第12話

「ホントに先に行っていいの?」

 智明の自転車のサドルに跨り、碧は訊いた。

「ああ、先に帰って準備しててよ。野菜と肉はそっちに入ってるだろ?」

 荷物で膨らんでいるエコバッグを肩から下げながら、智明は応えた。

「うん、カレーのルーもね。でも、重くない?大丈夫?」

「大丈夫だよこれくらい。道は分かるよな?気を付けて行けよ」

「分かった。じゃあ、先に帰って作ってるからね。トモも気を付けて!」

 サドルの位置を下げた知明の自転車を器用に漕ぎながら、碧はスーパーの駐輪場から軽やかに大通りに滑り出た。

 遠ざかる碧の後姿を見届け、智明はエコバックを担ぎ直してシンビオシスに向けて歩き始めた。

 昨夜は二人とも妙な緊張感から飲み過ぎて、万次郎に閉店まで長居をしてしまった。

 おぼつかない手で勘定を済ませたが、心配顔のお母さんと由香に店先まで見送られる始末だった。

 フラフラの二人が支えあうようにしてシンビオシスに戻った時には、既に日付が変わっていた。

 酔いが完全に回った状態で、二人は数時間前に期待・・していたことなど遂行できなくなっていた。

 純粋な帰巣本能の赴くままに、這うようにしてお互いの寝床に戻った。

 

