いのちの食べ方

#2-3_kawauso/ 呼べない名は（１）

　──……なんでだ？

　最初に浮かんだのは疑問だった。最初、とは言えないか。今、この世界に生み落とされたわけじゃない。とにかく、なぜ、と思った。

　死んだんじゃなかったのか。てっきり死んだものだとばかり。

　なんで死んだ？

　いいや、死んではいない。そうだ。死ななかった。

　死ぬような目に遭っただけだ。死んでもおかしくはなかった。何があった？

　何だっけな……。

　よくわからないが、光だ。

　光が見える。

　明るくはない。でも足（あし）許（もと）に、光が。

　自分は座っているのか。そうらしい。どうやら椅子に腰かけている。

　動けない。椅子に縛りつけられているようだ。なんで椅子に？

　そうか。思いだした。

　車だ。

　撥（は）ねられた。車に。ミニバン。白いミニバンだった。

　若い男を尾行していた。気づかれて逃げられた。確保しようとしたら、男が、紐（ひも）状の、長いミミズのような、サナダムシみたいな──

「……人……外……」

　あれはただの紐でも、長すぎるミミズでも、サナダムシの変異体でもない。

　実体を持つ幻影。幻体、とも呼ばれる。

　またの名を、人外。

　人外だ。

　あの男は人外を連れていた。あれはあの男の人外だ。

　人外、といえば──

　右脚を見る。

　ない。

　いない、と言うべきか。

　右脚と一体化していたはずのオルバーがいない。

　カワウソはうなずいて、ＯＫ、ＯＫ、と呟（つぶや）いた。英語かよ、と思う。英語？　ＯＫは英語じゃないか。英語じゃないとしたら何語だ。英語か。

　何はともあれ、生きている。ここがどこかは見当もつかないが。暗い場所だ。明かりはある。たぶん電灯の明かりだろう。地面はコンクリートで、あちこちひび割れている。間違いなく屋内だ。カワウソは椅子に縛りつけられている。工場か何かだろうか。それか、廃工場。もしくは、倉庫とか。

　足音がする。

　カワウソは顔を上げた。目を凝らしてみたり、まばたきをしたり、息を吸ったり吐いたりしているうちに、だんだんとよく見えるようになってきた。

　誰かいる。近づいてくる。カワウソの前で足を止めた。女性か。ショートカットの。それとも男性なのか。体形がわかりづらい、オーバーサイズのパーカー。トラックパンツ。大柄ではない。かなり華（きや）奢（しや）だ。

「……起きてる？」

　声からすると、女性らしい。女は少し身を屈（かが）めてカワウソの顔を覗（のぞ）きこんだ。

「ねえ、訊（き）いてるんだけど。起きてるんでしょ？」

　カワウソは頭を上下に揺らしてみせた。女は振り向いた。

「ねえ！　こいつ起きてるって！」

　ここにいるのはカワウソと女だけじゃない。女には仲間がいるようだ。その仲間を呼び寄せようとしているらしい。

　カワウソは周囲の様子を確かめた。古い何かの機械が横倒しになっている。鉄筋の柱や梁（はり）。屋根はトタンだ。あちこちの屋根板がなくなっている。やはりここは廃工場か。少し離れた場所に、キャンプで使うようなランタンが置かれている。明かりはそれだけだ。外は暗い。

　今が夜なのだとしたら、白いミニバンに轢（ひ）かれてから半日以上は経（た）っているはずだ。考えてみると、目が覚める前に夢を見たような気がする。あれは夢だったのか。違うのかもしれない。カワウソは何回か目が覚めた。でも、頭が朦（もう）朧（ろう）としていて、すぐ眠るというか、気を失ってしまったのだろう。

