第2話 別れと出会い
「サーシャ、どうか幸せになってね」
それが母の最期の言葉だった。
少し前から体調を崩しがちだった母のために子守や裁縫などの内職の仕事を得て、貧しいながらも母娘で助け合って生きていた。
これからは自分が母を助けるのだと思っていた矢先の出来事に悲しみよりも未だ信じられない気持ちのほうが大きい。
(置いて行かれることは、こんなにも心細くて寂しいものなんだ)
まだ9歳になったばかりのサーシャは大人の庇護下になければ、生きていくのが難しい。
今のお小遣い程度の仕事では到底家賃に届かないのだから、部屋を出て行かなければいけないし、そうなれば教会を頼り孤児院に暮らすことになるだろう。
急に一人ぼっちで見知らぬ世界に放り出されたような感覚に、涙がにじんでくる。
「泣くな。泣いても何も解決しない」
自分の頬を両手で叩いて、部屋の片付けに専念することにした。
夜になり今日のところは終了しようと一息ついていると、部屋をノックする音が聞こえた。
「どちら様ですか?」
扉の鍵が掛かっていることを確認して、扉越しに問いかける。
「僕はジュール・ガルシア、君の父親だ。話がしたいから扉を開けてくれないか?」
父の話を母から聞くことはほとんどなかった。
「優しい人よ。でも遠くに行ってしまったからもう会えないの」
そう聞いていたからてっきり死んだものと思っていたのだ。
前世の記憶を思い出してからは、聞いてはいけないことだと自分を戒めていたから情報は皆無に等しい。
(新手の詐欺か不審者の可能性も考慮すべきだよね)
警戒を強めたサーシャは扉を開けることなく、訊ねた。
「あなたが私の父であるという証拠はありますか?」
そう言うと沈黙が返ってきた。言い出したのはサーシャだが、急に証拠を出せと言われても難しいだろう。
「サーシャ様」
相手の反応を窺っていると、先ほどと別の男性の声が聞こえた。
「お母様の持ち物の中に指輪はございませんでしょうか?あなたのお父様が昔お渡ししたものでお二人のイニシャルが内側に彫られています」
母の私物に触れるにはまだ辛かったため、そちらにはまだ手を付けていない。
「……探してみます。少し時間が掛かるかもしれません」
「結構です。それでは明日の夕方頃でいかがでしょうか?」
遠回しに出直してほしいと伝えれば寛容な答えが返ってきた。
サーシャが承諾すると別れの言葉を口にして、二つの靴音が遠ざかって行く。無意識に緊張していたようで、思わず安堵のため息が漏れる。
「ジュール・ガルシア、私のお父さん」
家名に心当たりはないが、平民に名字などないので貴族なのだろう。
「平民から貴族といえば、悪役令嬢ものとか乙女ゲームのヒロインのテンプレだった気が……」
乙女ゲームはプレイしたことがないし、小説の題材になっているものを何冊か読んだだけなので、正確な情報ではない。
どちらにせよ端的に言えば、好みのキャラを攻略するか逆ハーレム狙いで攻略するかというのが王道だった。
この世界がゲームや小説の中の話であればだが—。
「ヒロインか……面倒くさいな」
まだ9歳だからかもしれないが、恋愛よりも自力で生きていく力のほうがはるかに重要だ。
それにヒロイン=虐められるというネガティブイメージがあるし、攻略対象の男性が高位の貴族という設定がほとんどで、華やかそうだがドロドロした世界に関わりたいとは思わない。
「まあとりあえず指輪を探そう。そもそもさっきの人が父親か分かんないし、話の内容も知らないのに考えても意味がないよね」
その指輪は母の裁縫道具の中からあっさりと発見された。『J to A』と刻まれた文字は父親と名乗るジュールと母アンナのイニシャルと考えて間違いないようだ。
翌日、約束通りに尋ねてきたジュールとゲイルと名乗った執事の前に指輪を置く。それを見たジュールは懐かしそうに眼を細めた。
目の前の父親と似ている部分は正直見当たらないが、その表情を見た時には信じてもいいかなという気になった。
そもそも平民の子供であるサーシャを騙す理由はないだろう。
「サーシャ、今まで会いに来られず済まなかった」
ジュールはそう謝罪をしてその理由を説明してくれたが、それはサーシャにとって楽しい話ではなかった。
色々と気を遣った言い回しをしていたようだが、何のことはない。
ジュールは独身の振りをしてアンナと付き合い、子供が出来た段階で既婚者だと打ち明けた。真面目で正義感の強かったアンナは黙って身を引き、授かった子供を一人で育てる決心をしたのだ。
それを聞いた時点で父の印象は控えめにいって「屑」に変わった。
「それではどうして私たちの居場所を知っていたのですか?」
その質問に答えたのはゲイルだった。
「アンナ様からご連絡を頂いたのです」
病に倒れたアンナは残されるサーシャを案じて手紙を出したのだ。届いてすぐにジュールはアンナの元に向かったが、間に合わなかった。
(お母さん……)
母がどれだけ自分のことを心配してくれていたのかが伝わってきた。
母が娘を託せる相手は父しかいなかったのだろう。父と連絡を取ることにどれだけ葛藤したか考えると胸が痛み、涙が込み上げてくるのをぐっと堪える。
「サーシャ、君をガルシア家で引き取ることになった。最初は戸惑うこともあると思うが、すぐに慣れるよ」
喉元まで文句が出かかったが、無理やり飲み込んだ。ガルシア家に引き取られることはすでに決定事項でサーシャが嫌がったところで、変わるはずもないと気づいたからだ。
父親が名乗り出ているのだから、孤児院が受け入れてくれるとは思えないし、母親が平民とはいえ貴族の血を引く娘を孤児院送りにしたならジュールにとっても外聞が悪いのだろう。
「よろしくお願いいたします」
やるせない気持ちや不安を飲み込んで、サーシャは小さく頭を下げた。
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