第34話 完成した絵画

 ひかりは誠司と美術室で向かい合って座っていた。

 湯気の立つコップを手に、誠司はひかりにいつもと変わらない優しい笑顔を向けている。

 穏やかな日差しが射し込む教室。

 半分ほど開いた窓からゆったりとした風がそよいで、カーテンを揺らしていた。

 ひかりは自分に向けられたその笑顔を取りもどせて、涙が出そうなくらい嬉しかった。

 嬉しくて嬉しくて、ただ目の前にいる誠司のことを見つめる。


「時任さん」

「うん、なあに?」

「大切な話があるんだ。聞いてくれる?」


 誠司はコップを机の上に置いて、ひかりを真っすぐに見つめる。

 

「君には言ってなかったけど、実はお付き合いしてる人がいるんだ」

「えっ?」


 バタバタとカーテンが音を立てた。

 窓から突然吹き付けた風に、ひかりの長い髪が煽られる。

 頬に掛かる髪をかき上げた時、ひかりはそこにいる人影に気付いた。

 いつの間にか誠司の傍に、あの靴箱で見た女の子が立っていた。


「どうして……」


 唖然とするひかりに誠司は淡々とした口調で応えた。


「ごめんね。もう君とはこうして会えないんだ」


 誠司は女の子の手を取って席を立つ。


「ごめんなさい時任さん、そういうことなの」


 女の子は申し訳なさそうにそう口にした。


「行こうか」

「うん」


 二人はひかりに背を向けて教室を出て行った。


「そんな……高木君、待って、お願い待って!」


 そこでひかりは目が覚めた。

 枕は涙で濡れていた。


 高木君……。


 ひかりはそうつぶやいて手の甲で涙をぬぐう。


 日曜日の朝。

 窓からカーテン越しに差し込む日差しの明るさとは裏腹に、ひかりの胸は重く沈んでいた。

 時計を見るともう九時を回っていた。


 靴箱で高木君と一緒にいた女の子。

 とても親しそうに今日の待ち合わせ時間を話していた。

 十時になったら高木君はあの子と会うんだ……。


 ひかりはそのまま枕に顔をうずめる。


 いや…いや…高木君行かないで……。


 胸が切なく痛む。


 どうして私じゃないの……。


 昨日の夜もさんざん泣いたのに、もう涙が止まらなかった。


 どうしてあの子なの……。


 机の上に置いたままの渡せなかったクッキーの袋が、ひかりの胸を締め付ける。


 会いたい……。

 高木君に会いたい。

 私こんなに高木君のことが好きだったなんて……。

 こんなにも胸が苦しいなんて……。


 ひかりは涙で濡れた枕をきつく腕に抱きかかえて、嗚咽を漏らしながら、ずっとひとり泣いていた。



 日曜日の午前中、学園祭のクラス実行委員の誠司は、同じく実行委員の林由美と駅で待ち合わせして、駅前商店街で美味しいと人気のたこ焼き屋でお店の作り方を教えてもらっていた。

 色々模擬店の案が出たが、味で勝負しようということでクラス全員が団結したのだった。


「すみません。お忙しいのに僕たちのために」


 誠司は無理を聞いてくれた店主に深々と頭を下げた。


「いいのいいの、いつも買ってってくれてるお礼だよ」


 たこ焼きを焼く係を買って出た林由美は、緊張よりも興奮の方が上回っているかに見えた。

 いざとなると誠司よりもこの女生徒の方が肝が据わっているようだった。


「実は私、たこ焼き焼いたことないの。なんだか緊張するなー」

「ホント? 立候補してたからてっきりベテランかと思ってた。俺も全く経験ないし、ほんとに上手くいくのかな」


 早く焼いてみたそうな雰囲気のこの女生徒とは逆に、誠司は懐疑的で弱腰だった。


「何弱気になってるの、私たちがしっかりしないと二組は終わりよ」

「その意気だお嬢ちゃん。しっかりマスターして帰ってくれ」


 感じのいい店主はおおらかに笑った。

 そして三年二組期待の星、林由美は腕まくりして熱く焼けた鉄板に向き合ったのだった。



 たこ焼き屋で予想以上に手こずったものの、誠司は午後三時には学校の美術室でキャンバスに向かっていた。

 島田は誠司が戻ってきているのを見て声をかける。


「おう、順調か?」

「絵ですか? たこ焼きですか?」

「どっちもだよ」


 島田は誠司のために、日曜日も美術室を開けてくれていた。


「たこ焼きのほうは、俺はレシピをメモって焼き時間とか測る係でした」

「じゃ林は?」

「あの子プロになれますよ。帰りにバイトにスカウトされてましたから」

「そりゃすごいな。ていうか、うちはバイト禁止だっつーの」


 島田は煙草に火をつける。誠司の存在を忘れているようだ。


「フー、なんかいけそうだな。打倒三組。といってもあの少女漫画のヒロインとラブぽよ2号以外は敵じゃないがな」


 島田がサラッと言った言葉に、誠司は驚いた顔をした。


「先生、今なんか変なこと言わなかった? 何とか2号みたいな」

「ああラブぽよ2号だろ。なんかアニメキャラに似てるって漫研のやつともう一人アブなそうな奴が広めてるみたいだな」

「山田と、山本です」

「そうそう確かそうだった。あれ橘のことだろ。俺も一回観てみようかな」

「いや、深夜アニメでちょっと過激だし、観ない方がいいですよ」

「なんだお前やけに詳しいな。そっちの方にも興味あるって知らなかったよ」


 島田は窓の外にふっと煙を吐いてから、あっと言って慌てて火を消した。


「すまんすまん。つい癖で一服しちまった。内緒にしといてくれ」

「煙草のことはもう慣れているんでいいけど、俺アニキャラに興味ないですよ」

「そうか、とすると、新だろ。俺はあいつは相当なむっつりだと見抜いてるんだ。当たりだろ」


 誠司は何も言わずキャンバスに向かった。

 大当たりだった。



 夕方、もうすぐ十月半ばになろうかという季節は、日の落ちゆく時間も早くなっていた。


「そろそろ帰ろうぜ。いくら何でも長時間労働しすぎた」


 美術室に戻ってきた島田は、さっきまで昼寝でもしていたのか大きな欠伸をした。

 そして誠司は、もうキャンバスには向かわず窓から外を見ていた。

 空が真っ赤に焼けている。教室に射し込む夕日が眩しい。


「とうとう終わったか」


 島田が声をかける。

 誠司は振り返り笑顔を見せた。


「見せてみろ」

「どうぞ」


 まだ絵の具の匂いが残るキャンバスの前に立ち、島田はしばらく何も言わずに完成した絵を眺める。

 教室に差し込む夕日が、教師とイーゼルの影をゆっくりと伸ばしてゆく。

 そして島田は大きく一つ頷くと、口元に満足げな笑みを浮かべた。


「大したやつだよ」


 ぽつりと島田はそう口にして、夕日を遮る窓際の少年に顔を向け、眩し気に目を細めた。


「よく頑張った」


 ずっと少年を見続けてきた美術教師は、ひときわ大きな声で一年越しの集大成を称えたのだった。

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