　ランタンの光が届くか届かないかのところに、白いミニバンが駐（と）まっている。おそらくカワウソを撥（は）ねたミニバンだ。後部座席のスライドドアが開いている。

　そこから男が出てきた。ミリタリーっぽいジャケット。デニムのパンツ。ジャケットの袖口から長い、ミミズのような、サナダムシのような──人外が垂れ下がっている。

　若い男が人外を引きずって歩いてくる。

「イベくん」

　女が若い男に声をかけた。名前か。イベ。名字だろう。女はイベに訊いた。

「ヒデヨシさんは？」

　イベは首を横に振ってみせた。

　ヒデヨシ。これは女の名前でも、イベの下の名前でもなさそうだ。ということは、もう一人いる。ヒデヨシとやらは車内だろうか。

　こいつらは三人組か。

　サナダムシ人外のイベ。女とヒデヨシは、あの白いミニバンに乗っていたのかもしれない。カワウソは道路に飛びだしたところを轢（ひ）かれた。あれは偶然だったのか。どうだろう。轢かれた瞬間のことは正直、覚えていないし、何とも言えない。ただ、連中はカワウソを車で廃工場に運んできた。怪（け）我（が）の程度は不明だが、かすり傷ではないだろう。それなのに、病院に連れてゆくでもなく、ここで拘束している。常識的な措置じゃない。

　イベが女の横まで来た。

「あんた、生花店ってやつだろ」

　カワウソは答えなかった。イベのサナダムシ人外が、コンクリートの上をゆっくりと這（は）い進んで、カワウソの足先に迫りつつある。

「知ってんだよ。人外絡みの事件とか事故が起こると、あんたらが出張ってきて嗅ぎ回るんだよな。こそこそと、腹を空（す）かした野良犬みたいに」

　サナダムシ人外をまじまじと見るのはこれが初めてだ。長い胴体は直径一センチくらいか。指のように丸まったその先っぽから、かたつむりの触覚のようなものが一本だけ生えている。

　踏み潰してやろうかとも思ったが、足首が椅子にしっかりと固定されている。おかげでほとんど爪先しか動かせない。

「あんたら、あの組織の手先なんだろ？」

　イベが顔を近づけてくる。カワウソはイベと目を合わせない。イベのサナダムシ人外を注視している。

「なあ？　わかってんだよ。あんたらがあの組織の手先だってことは。世界中の政治家、大企業、マスコミ。あの組織の手はどこにでも及んでる」

「……典型的な陰謀論だな」

　カワウソはつい失笑してしまった。イベに肩を掴（つか）まれた。

「おぉっ……」

　痛みで気が遠くなりかけた。

「無駄だよ、バーカ」

　イベはせせら笑った。

「俺たちは真実を知ってる。全部、サリヴァンが教えてくれた。わかるか？　あの組織の手先にはわからないか。もう目覚めてるんだよ、俺たちは」

　カワウソは息を呑（の）んだ。そのまま吸いつづけて、静かに吐く。動揺したようには見えなかったはずだ。──サリヴァン。

　イベたちはサリヴァンに関係している。

　ドール先輩とカワウソ。二人一組のダリア４だけじゃない。警察が言うところの花屋、生花店、特対こと特定事案対策室には、複数の実働部隊がある。その多くが、通常任務として特定事案に対処しながら、サリヴァンと呼ばれる人物をマークし、探りあてようとしてきた。

　カワウソの左脚の上を何かが這（は）っている。サナダムシ人外だ。蛇が木を登るようにして、サナダムシ人外がカワウソの左脚を伝い登っている。

「俺たちはちゃんとわかってる。あんたらが、サリヴァンを見つけようとしてることも。こっちはすべてお見通しだ」

　カワウソは左脚を揺すった。サナダムシ人外を振り払いたくても、椅子に縛りつけられているので無理だ。

「野良犬なんかじゃないよな。あんたらはあの組織に飼われてる。いい餌もらってんだろ。そのわりに、ぶくぶく肥え太ってるようには見えないけどな。おい」

　イベが右手でカワウソの下顎を鷲（わし）掴（づか）みにした。

「何とか言えよ、生花店。あんたらは内閣情報調査室とかってのに属してるんだよな？　直接の上司は？　何てやつだ？　あんたらみたいなのは何人いる？　どこまでサリヴァンのことを知ってるんだ？」

