#1-1_otogiri_tobi/ 花はどうして咲くの(2)

 放課後、とびは担任のはりもと先生に呼びだされ、職員室で椅子に座らされて指導を受けた。その指導とやらの具体的な内容はよくわからない。主に屋上の件なのだろうが、飛は針本の言うことをほぼ全部聞き流した。あくまでも全部じゃない。ほぼ全部だ。

「聞いてるのか、おとぎり。返事をしなさい」

 針本は数分に一度、そう確認した。その時だけ飛は「はい」とか「聞いてます」と答えることにしていた。

 針本は四十歳前後で、堅苦しい行事でもない限りは赤いジャージを着ている。ハリモトという名字と、短い髪を逆立てて整髪料で固めていることから、陰で「ハリネズミ」、もしくは親しみをこめて「ハリー」と呼ばれているようだ。

「先生だってな、こんなふうに口うるさく注意したくないんだ。だけどな、弟切。最低限、最低限だぞ。社会には、守らないといけないルールってものがあってな──」

 ようやく針本の指導が終わって職員室を出ると、もう午後四時半を過ぎていた。

「ケッ!」

 バクがいまいましそうにぼやいた。

「話がクソ長くてまどろっこしいんだよ、ハリーの野郎。黙ってるのも疲れたぜ」

「ハリーとか呼ぶなよ……」

 飛は早足で学校を出た。とくに急いでいるわけではないが、のんびり歩くという習慣が飛にはない。大股でゆっくりめに歩くか、せかせか早歩きするか。基本的にはそのどちらかだ。

「歩き方。競歩か」

 バクにツッコまれて、思わず飛は校門の手前で足をゆるめた。

「……うるさいな」

「せっかちなんだよ、おまえは。もっと余裕を持って、悠然と生きたらどうだ?」

「だから、うるさいって……」

 飛は腕時計を見た。施設までは飛の足だと徒歩で十五分。門限まであと一時間ない。針本の指導のせいで、残りの自由時間は四十分ほどだ。昔、飛が住んでいた地区まではバスに乗ってもここから二十分はかかる。

「……今日は無理か」

 むしゃくしゃしたところに、ちょうど校門があった。

 校門の高さは二メートル足らずだ。よじ登るのは簡単だが、それでは気が晴れない。飛はタイル張りの校門を蹴って、その勢いで跳び上がった。

「──っし」

 思わずとびは小さくガッツポーズをしてしまった。狙いどおり、手を使わないで校門の上に立つことができた。うまくいった。

「飛ィ、あのよォ? 社会には、守らなきゃならねえ最低限のルールってもんがな?」

 バクが笑いながらはりもとの説教を引用した。飛は言い返そうとしたが、何を言おうとしたのか忘れてしまった。

 校門の向こう側に女子生徒がいた。飛を見上げている。

「あ……」

 長い髪を団子状に結んでいて、くっきりした目鼻立ちの、見覚えがある女子だった。

 というか、同級生だ。

 飛にしてはめずらしいことに、名前も記憶している。ちょっと個性的な姓名だから、一度、づらを見ただけで覚えてしまった。

 名字はしらたまだ。

 下の名前もやや独特で、龍の子と書いて、りゅうこ、と読む。

 白玉りゆうこはびっくりしているのか、何回もまばたきをした。

 飛だって驚いている。なぜこんなところに白玉が。校門付近にはひとけがなかった。てっきり誰もいないものだと、飛は勝手に思いこんでいた。人がいたのか。しかも、よりにもよって同じクラスの女子が。

 飛は口の中に空気をためて、唇をぎゅっと引き結んだ。

 どうしよう。

 バクは何も言ってこない。こういう時こそ何か言えよ。飛は心の底からそう思った。くだらないことでも、嘲りでも、つまらないギャグでもいいから、何か言ってくれよ。バクが口をきいたところで、飛にしか聞こえないわけだが。

 白玉もどうして黙っているのか。

 気まずい。

 飛は初めて白玉をじっくり見た。くっきりした顔、という印象だったが、目や鼻、口が特別大きいわけじゃない。変に小さくもない。ひん曲がっていたり偏っていたりしない、どう言えばいいのか、整った形をしている。あるべき場所にあるべきものが収まっていて、いびつなところが一つもない。見ていられる。ずっと見ていても決して不快にならない。見飽きることのない造形だ。

