彼はなにか感じ取った様子で立ち上がった。

「怪我でもしたんだろう。微かではあるが血のにおいが残っている。それを辿れば」

「そうか。道案内は頼むぞ」

「……仕方ない」

 歩き出した立川に続いてトキも足を踏み出したところで、「ソレイユ」とシルキーから声がかかった。

「わたくしも行かせてください。恭佳さまが心配です」

「お前は家で待機してろ。飛び出してきたから戸締りだってしてねえし」

「戸締りはブラウニーがやってくれますわ」

「そうかも知れねえけど、そういうことじゃねえ。今から行こうとしてるところには魔獣がいるかもしれねえ。魔獣がいるってことは魔力があるってことだ。神力で動くお前にどんな影響があるか分からん。危険は侵したくない」

「ですが……」

 シルキーは粘ろうとしたが、分かってくれとトキが首を横に振ると、彼女は悔しげに唇を噛みしめながら頷いた。恭佳には心配していた旨を伝えておくと約束すれば、シルキーは「お願いいたします」と深く頭を下げ、最後に恨みのこもった眼差しで立川を睨んでから一ノ宮邸に戻っていった。

 それを最後まで見送る時間は無い。トキは爪と、地面から拾い上げたかんざしの残骸をまとめて握りこんだ。

「悪いな、待たせた。行くか」

「血はあちらに続いている」立川が指差したのは、やはりというべきか、貧民街の方角だった。「魔獣がいる可能性もある。慎重に行くぞ」

「分かってる」

「……その前に、ひとつ気になったんだが」

 立川は足音を立てないように歩き、声を最低限まで抑えながら問いかけてきた。

「幻獣に〝太陽ソレイユ〟と呼ばれていたが、なにか意味があるのか」

 トキはなにも答えないまま無言で肩を竦めるに留めた。立川も返事は期待していなかったのか深く追及してこず、血のにおいを辿ることに集中し始めたようで、ぴたりと口を噤んだ。

 怪我をしているらしいと言われた上に、爪まで剥がされているのだ。確実に無傷ではないが、これ以上痛めつけられていないようにと願いながら、トキは険しい表情で立川の背中を追った。



 一度は意識を取り戻したものの、むりやり爪を剥がれた激しい痛みと己の絶叫で、恭佳はまた意識を失っていた。はっと再び覚醒した時、相変わらず視界は布で塞がれたまま、両手足もきつく縛られた状態で寝転がされていた。

 話し声が聞こえる。男性の声で、人数は三人ほどだろうか。身じろぎしようとしたが、意識が回復したことを知られるとどうなるか分からない。ただでさえ爪を剥がれた右手が痛むのに、これ以上痛めつけられてはたまらない。恭佳は焦りと冷静が交互に行き来する狭間で、とにかく息を殺してじっとすることに努めた。

 ――ここはどこなんだろう。

 ひたっと頬についた地面はざらついていて冷たい。土に直接寝かされているのだろうか。あたりを漂う空気は少しじめっとしているようにも思う。男たちは酒でも飲みながら遊びに興じているのか、耳に入る彼らの声はいずれも楽しげだ。

「簡単に信用していいのか疑問だったけど、情報は本当だったんだな」

「だから言っただろ。あそこは味方につけておいて損はないって」

「これで今までの失敗作とは比べ物にならない最高のものが創れるはず」

 ころころなにかを転がす音がする。一瞬の沈黙があったあと、男の誰かが勝利の笑い声をあげ、残りの二人は悔しそうに机を叩いた。

「だけど、あんな回りくどいことして本当に来るのか?」

「来るって言ってただろ。なんだ、直接乗り込むべきだったって言うのか?」

「その方が良かったかも知れないじゃないか。こんな風に待つ必要もないし」

「俺もそう思うね。今のこの瞬間は楽しいと同時に無駄な時間だ」

「真っ向からやりあって勝てるわけないって幻獣屋は言ってたんだぞ。乗り込んで返り討ちにされてみろ。全部の計画が破綻する」

「まあ、それもそうか」

 ――どういうこと?

 攫われてきた恭佳のほかに、彼らは別の誰かも拉致してくるつもりだったのだろうか。けれど実力差では敵わないから、違う手段を使って呼び出したと考えられる会話だった。

 さらに気になることを、彼らは言っていなかったか。

「来たところを捕えて材料にすれば、絶対に完璧なレチアさまの器を作ってさし上げられる。そうしたら俺たちの評価は上がるし、魔獣を操る力だって分けていただけるだろう」

「死んだあいつらへの弔いにもなる」

「確実にやり遂げよう」

 並々ならぬ決意を口々に語り、男たちの間に、今度は長い沈黙が流れた。

 極力動かないようにと変な力を全身に加えていたせいで、徐々に体の節々が痺れてきた。少し足を伸ばすだけでも楽になるかも知れないが、彼らに目覚めを気づかれてしまう。

 苦しさを少しでも紛らわせようと、恭佳は男たちの会話を反すうした。

 彼らの目的は「レチアの器を作る」、その上で「魔獣を操る力を分けてもらう」の二つだろうか。恭佳には「器を作る」の意味すらよく分かっていないのだが、レチア教には必要な儀式なのか。「魔獣を操る力」というのが、勧誘の時に語っている「人智を越えた力」と考えてよいだろう。

 ――だめ、これ以上は私には分からない。

 自分一人で考えるより、誰かに話しながら整理した方がいい。

 誰か――と思い浮かべるのは、一人しかいない。

 男たちがごそごそ動き始めた。数秒後には「まだ起きねえのか、こいつ」とぼやきながら恭佳を荷物のように抱えてどこかへ連れていく。

 別の部屋に移動したのだろう。仰向けに寝かされ、間近から甘ったるいにおいが漂うのを感じた。それだけではない。獣臭さや腐臭が混じり合い、油断すると吐きそうだった。

「ガキはまだ寝てんのか」

「いいじゃないか、起きて喚かれるより都合がいい」

「確かに」

 男たちの声は恭佳の斜め下あたりから聞こえる。自分は今、彼らよりいくらか高い位置に寝かされているようだ。男たちは遊戯を楽しんでいた時と打って変わり、厳かな雰囲気の中でそろって異国の言葉を口にする。祈りのようだった。

 ――なにをしようとしているの?

 頭は混乱しっぱなしで、思考がまとまらない。その間に男たちは口を閉ざし、恭佳の手を縛っていた縄を切った。その衝撃にも爪のない右手はひどく痛み、思わず呻きそうになるのを、舌を噛んで堪える。

 体の脇に下ろされた手は、やけに艶やかな感触を捉えた。先ほどまでのざらついた床とは違う。石かとも思ったが、ここがもしレチア教の祭壇だとすれば木の可能性もある。

 そう考えていたところで、恭佳は目を丸くした。

 小袖の前身ごろを力任せにかれたのだ。

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