第169話『ロマンのお返しには憧れを』
なんてことだ。夢から覚めたのに、夢のような時間が続いている。
体感的に軽い仮眠程度を終えた優人がうっすらと目を開けると、視界は白いもので埋め尽くされて温かみのある甘い匂いに頭が包まれていた。
眠気が解消されてすっきりと晴れた思考はすぐに寝る直前のことを思い返し、体勢が変わってないことをこれ幸いにて、しばしの間心地良い感触に浸る。
本当に気持ちがいい。男のロマンを叶えてくれる雛には脱帽だ。
いけないと分かりつつも深呼吸して、ほっと落ち着かせてくれる甘い匂いに一息つく。そして、さすがにいい加減起きるべきかと頭を動かそうとした矢先、側頭部にそこはかとなく当たっている何か柔らかいものに気付いた。
雛の膝枕に触れている面とは逆サイド。優人の頭は横を向いているから、つまり上にある何か。自分と雛の体勢からその正体を推察した結果、今度は別の意味で深いため息をつかずにはいられなくなった。
(……ったく)
もはや何も言うまい。名残惜しさを断腸の思いで振り切り、ゆっくりと雛の膝枕から頭を抜き取る。やはり自分の予想が間違いでなかったことに嘆息しつつ、ふっと笑みを浮かべた優人はソファの背もたれに頬杖を突き、雛の隣へと座り直した。
「寝ちゃったか」
くうくう、と瞳を閉じて小さな寝息を立てる雛。優人に膝枕をしている間に自分も寝てしまったらしく、だからこそ身体が前に傾いて図らずも優人に押し当てる形になったのだろう。
「こいつめ」
苦笑を一つこぼし、人の気なども知らずに気持ちよさそうに眠る雛の頬を指で軽く押す。ふにっとした柔らかい感触。起きてる時でも寝てる時でもこちらを誘惑する困った恋人だ。
気を取り直して雛の様子を眺める。眠りの深さがどれほどかは分からないが、起きそうにないならベッドで寝かせてやった方が楽かもしれない。
そう判断した優人は雛に近付くと、起こさないよう慎重に、彼女の背中と膝裏に手を差し込んで身体を持ち上げる。
そして、このままベッドへ……と行動を起こすはずだったのだが、完全に身体を抱えたところでぱちりと金糸雀色の瞳が姿を現してしまう。
「……ゆうとさん?」
「あー……ごめん、起こしちゃったか」
「いえ――あふ――ほんのうたた寝程度だったと思いますからお気になさらず。優人さんもいつの間に起きたん――」
眠り自体は浅かったらしく、軽い欠伸を挟んだだけですぐに目覚める雛。しかし不意に言葉が途切れたかと思うと、抱き抱えられた自分の身体と優人を見比べて押し黙る。
白い頬が、一滴の朱を落とされたようにやんわりと染まった。
「雛?」
「い、いえ……これ、お姫様抱っこだなあって思いまして」
「寝るならベッドに運ぼうかと思ったんだけど……ダメだったか?」
「まさか! むしろ、その、こういうのは女の子的には憧れなので……ご褒美みたいです」
言葉は尻すぼみになりながらも、にへら、と雛の頬がだらしなく緩む。
――ふむ。起きてしまったならベッドに運ぶ必要はなくなったし、そんな風に思ってもらえるのならば。
雛を抱えたまま優人がまたソファに腰を下ろすと、腕の中の雛が可愛らしく小首を傾げた。
「あの、優人さん?」
「せっかくだし、ご好評ならしばらくこのままでいるか」
「え……いいんですか?」
「膝枕のお礼ってことで。男のロマンを叶えてくれたんだから、今度は雛のロマンを叶える番だ」
「でも、お、重くありません?」
「雛はそんな心配するほどじゃないだろ。座ってる分には全然楽だし」
どれほど雛が華奢でスタイル抜群であっても人一人分の重さだ。生憎といつまでも抱えていられると豪語できるほどの腕力を優人は持ち合わせていないが、こんな風にソファを利用してしまえば、足でも支えられるので問題はない。優人にしても、幸せそうな雛を眺められるのならお安い御用だ。
