可能なるコモンウェルス〈10〉
支配者も被支配者も同時に従うような、「一定の共同性」を有した規範の下、一定に構造化され制度化された関係性において、しかしこれもまたある一定の仕方で構造化され制度化された「関係の絶対性」が、一方を支配者に、また一方を被支配者として、それぞれを「一方的に」振り分けておいてはそれを釘止めにし、その関係性を絶対化している。その振り分けに、はたして一体どんな根拠と仕掛けがあるものなのかはともかくとして、まずはその大前提に、支配者も被支配者も同時に従うような「共同性」がなければ、支配者も被支配者も「一体となった人間集団、すなわち国家」など、いかに支配者がその力をもって一方的に押し付けようとも、とてもではないが容易に形成しうるものではないだろう。
そんなことからしても、支配−被支配の関係構造が「最初から」一定の集団を要求するという、その根拠はまさしく、この「共同性」にあるものと考えるのは、それなりの妥当性を持つものと思われる。そしてまた、自らの従う「一体的な人間集団、すなわち国家」が、「一定の共同性」にもとづいたものなのだということに人々が気づいたからこそ、後々の「人民主権」が、その共同性を根拠として「平等」を要求するに至ったのだ、ということになるわけなのではないのだろうか?
ともあれ、ここではひとまずのところ、「支配者」なるものとは、その当の支配者も従うような「共同規範」によって制度化された存在である、というように仮定しておこう。そしてこの「共同規範」とは、「支配者をも支配する」という意味において、その「共同性の根拠」を有している、ということになるわけである。
さらに、支配者もまたそれに従わなければならないようなものが、実はまだある。それは他でもない、彼による支配の被支配者なのである。
被支配の妥当性は、統治の正当性に転化される。被支配者たち=人民は、「己れの上に立つ者」がはたしてこの正当性に適う支配者=統治者=主権者として推し戴かれているものであるか否かを、常に抜け目なく見定めている。そこで人民が統治者に要求していたのは、「支配からの自由」などではむしろなく、「より妥当な被支配」ではなかっただろうか?
あらためて言うと、支配者が「支配者でありうる条件」とは、「被支配者の存在」にも依存していることになるわけである。支配者は、単に「支配するだけ」では誰をも支配できない。彼の支配は、被支配者から示される彼=支配者への服従の意思と、なおかつその服従を通じての「支配者への支持」を、支配者自身がその被支配者自身から取り付けることができなければ、一時たりとも持続することはできないし、そもそも最初から成立させることができない。
そしてまた支配者は、「支配されることによって実現される、被支配者の欲望」を持続的に達成していかなければ、彼の支配者としての「力と威厳」を一時たりとも維持できないのである。それができなければ、彼のいかなる力も威厳も立ちどころに失われ、彼は支配者としてその被支配者たちから、すげなく見限られ見捨てられることとなる。要するに、いかに表面上は支配者が被支配者を自らの手のひらで牛耳っているように見えても、別の側面から見れば、支配者こそ彼の被支配者から体よく手玉に取られている、というようなところが間違いなくあるわけなのだ。
〈つづく〉
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