 翌朝、智明は昼近くに碧のラインで起こされるまで、いぎたなく寝入っていた。

 ランチと買い物に付き合って欲しいという碧のラインに、やっとのことで『OK』のスタンプを送った。

 それから急いでシャワーを浴び、身支度を整えてリビングで待っていた碧と二人でシンビオシスを出た。

 お決まりの三龍亭で、二日酔いの残る二人はアルコール類は頼まずに麺類と餃子を注文した。

 運ばれてきた麺を頑張ってすすりながら、今夜の夕食を一緒に摂ることを決めた。 

 碧に希望のメニューを訊かれ、智明は間髪入れずに「カレー」をお願いした。

「相変わらずガキんちょメニューが好きなんだね」

 言葉は悪いが、優しい笑顔で碧は言った。

「最近は外でしか食べてないんだ。久しぶりにみどり・・・のカレーが食いたい」

「グリーンカレー?」

 冗談めかして碧が言うと、「そうじゃねーよ。普通のカレー」と智明は口を尖らせた。

「分かってるわよ。でも普通のカレーだったら自分でも作れるでしょ。もっと他に手の込んだものとかじゃなくていいの?」

「いいんだよ。お前が作ったカレーで」

「ふーん、簡単だからいいけど。そうだ、ランチョンミートある?年末に実家から送ってきてない?」

「ああ、あるよ。アーサとコンビーフハッシュなんかと一緒に送ってきてる」

「じゃあ、なんかのチャンプルー作るね。ゴーヤがあればいいんだけど、時季的に売ってないよね」

「どうだろ。スーパーで売ってなかったら麩チャンプルーでもいいよ。あとはサラダがあれば十分」

「ビールもでしょ?」

 悪戯っぽい表情で言い、碧はコップの水を飲んだ。

「ああ、でも今日は程々にしないとな。毎日、昨日みたいに飲んでたら肝臓がいかれちゃうぞ」

「私は週末しか飲まないから大丈夫。トモも休肝日を決めた方がいいわよ」

「そうだな、少しは控えないとな。今日はカレーで腹を満たしてから飲むんで、量は控えるよ」

「そうだね。それがいいよ」

 碧が白い歯を見せて言った。

 だが二人の誓いは虚しく、この夜も痛飲する羽目に陥ってしまった。

 碧の作ったカレーとサラダ、麩チャンプルーを智明の部屋に運び、テレビを観ながら食べ始めた。

 久しぶりに碧のカレーを口に運んだ時、智明のスマホにラインの着信音がした。

 画面を見ると多佳子からだった。

 訝しがる碧に断って、智明はラインのコメントを確認した。

『食欲をそそるカレーの匂いがキッチンに漂っているけど、トモ君でしょ?』

『彼女の手作りかなー?うらやまし過ぎる!』

『私は缶詰を肴に独り寂しく飲むわ……』 

 コメントの最後にパンダが泣いているスタンプがあった。

 多佳子からのコメントを碧に見せると、「老川さんも誘えば?」と邪気のない顔で言われた。

 昨夜不発に終わった儀式・・の再トライを秘かに期待していた智明は、碧の提案に抵抗したい気持ちがあった。

 しかし、多佳子を無視した後のリアクションに想いが至った。

 邪な考えを払拭して、「そうだな。カレーを平らげたらリビングに行こうか」と、漢気を見せるように鷹揚に頷いた。

 二人が使った食器やサラダ、麩チャンプルーを持って一階に降りると、既に多佳子はテレビの前のソファに陣取ってワイングラスを傾けていた。

 智明と碧の二人は恐る恐る多佳子に近づき、「多佳子さん。サラダと麩チャンプルー食べます?なんならカレーもありますけど。軽く焼いたフランスパンと一緒にどうです?」と、智明が訊ねた。

「もちろん全部頂くわ!その代わりお酒はいくらでも飲んでいいわよ。冷蔵庫にはビールとワイン、日本酒。収納棚にはプレミアム焼酎もあるわよ。全部お歳暮で頂戴したものだから遠慮しないでどんどんやって!」

「はあ、昨日飲み過ぎたんで、軽く……」

「何言ってんの!あなたたちは今日から三連休なんでしょ!ウチナンチュらしく、がっつりやりなさい!ねえ、碧ちゃん」

 智明の言葉を遮り、多佳子は速射砲のように言って、傍らに置いていたグラスにワインを注いで智明と碧に渡した。

 

 懸念していた通りに、酒が進むと多佳子から二人の関係の修復度合いを、根掘り葉掘り尋問のように訊かれた。

 なんとか話題を逸らそうとするが、アマゾン川のピラニアのように多佳子はがっちりと食いついて二人の話題から離れない。

 碧から『なんとかしてよ!』のサインが送られてくるが、智明の話術では到底太刀打ちできるはずもなかった。

 そこに休日出勤を終え、疲れ切った表情の遠藤がキッチンに現れた。

 部屋に帰る前に共用冷蔵庫からアルコール飲料を取るつもりだったらしい。

 咄嗟に智明は遠藤に声をかける。

 だが、そういったことだけには勘のいい遠藤は、缶チューハイを両手に持ち、急ぎ足で二階に逃れようとした。

 しかし、新たな獲物を狙う野獣のような多佳子から逃れられることはできず、ライオンに襲われたヌーのように遠藤もあえなく捕獲された。

 智明は心の隅で遠藤に両手を合わせて詫びたが、碧と顔を見合わせて安堵の溜息をついた。

 オドオドとした様子で碧と初対面の挨拶を終えた遠藤は、最初は遠慮がちに飲んでいた。

 だが、翌日が久しぶりの休日ということで、二杯目以降ギアが入り、いつもの倍のスピードでビール、日本酒、焼酎のグラスを空けた。

「皆さん聞いてます?」

 テーブルに空き瓶と空き缶が林立し、酒に滅法強い多佳子も上体が安定しなくなってきた頃、遠藤が全員の顔を見回しながら言った。

「何を?」

 多佳子が遠藤に話の先を促し、ついでに遠藤のグラスに〈獺祭〉をドボドボと注いだ。

「いや、重信君のことです」

「マー君がどうきゃしました?」

 智明も酔いで上体を揺らしながら遠藤に訊いた。

「三月いっぱいできょきょ……ここを出るみたいです」

 遠藤も酔いのせいでやや呂律が回らなかったが、智明と違い、自分の右頬を叩いて修正をしてから応えた。

「その話なら私も市川さんから聞いた」

 多佳子はサキイカを口の端に咥えながら言ったが、詳しい説明は遠藤に任せたのか言葉は続けなかった。

「重信さんと市川さんが、その話をしている時に偶然出くわして……」

「出くわした?」

「ええ、一昨日おとついだったか三日前だったか……。正月から休みなしだったので、午前の会議だけ参加して午後は半休をもらったんです。んで、昼過ぎに帰ってきて、溜まっている洗濯物を洗濯する前に部屋でゆっくりしようと、共用冷蔵庫の缶ビールを取りにキッチンに寄ったら、市川さんと重信さんが将棋をしている風だったんです。ところが、二人の間には将棋盤がなかったんですよ」