「イベくん」

　女がため息をついた。イベが振り返る。

「あ？」

「そんな一気に訊（き）いても。一個ずつ質問したほうがよくない？」

「……いいだろ。どうせこいつが知ってること、洗いざらい吐かせるんだ」

「それにしたって、やり方ってものがあるんじゃないのって話」

「だったら、ユキがやれよ」

「えぇ。めんどくさい」

「んだよ。ふざけんな……」

「べつにふざけてないし」

「公務員だよ」

　カワウソは間もなく首筋に達しようとしているサナダムシ人外を感じながら言った。

　イベがカワウソの下顎を掴んでいる手に力をこめた。

「何だって？」

「おれは、しがない公務員。特別職っていうくくりだけど。何だよ、あの組織って。国のことか？　日本国政府？」

「調子に乗るな」

　イベはしきりと唇を舐（な）めた。唇の皮が剥（む）けている。サナダムシ人外がカワウソの首筋をつついた。たぶんまだ皮膚に傷はついていない。団地の老女や高架下の若者の死に様が脳裏をよぎった。サナダムシ人外の触覚のような部分が、カワウソの首筋に穴をあけようとしている。サナダムシ人外はそこからカワウソの体内に入りこんでくるのだろう。きっと血管を伝って、心臓にまで。

「いいか。舐めた口たたいてると、秒で殺すからな」

　イベはカワウソの下顎から手を放した。かなり感情が昂（たか）ぶっているようだ。手を握ったり開いたり、両手を組み合わせたりして、なんとか自制しようとしているらしい。

「知らないのか。政府なんて、とっくにあの組織に牛（ぎゆ）耳（うじ）られてる。総本山みたいなものなんだよ。決まってんだろ。公務員？　まさしく組織の手先ってことだ」

「……組織。組織か」

　カワウソも落ちつこうしているが、冷静ではない。正直、怖い。体の痛みをあまり感じない程度には、怖くてたまらない。

　不用意にイベを怒らせないほうがいい。それとも、怒らせたくないのか。死にたくない、という気持ちが勝っているのだろうか。カワウソ自身、よくわからない。

「きみが言う、その……組織っていうのには心当たりがない。もしかしたら、おれは下っ端だからかもな」

「あんた、人外使いだろ」

「……そういう言い方は、知らない」

「人外の主（あるじ）で、人外が見える。そういうの、人外視者っていうんだよな。おまけに、自分の意思で人外を使役できる。だから、人外使いなんだよ。俺たちと一緒だ」

　イベのサナダムシ人外がカワウソの首筋に触覚を押しあてている。いつでも皮膚を食い破れると言わんばかりだ。

　カワウソはイベにユキと呼ばれた女をちらりと見た。俺たちと一緒、とイベは言った。ユキも人外の主なのか。ユキの人外はどこにいるのだろう。

「……一緒らしいね。人外使いか。そうだな。うん。同じだ」

「で？」

「……え？」

「あんたの人外はどこだ？」

「おれの……」

　声がうまく出せない。カワウソは唾を飲みこもうとした。だめだ。口の中が乾ききっている。

「……人外？　おれの──あぁ……」

　カワウソは四方八方に目をやって、オルバーを捜すふりをした。

「どこだ？　いないな、おれの人外。あれ？　変だな……いなくなってる。それこそ、いつも一緒だったのに……いない。どこにいっちゃったんだ……」

「人外が消えて主（あるじ）が平気だなんてこと、ありえるのか」

　イベが呟（つぶや）いた。カワウソはその問いに答えられる。例外は常にあるにせよ、人外を喪失した主は無事ではいられない。でも、そのことを親切に教えてやる義理があるだろうか。ない。あってたまるか。

