第39話 かけがえのない時間
制服を脱いですぐにベッドに入った。頭痛は収まらず少し熱も出てきたようで、頬が熱い。医務室で薬だけでももらえば良かったと後悔したが、寝ていれば治ると自分に言い聞かせて目を閉じる。
頭の痛みを感じながら微睡んでいると、ノックの音が聞こえた。
ぼんやりする意識の中で扉を開けた瞬間、サーシャは夢を見ているのかと思った。ミレーヌをはじめレイチェルとソフィー、そしてソフィー付きの侍女であるサラの姿まである。
「シモン様から薬を預かってまいりましたわ。サーシャはベッドに戻ってくださいね」
断る間もなく部屋に入ってきた彼女たちを止める気力もなかった。サラから簡単な問診を受けている間、普段一人の部屋に小さいが賑やかな声が飛び交う。
自分だけベッドでのんびりしている訳にもいかないと、起き上がろうとすれば誰かが気づいてまるで子供のように寝かしつけられる。何度か繰り返せば流石に申し訳ない気持ちが勝って、大人しくしていると、甘い香りが漂ってきた。
枕元に置かれたのはシモン特製の薬とサラの淹れた紅茶とすりおろした林檎。林檎にはつやつやしたハチミツとスパイスが掛けられていて甘く食欲をそそる香りがする。
「サーシャ、一方的に非難するような言い方をして悪かったわ。とりあえず今は身体を治すことだけ考えていなさい」
「ソフィー様、私のほうこそ――」
「謝ったら怒るわよ。林檎も食べさせてあげないんだから」
反射的に謝罪の言葉を告げようとしたが、ソフィーから止められてしまった。そんなやり取りを見てミレーヌが優しい顔で声を掛ける。
「ソフィー様、それは私の領地で採れた林檎ですわ。一番早く収穫されたものをお父様が送ってくれたのです」
だから取り上げないでくださいませ、とやんわりした口調でソフィーを諫めている。
「あの、蜂蜜をご用意してくれたのはソフィー様で、シナモンは身体を温める効能があるので掛けてみました。確か苦手ではなかったと思うのですが…」
レイチェルの言葉を聞いて、目頭が熱くなったサーシャは俯いた。
一線を引いているということは、それ以上関わるつもりはないという拒絶と同義だ。それなのに友人たちはなおサーシャに優しくしてくれる。そのことが有難くて嬉しくて、とても申し訳ない。
「――皆様、ありがとうございます」
込み上げる感情に、やっとのことでサーシャが感謝の気持ちを口にすると、銘々が労わりの言葉を掛けてくれる。
林檎を口に運ぶと、ふわりと抜ける瑞々しさと蜂蜜のこっくりとした甘さ、そしてふわりと香るシナモンの香りが口内に広がった。
(卒業すればどうしても離れてしまう関係だと思っていたし、それは今も変わらないのだけど……)
だからと言ってこの瞬間の今が無くなるわけではない。
自分は将来のことを考えすぎて現在を大切にすることを疎かにしていたのではないだろうか。
踏み出せなかった距離をもう少し縮めても彼女たちは許してくれる、そんな気がした。
そうして迎えた夏休み、サーシャは昨年のように別荘で侍女として働いた。ミレーヌのいるダラス領には同行しなかったものの、代わりにマノンと一緒にお土産を選び、ミレーヌにはカードを送った。
1週間ほど滞在していたシモンとジュールが帰ってくると、シモンはいつもに増してにこやかな笑みを浮かべていたし、たくさんのお土産とともに語られる話をサーシャは楽しく聞いていた。
イリアも社交界デビューが近いせいか、憎まれ口を叩かれることも随分と減った。学園のことに興味があるらしく、お茶を淹れながら義妹と過ごす時間は思いのほか楽しく話が弾んだ。ソフィーやレイチェルをはじめとした友人たちとは手紙でやり取りを行い、忙しくも充実した日々が過ぎていった。
穏やかな日々を満喫していたサーシャは、転生者であるエマや強制力についてすっかり失念していたのだ。
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