第44話 歩み寄り

部屋に戻ったサーシャが落ち着いて呼吸が出来るようになった頃、自分の振る舞いを思い返して後悔していた。


(王太子殿下にあんな子供じみた暴言を吐いてしまった。ソフィー様をあの場にに置き去りにしてしまったし……)


呆れられているぐらいならいいが、エリアスの機嫌を損ねれば家族だけでなく国際問題に発展する。それでも言わずにいられないぐらい腹が立ったし、この2日間の緊張と疲労で蓄積されたストレスが爆発してしまった。


(もう嫌、帰りたい……。疲れちゃった)


涙がじわりと込み上げてくるが、遠慮がちなノックの音に慌てて目をこすった。


「サーシャ、俺が悪かった。……また泣かせてしまったのだな」


サーシャの目が赤くなっていることに気づいたエリアスは、痛みを堪えるような表情で手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めた。


「サーシャが嫌なこと、望んでいることを全部教えてほしい。俺はもうサーシャを傷付けたくないし、これ以上嫌われたくないんだ」


あれほど自信にあふれていたエリアスの懇願するような口調に、サーシャは思わず訊ねてしまった。

「……怒りませんか?」

口をついて出た言葉に自分でも驚いてしまった。こんな直接的に聞くのは不敬だし、先に謝罪をしなければいけなかったのにと慌てるサーシャをよそに、エリアスは力強く頷いた。


「絶対に怒らないと約束する。身分や立場などを考えずに、サーシャの本当の気持ちを聞かせてくれ」

今までの熱に浮かされたような瞳とは打って変わって真剣な光を宿しているのを見て、サーシャはその言葉を信じてみようと決めた。



引き取られてからこれまでサーシャが何を望み、ガルシア家がどれだけ大切に育ててくれたのか、学園で友人たちとどんな日々を過ごしてきたのか。

全て話したころには結構な時間が経っていたが、エリアスは一度も口を挟まず辛抱強くサーシャの話に耳を傾けてくれた。


「サーシャのことを理解せずに嫌がることばかりしていたのだな。これでは……嫌われても当然だ」


自嘲めいた笑みを力なく浮かべるエリアスにサーシャは慌てて言葉を掛ける。


「いえ、エリアス殿下のご配慮を無下にしてしまったのは私がきちんとお伝えしていなかったせいです。殿下のせいではありませんし、……私も言葉が過ぎました。申し訳ございません」


「そういう優しいところも好ましいが、俺を甘やかして困るのはサーシャだぞ。それでも俺は君を手放してやれないのだから。だがサーシャの望むように振舞うよう努めることはできる。……サーシャはあの兄君のような男が好みなのか?」


「お義兄様ですか?いえ、特に理想の男性などおりません。将来のことで手一杯であまりそちらの方面については考えておりませんでしたし」


急に義兄について言及されサーシャが当惑しつつも答えると、エリアスは安心したように息を吐いて柔らかい笑みを浮かべる。


「あまり長い時間はやれないが、半年ぐらいならこの国に留学する形で滞在はできるだろう。その間にサーシャを振り向かせてみせるから、覚悟しておいてくれ」


手放す気がないなどと言いつつ半年の猶予をくれたのは、サーシャに心の準備を与えるためだろう。サーシャをさっさと連れ去ってしまうこともできるのに、可能な限り配慮してくれているのだと思うと、嬉しいというより恐縮する気持ちが強い。


「……エリアス殿下には公務がおありなのですから、私のことなどよりもそちらを優先なさってください」


「公務は学園に通いながらでも出来るから心配するな。それよりもサーシャに好きになってもらうほうが優先度は高い。それに番を甘やかすのは俺だけの特権だ」


愛しそうに自分を見つめるエリアスを見て、サーシャは顔が熱くなるのを感じた。今まではそれどころでなかったが、その辺の女性よりも綺麗な顔立ちをしているだけにその破壊力はすさまじい。


「少しは意識してくれていると思ってもよいのだろうか」


満足そうな表情で小さく呟いた声は俯いて顔を押えるサーシャの耳には届かなかった。



その日の夕食はアーサーとソフィー、そしてエリアスでいただくことになった。相変わらずサーシャの隣はエリアスだったが、二人きりよりも緊張せず王宮に来て初めて美味しい食事を味わう余裕が出来たように思う。


「ところで、シュバルツ王太子殿下はどうしてサーシャが番だとお分かりになりましたの?」


食後のデザートが出され、幾分か場が和んだ頃にソフィーがエリアスに訊ねた。


それはサーシャも気になっていたことだ。サーシャが席に着く前にエリアスは急に後ろを振り返り、サーシャを認識したようだった。

期待を込めてエリアスを見れば、その様子に気をよくしたエリアスは快くソフィーの問いに答える。


「最初に気づいたのは匂いだったが、その姿を見た時に身体の中から湧き上がる感情によって番だと確信したのだ」


「……匂い?」


サーシャは普段から香水などを付けておらず、ワゴンにティーポットを置いていたがそこまで強い香りでもなかった。


(――ということは、体臭なのかしら。確か自分と違う遺伝子を持っている相手は良い匂いを感じて、相性的に良いという話を聞いたことがあるような……)


ぼんやりと覚えている知識は前世のものだ。曖昧な記憶を掘り起こすことに集中していると、心配そうな声がすぐ近くから聞こえる。


「サーシャ、不快だったか?匂いといっても甘やかな花のような心地よい香りなのだが……」


不安そうに見つめるエリアスに、サーシャは慌てて弁解した。


「いいえ、考え事をしてしまって申し訳ございません。エリアス殿下のお話はとても参考になりましたわ」


「うん?それはどういう意味かな?」

アーサーに問われてサーシャは思いついたことを話すことにした。


「番と認識する要素が体臭であるならば、改善することが可能ではないかと思ったのです。食生活や生活習慣によって変わると聞いたことがありますの」


ハーブや薬草などを使用するのも良いかもしれない。この辺りはシモンの専門になるため、早速明日聞いてみようと心に留めておく。


「っ、サーシャは俺と番でなくなっても平気だと言うのか?!」


「?……お言葉を返すようですが、エリアス殿下は私が番だから好意を持ってくださっているのでしょう?番でなくなれば殿下は相応しい方と婚姻を結ぶことができますわ。確約はできませんが、出来る限りのことはさせていただきます」


ショックを受けたように崩れ落ちるエリアスを見て、アーサーが吹き出した。


「ふっ、も、申し訳ない。さすがサーシャ嬢だな……くっ、はははっ」


「ええ、それでこそサーシャよ。私も協力してあげるから、必要な物があれば遠慮なく言いなさい」


ようやく顔を上げたエリアスは恨みがましい目でアーサーを睨んだ。


「笑うなら笑えばいい。…サーシャが俺のために努力をしてくれるのは嬉しいが、方向性が真逆とは。……いや先ほど意識してくれているなんて思いあがった自分が悪いんだ、きっと」


エリアスは小声で恐らく無意識に呟いているのだが、真横にいるサーシャには丸聞こえで少々居心地が悪い。


「もしも改善されなければ責任を取ってエリアス殿下とシュバルツ国に参りますから」


落ち込んでいるエリアスを慮って告げた言葉だったが、好意を持ってほしいエリアスにとって責任感で一緒にいると言われるのは逆に辛いことである。

その結果アーサーは爆笑し、エリアスをますます落ち込ませてしまう羽目になったのだが、サーシャは理由が分からずにその様子を不思議そうに眺めていた。

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