優人が楽だと言い切った後も、しばらく自分の憧れと優人の負担との間で雛の心は揺れ動いていたようだが、最終的に天秤は前者へと傾いたらしい。「お願いします」と呟いた雛は優人の腕に身を任せ、感触や雰囲気に浸るように眉尻を下げた。
両腕と足に預けられた重みは、やはり苦になどならない。
「はあ……幸せです……」
本人も意識せずにこぼしてしまったであろう本音の呟きに、優人は釣られて微笑む。それ以上に表情を幸せそうに綻ばせる雛は、優人の胸板にぴとりと顔を寄せすりすりと頬擦りを繰り返し、なおさら美しく整った顔をふやけさせた。
甘えたがりの愛らしい子猫――と評するには、立派な体つきにも今の薄着にも危ういものがあるけれど、とにかく可愛らしい姿である。
「優人さん。この際ですし、もう一つお願いしても?」
「いいぞ。何して欲しい?」
「えっとですね……耳元で優しく、好きって囁いてもらえますか?」
「……またこっ恥ずかしいことを」
てっきりぎゅっとしてもらいたいとかだと思っていただけに、意表を突かれた優人の口元は気恥ずかしさで少しだけ引きつる。雛からのお願いとあればいくらでも叶えたい所存だが、改めて面と向かって請われた上でやるのは些かハードルが高く感じた。
「ダメ、ですか?」
「いやまあ俺はいいんだけどさ、逆に雛はいいのか? 耳、弱いだろ」
「が、我慢しますから。……どうぞ」
雛が優人とは逆の方に頭を傾け、横髪に手で押さえつけて耳をさらけ出した。すでにほんのりと赤く染まる耳に、息の一つでも吹きかけて敏感な反応を楽しみたい欲が顔を出すが、今は我慢。これも憧れの一つなんだろうなと思い、そっと雛の耳に口を押し当てる。
「――好きだ」
「っ!」
できるだけ優しい声音を心がけて唱えた愛。それを受けた雛の肩が跳ねた。
耳から肩、肩から背筋、そして足先へと流れ落ちるように震えは伝播し、雛の両足が抑え切れない喜びを表現するようにぱたぱたと上下する。
「……もう一回」
「好きだ」
「っ、もう一回」
「好きだよ」
「もう、二回」
「好きだ。雛のことが、誰よりも好きだ」
「~~~~!」
顔が緩んで仕方ないのだろうか。頬に両手を当てた雛は、口角の上がった口元から熱い吐息をもらした。
「優人さんの声が頭の中に直接響いてくるみたいで……とてもたまらないです」
「期待には応えられたか?」
「はい! あ、ちなみに録音とかって」
「それは勘弁してくれ」
「ぶー……」
スマホに伸ばしかけた手を止めて雛がむくれた。
期待に水を差してしまうのは申し訳ないが、さすがに恥ずかし過ぎるものがある。
「というか、録音なんかしてどうするんだよそれ」
「寝る前に聴くとか。いい夢見れそうじゃないですか」
愚問です、と言わんばかりの曇り無き
ただ雛も食い下がろうとまでする気はないらしく、くすりと頬から空気を抜いて「まあ、いいでしょう」と納得してくれた。
「欲張りなのもよくありませんしね。ありがとうございます、優人さん。十分過ぎるほど満足させて頂きました」
「どういたしまして。ちょっと恥ずかしかったけど、やった甲斐があったよ」
「ふふふ。なら恥を忍んでまでしてもらった分はきちんと還元しないとですね。優人さん、耳」
優人に預けていた上体を起こし雛が小さく手招き。意図を察して雛の方に首を傾けると、予想通り彼女は優人の耳に口を近付ける。
両手で口の回りに輪を作り、すうっと静かに息を吸い込んで、
「だ い す き」
たっぷりの吐息を含んだ甘い囁きが、鼓膜を震わせ、頭を痺れさせる。
……なるほど、確かにこれは夜寝る前に聴きたくなる中毒性がありそうだった。
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