　突然、大きな音がした。ドアが開いた音か。廃工場内のどこかにあるドアが勢いよく開いたらしい。

　イベとユキが左のほうに視線を向けた。

「なっ──」

　イベが何か言いかけた。言いきらないうちに襲われた。狼（おおかみ）だ。一頭の狼が駆けてきて、猛然とイベに躍りかかった。狼は一気にイベを押し倒して組み敷いた。

「っ……！」

　カワウソは縛りつけられている椅子ごと地面に倒れこんだ。一（いち）か八（ばち）かの賭けだった。瞬時にサナダムシ人外が首筋に穴をあけてカワウソを殺すかもしれない。怖（お）じ気（け）づかずにすんだのは先輩のおかげだ。狼。もちろん、あれは狼なんかじゃない。ガルム。ガルムだ。先輩のガルム。先輩が来てくれた。

　コンクリートの地面は当然、硬かった。衝撃はカワウソの全身に響いた。その直後、イタチのようなオルバーが音もなく走ってきて、カワウソの首筋と地面との間に頭を突っこんだ。オルバーは何をしているのか。見えないが、わかる。カワウソの首筋から体内に侵入しようとしていたサナダムシ人外だ。オルバーはサナダムシ人外にかぶりつき、カワウソから引き剥（は）がしてくれた。

　地面とカワウソの首筋との間から出てきたオルバーは、サナダムシ人外と取っ組みあって大暴れした。

「イベくん……！」

　ユキがガルムを蹴りつける。サッカーボールキックの要領だ。空振りした。蹴られる前に、ガルムはイベから飛び離れた。

　イベがユキに助け起こされている間に、カワウソを椅子に縛りつけているテープか何かが切り裂かれはじめた。

「……先輩」

　黒いパンツスーツ姿で白いスニーカーを履いたドール先輩がすぐそばにいる。しゃがんでテープか何かを次々とナイフで切ってくれている。

　先輩は先にガルムを突入させた。イベたちの注意をそっちに向けさせて、先輩自身はカワウソ救出に動いた。そういうことか。

　テープか何かを全部きれいに切ってしまうと、先輩はカワウソには一（いち）瞥（べつ）もくれずに駆けだした。あまりにもそっけない。一言か二言くらいはあってもよさそうなものだ。そこはまあ、先輩だし。自他ともに認める特定事案対策室実働部隊のエース。泣く子も黙るドール先輩とは彼女のことだ。

　サナダムシ人外がオルバーを振りきって逃げてゆく。

「オルバー！」

　カワウソは目を見開いて叫んだ。

「ガルム！」

　先輩も狼（おおか）男（みおとこ）のようなガルムに呼びかけた。

　オルバーが駆け寄ってきてカワウソの右脚に絡みつく。ガルムはもっと大胆だった。跳躍して、先輩を抱きすくめる。見るたびに毎回、カワウソは思う。いいな、あれ。なんだかちょっとうらやましい。そんなことを言ったら、先輩に軽蔑される。さんざん罵倒されそうだ。だから言わないが。

　先輩がガルムの胸に抱かれる。もっともあれを、胸に抱かれる、というロマンチックな言葉で表していいのか。

　ガルムの胸部から腹までがはち切れるように裂けた。その部分に先輩が吸いこまれるようにして入ってしまった。

　むしろ、こんな表現がふさわしいかもしれない。

　狼さんが先輩を食べてしまいました。

　もっとも、ガルムは童話の赤ずきんに出てくる狼のように大口を開けたのではない。全身を縦に、真っ二つに割って、まるでそこが口であるかのように先輩を食べた。先輩を丸のみにしてしまった。

　人外と主（あるじ）との結びつきは特別なものだ。主と人外は一対一。一切の誇張抜きで替えがきかない。唯一無二の組み合わせだ。たとえて言えば、目の中に入れても痛くないし、食べてしまいたいほど愛（いと）おしい。それでガルムはつい先輩を食べてしまったのか。

　そんなわけがない。

　先輩はガルムに食べられたのではなくて、ガルムの中に入った。あれだ。新約聖書に出てくる、羊の皮を被（かぶ）った狼。その逆か。そもそも、先輩は羊じゃないわけだが。

　現れたのは、狼の皮を被った羊ならぬドール先輩だ。

　なんということだろう。先輩が狼女になってしまった。