可能なるコモンウェルス

ササキ・シゲロー

可能なるコモンウェルス〈1〉

 近代国民国家の民主主義とは、「国民・人民主権の原理」にもとづいて形成されているものだと、まずは考えることができる。他国の干渉を受けない一独立国家の主権者として、国民・人民はその「主権機能=権力装置としての国家」と一体化することにより、当の国家のその「内部」においては、彼らが「国民として一体化している」限りで、「一体的な主権者」の立場から、その国家の全権能を独占的に行使することができるのだ、というように「一般には考えられている」わけである。

 そのように、「国民・人民主権の原理」にもとづき、主権機能=権力装置である国家と一体化して、その全権能を掌握行使する、「主権機能=権力装置の主体」として、また「国民国家」という現実的・社会的な人間共同体の、その「社会的共同性の主体」として考えられるところの人民・国民とは、「主権者」としては彼ら自身が行使する国家主権のその「対象となるような外部」を、一方では「国民」として彼ら自身が構成する一定の人間集団として共同化されたその「共同体=国民国家としての内部」を、同時かつ二重に形成しているということになる。

 こういった二重性あるいは二面性が、しかし一見すると人民=国民においては何ら矛盾なく機能しているように思えるのは、まさしく人民・国民主権の主権者が「絶対主義王権の嫡子」であることの所以でもあるわけなのだ。逆に言えば、人民・国民が絶対主義王権から引き継いだものとは、単に「国家の主権」であるのみならず、その主権の二重性あるいは二面性諸共なのであった、ということにもなる。つまりはその、主権行使の機能=装置であるところの「国家」もまた、このような二重性あるいは二面性を、そもそもその身にまとわせているものでもあると言える。


 一般に思い違いをされていることが多いようなのでここで一応注意を促しておくと、日本では主権者=国民はあたかも「権利主体」であるというように考えられているが、しかし原理的に言うと主権者はあくまでも「権力主体」であり、一方で権利なるものは本質的に支配−被支配の関係において生じてくるものである。

 ではなぜ日本国民は、自身を主権者であり権利主体であるように考えているのかと言えば、それは言うまでもなくその国民が自らによって権力者=支配者になった経験を持たないということ、あるいは自らの意志と責任において国家を設立した自覚を持たないということに尽きるわけなのである。

 主権国家の主権者は、権力主体として文字通りに国家の「力」を全て独占する。そしてその「力」とは何よりもまず、それを行使するために働く「装置」として目に見えてくるものである。具体的には言うまでもなく、それは軍・警察などを指すことになる。国家主権者は原理的に、これらの「暴力装置」をその思うがまま自由に取り扱うことができることとなっている。そしてそのような原理をまず形作ってきたのが「絶対王権国家の主権者=君主」だというわけなのであり、その「絶対的なイメージ」を、国民国家の「権力者」も基本的には引き継いでいることとなっているはずなのだ。


〈つづく〉

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