第75話『頑張り屋さんをお手伝い』
学校へ近付くにつれある程度の視線を覚悟していたのだが、辿り着いてみれば意外にあっけない。
よくよく考えてみれば運動部などの朝練開始よりは遅く、普通に登校するには早い狭間の時間帯が今だ。ある意味生徒の人通りが一番少ない時間帯で、雛と一緒の登校は大して人の目に触れることなく終わりに近付く。最初の一日目の慣らしとしてはちょうど良かっただろう。
「それじゃ、私は委員会の仕事に行きますね」
校舎の昇降口まで辿り着き、雛との何の変哲もない、けれど充実した登校時間が終わりを迎える。些細な別れにすら一抹の寂しさを覚えてしまうものの、こればかりは仕方ない。
雛にはこの後美化委員としての役目が控えているし、仮に無かったとしても学年が違う以上はここでお別れだ。もう一年遅く生まれていれば、雛と一緒に授業を受けられたかもしれないのに。
後ろ髪を引かれる思いを抱えながら、「頑張れよ」と雛に返して二年の下駄箱へ。しかしその矢先、ふと思い立ったことのある優人はすぐにその場で振り返った。
「そういえば、美化委員の仕事って何やってるんだ?」
どうやら隔週月曜日の朝が雛の当番らしいが、何をやっているかなんてわざわざ訊いたこともなかった。
ローファーから上履きに履き替えた雛が、細い人差し指を顎に添えながら口を開く。
「簡単に言えば、校内の各所をチェックしながらの見回りですかね。花瓶の水を変えたりとか、掲示物が剥がれてたら付け直したりとか。たまに簡単な雑用も頼まれます」
「校内全部ってことか? 結構大変そうだな」
「基本的には見回るだけなので、そうでもありませんよ? ただここ最近は換気のために廊下の窓を開けてることが多いですから、風で煽られた掲示物が剥がれかかってるのをたまに見かけるぐらいです」
ちょっとした散歩みたいなものですよ、と締めくくり、雛は踵を揃えたローファーを下駄箱にしまった。
実際、生徒一人に任せている時点で大した仕事でもないのだろう。雛も特別苦にしている様子はなさそうだし、このまま送り出しても何の問題もない。
と思ったのだが、
「良かったら手伝うか?」
気付いたら優人の口からはそんな提案が飛び出し、振り返った雛は「え?」と小首を傾げ、まじまじと優人を見つめ返した。
予想外というか、そもそも手伝いなんているほどのものじゃないし――きょとんと見開かれた瞳からはそんな感情が読み取れて、優人の顔は徐々に熱を持ってくる。
雛ともう少し一緒にという想いのせいで口走ってしまったが、さすがに出過ぎた発言だったかもしれない。
「いやっ、どうせこの時間から教室にいても暇だし、暇潰しがてらって思っただけだから……邪魔なら全然断ってくれて……」
しどろもどろになっても後の祭りだ。ここで「一緒にいたいから」なんて言えればいっそ楽になれるかもしれないが、自分の秘めた感情を正直に伝える勇気が優人にはまだちょっと無くて、結局言い訳がましく言葉を並べる他ない。
そんな情けない男の様をしばし眺めていた雛は、やがてふふっと穏やかに表情を崩した。
「そうですね。男手があると色々助かるかもしれませんし、お願いしてもいいですか?」
「お、おう、任せろ」
「ありがとうございます。なら私は一度職員室に寄らないとなので、お互い教室に鞄を置いてからそこに集合ということにしましょうか」
「分かった」
気を遣われて雛の方から頼まれた形になった気もするが、とりあえず希望は叶った。そのことに胸を撫で下ろしつつ、「また後で」と雛に軽く手を振った優人は今度こそ二年の下駄箱へ向かう。
「――やった」
背中で呟かれたその一言は静かな朝の空気に溶け落ち、優人の耳に届くことはなかった。
結論から言うと、優人の提案は大正解だった。
職員室から出てきた雛曰く、今日は教師から一部掲示物の貼り替えをお願いされてしまったとのこと。それがまあ、どれもこれも掲示板のなかなか高い位置にあり、雛の身長では届かないときた。