 だからというわけでもないのだが、飛は白玉と見つめあっていた。

 にらめっこか何かでもしているかのように、目をらすことができない。

 正直、飛は恥ずかしかった。だったらそっぽを向けばいいのに、なんとなくできない。

 これは何なのだろう。

 いったい何の時間なのか。

「こらぁー……!」

 その時、遠くから誰かが声を張り上げた。あの用務員だ。

「校門から下りて! ていうか、おとぎりくん! またきみじゃないかぁ……!」

 用務員の怒鳴り声が呪縛を解いたかのようだった。とびは振り向いた。校舎の玄関前で用務員がホウキを振りかざしている。

「すいません」

 飛が軽く頭を下げてみせると、用務員は跳び上がった。

「さっきはりもと先生に叱られたばっかりなのに、ちっとも反省してないだろ、きみ!」

「謝ってるのに……」

 飛は校門から飛び降りた。用務員が追いかけてきそうな勢いだったので、駆け足で校門から離れた。

 角を二つ曲がったところで振り返ると、誰もいなかった。飛は走るのをやめた。

「あの用務員、だる……」

「完全に目えつけられちまってるみたいだな」

 バクが、クヘヘッ、と笑う。飛は顔をしかめた。

「勘弁して欲しいんだけど」

「オレじゃなくて、あいつに直接言やあいいだろ」

「何て言えばいいんだよ」

「そうだな。たとえば、天涯孤独の哀れな中学二年生が、非行に走らないでけなにがんばって生きてるだけなんで、どうか放っといてください、とか?」

「自分のこと哀れとか、僕、思ってないんだけど」

「方便じゃねえか。天涯孤独ってだけで十分哀れに見えるもんだぜ?」

「だいたい、天涯孤独じゃないし」

「あァ?」

「僕には兄さんがいる」

 飛が兄を持ちだすとバクはだいたい口をつぐむ。バクは飛の兄を知らない。飛がバクと出会ったのは、兄と別れ別れになってからだ。

 腕時計を見ると、午後四時四十分だった。施設には門限の五時半ぎりぎりに着けばいい。飛は少し寄り道をすることにした。

 寄り道といっても、飛の場合、遠回りをしてひたすら歩くだけだ。なるべく金を遣いたくない。そもそも、無駄遣いできるほど金を持っていない。

 飛が入所している施設は、中学生だと月に三千円の小遣いが支給される。三千円が多いのか少ないのか、飛にはよくわからない。ただ、たまにバスに乗ると片道二百二十円、往復で四百四十円が一気に吹っ飛ぶ。

 金はあっという間になくなってしまう。いざという時、持ちあわせがないと困る。困りたくなければ、できるだけ金を遣わないことだ。

 そんなわけで、とびはハンバーガーショップやドーナツショップには一度も行ったことがない。うっかり余計な物を買ってしまいそうだから、コンビニにもなるべく入らないようにしている。

 歩くのは嫌いじゃない。

 周りに人がいない状況限定だが、バクという話し相手もいる。

 少なくとも、退屈ではない。

「オレは暇だけどな」

 バクはたまに飛の心を読んだようなことを言う。

「基本、おまえに担がれてるだけだし」

「ぶん投げてやろうか?」

「間違ってもそんなことするんじゃねえぞ?」

「空を飛んだら、楽しいかもしれないだろ」

「あのなァ。投げられんのを飛ぶとは言わねえんだよ。飛のくせに、飛ぶって言葉の意味も知らねえのか? 今度、辞書で調べてみろ。今度っつうか今日、調べろ。飛ぶのところに、ぶん投げられるなんて載ってねえから」

 飛は街路から小道に入ってまた街路に出た。ここは曲がったことがないかも、と思ったところで曲がってみる。でも、勘違いだったようで知っている道だった。学校の周辺はもう一年以上、歩き回っている。足を踏み入れたことがない道は、たぶんほとんどない。

 飛が通う中学校はおうらいちようという地区に、施設はその隣のあさかわちようという地区にある。

 浅川町には、その名のとおり浅川という名の川が流れている。川幅は広いが、雨などで水位が上がっている時でなければ、歩いて渡れるくらい水深が浅い。

「しかしよォ、飛、安易なネーミングだと思わねえか? 浅い川だから浅川って……」

「わかりやすくていいだろ」

「情緒ってもんがな」

 飛は生意気にも情緒を語るバックパックを担いで浅川の土手を歩いた。

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