 智明の問いかけに、遠藤はしっかりした口調で応えた。

 その後、遠藤はゆっくりとした口調で、その時の話を始めた。

 最初は話があっちこっちに飛んで、酔った頭では理解できなかったが、途中から多佳子が的確に捕捉をしたので、智明はなんとか概略を理解することができた。

 ただ、新参者の碧は話の内容について行けなかったようで、グラスを片手にひたすら相槌を打っているだけだった。

 

 遠藤と多佳子の話によれば、開業医の両親は重信の実の親ではないらしい。

 マー君こと重信正秀の旧姓は杉田で、大手の建設会社に勤めていた父親と、専業主婦の母親との間に生まれた。

 住まいはこのシンビオシスからそれ程遠くない小松川で、平凡だが仲の良い三人家族だった。

 その平穏な暮らしに悪夢のような出来事が襲いかかった。

 正秀が小学二年生の冬休み。

 新潟県内のスキー場に、家族三人でワンボックス型の自家用車で向かう途中に、夜の凍結した道路上で発生した、多重事故に巻き込まれてしまった。

 後部座席でシートベルトに固定された状態で、毛布にくるまれて寝ていた正秀は、左腕の骨折と数カ所の打撲を負ったが奇跡的に一命をとりとめた。

 だが、運転席と助手席の両親は、スリップした対向車の正面衝突により、即死状態だったらしい。

 亡くなった実父の姉が開業医をしている重信利幸の妻で、自らも小児科を担当している潤子だった。

 潤子は親戚縁者が少ない杉田家の中で、正秀にとって唯一といっていい血縁者だった。

 潤子は事故の後、葬儀の手配や杉田家の事務的な手続きを取り仕切った。

 そして、夫の利幸の承諾を得てから、独りになってしまった正秀を重信家に引き取ることにした。

 重信夫妻には正秀より三歳年上の一人息子の利宗がいた。

 開業医の一人息子で医院を継ぐことが当然のように育った利宗は、幼少の頃から親の言うことに従順で、学校の成績も優秀だった。

 突然〈弟〉になった正秀に対しても、本当の兄弟のように接してくれた。

 両親を亡くしたばかりの幼かった正秀は、そんな優しい〈兄〉の利宗のおかげもあり、重信家での新しい生活に馴染んでいった。

 利宗も積極的に正秀と一緒に遊んだり勉強を教えてくれたりして、今でも実の兄弟以上に仲がいい。

 正秀が高校受験を控える頃には、重信夫妻が自分にも医師の道に進んで欲しいと思っているのをなんとなく感じていた。

 兄の利宗と二人で重信医院を更に拡充して、地域医療に貢献するように願っていることは、普段の会話からも十二分に理解できていた。

 だが、正秀が期末試験で早く帰宅したある日。

 重信家の祖母、つまり利幸の母の幸子が、潤子と交わしている会話を偶然に聞いてしまった。

 翌日の試験科目の勉強前に冷蔵庫のコーラを取りに行こうとした時、キッチンから洗いものをしている音に交じって、潤子と祖母の会話が聞こえてきた。

「……私は絶対に反対ですよ。この家を継ぐのは利宗なんだから、重信家とは関係のない正秀まで医者にする必要はないわ」

「お義母さん。私たちは、ただ利宗と正秀の二人で病院を充実して欲しいだけです。正秀は勉強はちゃんとしていて、今も試験中ですけど、入学以来ずっと成績はトップクラスですよ」

「あなたは血が繋がってるからそんなことを言うのよ。でも、私は嫌ですからね。利幸にも言ってるけど、あなたの影響のせいか正秀本人の意向を尊重するなんて言うから心配なのよ」

 リビングの入り口に立っている正秀に、幸子の甲高い声が届いた。

 初孫の利宗を溺愛している幸子は、正秀が重信家に引き取られた当初から正秀には冷淡に接していた。

 自分とは血の繋がりのない正秀には、一切関心がないということを隠さなかった。

 幸子が利宗を嫡男と考えているのは理解しているし、正秀も利宗の邪魔をしたり、足を引っ張るようなことをする気持ちは皆無だった。

 だから、高校進学についての話が潤子からあった時に、医者にはならずに亡き父と同じ建築方面への道に進みたいと強く訴えた。

 さらに家を出て一人暮らしをしたいと言って、潤子だけではなく利幸と兄の利宗をも驚かせた。

 利幸と潤子は進学に関しては正秀の希望を渋々認めたが、一人暮らしには大反対だった。

 墨田区にある工業高校に進学が決まり、正秀は一人で部屋探しを始めるが、当然のことに高校入学前の少年に部屋を貸す不動産屋などあるはずもなかった。

 仕方なく正秀は義父の利幸に事情を説明し、部屋探しの協力を求めた。

 正秀一人で部屋探しができないことを見越していた利幸は、最初は難色を示した。だが、必死になっている正秀の熱意に負けて、徐々に協力をしてくれるようになったが、潤子は最後まで反対の姿勢を貫こうとした。