もちろん三段程度の小さな脚立でも借りてくれば事足りる話なのだが、そこはたまたま同行していた比較的長身である優人の出番だ。
遠慮なく頼ってくれて構わないし、高いところの掲示物を貼り替えるたびに雛が「わー」と感心したように見てくるものだから、優人としては得意げになってしまう。
我ながらなんて単純な男だろう。
何はともあれ任された仕事を順調に進めていったのだが、終盤において一つの問題に直面した。
「優人さん、あれ届きますか……?」
「さすがに厳しいな……」
「ですよねえ」
二人仲良く苦笑を浮かべる。
視線の先にあるのは保健室前の廊下の天井からぶら下がっている、風邪予防に関する横長のポスターだ。天井に取り付けたクリップ式の金具で留めているみたいだが、その固定が一部外れて中途半端な状態を保っている。
これを付け直すのは、さすがに踏み台なりがないと無理だ。
「どうする? 俺がひとっ走りして脚立でも借りてくるか?」
「そうですね……」
考え込む雛。と思えばすぐに「そうだ」と手を合わせて、優人の方に目を向けた。
「肩車で私を持ち上げてくれませんか?」
「え、肩車?」
「はい、わざわざ借りてくるよりはそっちの方が早いでしょうし」
「そりゃそうだけど……大丈夫なのか?」
確かに雛の言う通りではあるのだが、果たして本当にいいのだろうか。
肩車――体勢を安定させるためには雛の両足を掴む必要があるし、何なら雛の太ももが優人の顔のすぐ横に来ることになる。その辺り、女の子としては大丈夫なのか。
「む……そこまで警戒されるほど、重くはないと思いますけど」
「そこじゃねえよ」
自分のお腹をさすりながらの雛の見当違いな心配にちょっと呆れる。
むしろ体重に関しては全く心配してなかったのだが。優人とて力持ちと胸を張れるほどではないけれど、女の子一人持ち上げられないほど弱くはない。
まあ、本人がいいと言うのならいいだろう。雛はタイツを履いているから、生足に直接触れるわけでもないのだし。
「分かった、雛がいいならそれでいこう」
そう言って雛の前で膝を突き、背中を向けた。わざわざ律儀に上履きを脱いでくれた雛は優人の肩にゆっくりと片方の足をかけ、それからもう一方も乗せてくる。
「スカートとか気を付けろよ?」
「そ、それぐらい分かってますよ」
すぐ後ろ、というより上から恥じるような雛の声が降ってくる。体重が乗ったのを確認したところで雛の足をしっかりと固定し、優人はぐっと全身に力を込めて身体を起こした。
「わっ、わわっ」
「――っ、大丈夫か?」
「はい、思ったよりも高くなったのでびっくりして……。でもこういうの、ちょっと楽しいかもです」
「……そっか。ほら、ポスターには届いてるか?」
「えっと、もうちょっと前で……あ、はい、そこですそこ。すぐ直しますから、少しこのままでお願いします」
「了解」
……一見平然と答える中、優人の心臓は暴れ狂うように鼓動を刻んでいた。
タイツを履いてるからと高を括ったのは完全に失敗だった。
すらりとしつつも女性らしいしなやかさを備えた雛の両足。顔のすぐ横まで迫る太ももからは性別の違いを感じてしまい、黒のタイツ越しにうっすらと見える肌色が情欲を刺激する。
おまけに体勢を安定させようと雛が両足の間を詰めてくるものだから、どう足掻いても特有の柔らかさを感じてしまう。
両足もさることながら、視線を持ち上げれば雛の制服の前面を盛り上げる起伏が視界の上の方にちらちらと映るので、結局下を向いてじっと耐える以外の選択が優人にはなかった。
苦しくないけど、息苦しい。
「どうだ雛、終わったか……?」
「ごめんなさい、他の部分も外れかかってるので、もうちょっとだけ」
感覚を殺しなさいと天使が囁く。
素直に味わっちまえと悪魔がわめく。
そのどちらにも傾けないまま、優人の人生史上、最も精神をすり減らす肩車を続けるのだった。
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