 しかし、幸子の正秀に対する接し方を知っていた潤子も、最終的には折れて部屋探しに尽力してくれた。

 そして、建築家だった実父と仕事の付き合いで親交のあった小西不動産に潤子が辿り着き、〈シンビオシス〉に入居することとなった。

 その正秀が、高校三年に進級する前に〈シンビオシス〉を退去することになったのは、高校卒業後の進路に関係があるらしい。

 祖母の幸子の意向が大きな要因だったが、〈兄〉の利宗に対する配慮もあって、正秀は自分は医者になるべきではないと考えていた。

 しかし、卒業が間近に迫ってくると、このまま建築関連の道に進むことに迷いと疑問が生じてきた。

 祖母の幸子に対する反抗心から、意地でも医者にはなるまいと強く思っていた。

 だが、そんなつまらない反抗心だけで、自分の将来を決めていいのか。

 実の子供のように育ててくれた利幸と潤子に恩返しをしなくていいのか……。

 週末に中野の家に帰るたびに、潤子からは進路を考え直すように言われた。

 無事に医大に進学した利宗からも翻意するように言われて、正秀の気持ちは揺れに揺れた。

 そんな正秀の気持ちに決着をつけたのは義父の利幸だった。

 年末に帰った時に珍しく声を掛けられ、駅近くの喫茶店に二人で入った。

「最近ふさぎ込んでる時があるけど、何か心配事でもあるのか?」

 カウンターの中でサイフォンを凝視している顔見知りのマスターに、コーヒーを頼んでから利幸が訊いた。

「え、いや、別に。なんにもないよ」

 年の瀬で忙しく行き来する人波を窓外に眺めながら、正秀は口ごもるように否定した。

「そうか……あのな、お前は人に遠慮というか寛容すぎるところがあるよな」

「え?どういうこと?」

「周りの人に寛容になることは凄くいいことだと思う……」

 香ばしい香りと共に顎髭を生やしたマスターが、二人の前に無言でコーヒーを置いたので、利幸は言葉を止めた。

「だけどな……」

 正秀のカップにミルクを注ぎ、自分はブラックのままカップのコーヒーを飲んで、利幸は言葉を継いだ。

「家族には遠慮したり、寛容にならなくていいんだぞ」

「そんな……ことないよ。結構好き勝手にしてるつもりだけど」

 正秀はカップの中のミルクをかき混ぜながら、視線を落としたまま言った。

「本当にそう言えるか?」

「なんで?どうしてそう思うのさ?」

 視線を伏せたまま言い、正秀は熱いコーヒーを一口啜った。

 口中に苦みを伴った酸味が広がった。

「本当は医者になりたいんだろ?でも、高校進学を自分の意志で決めたので、今更進路を変えるなんて言えないんだろ?俺には分かる。利宗もそう思って心配してるぞ。まあ、潤子は逆にお前を医者にしたい一心で、お前の本心に気が付いていないようだけどな」

 そう言って、利幸は柔和な表情で小さく笑った。


 「マー君は市川さんにも相談して、今の自分の気持ちに素直に向き合うことにしたってわけ」

「向き合うことにしたって、どういうこと?」

 智明は、酔い気味の多佳子に話の続きを促した。

「医大を受験するってこと。ただ、実際に診察をする臨床医じゃなくて、研究医になりたいみたいね。いずれにしろ、密かに医大の受験に向けた勉強を独力でしてたけど、やっぱりちゃんとしなきゃならないっていうんで、中野の実家に帰って医大受験専門の予備校に通ったりするみたいよ」

 多佳子はそう言って、ハイボールの缶を空けた。

「研究医か。なんかマー君っぽくていいですね。ことの本質を見極める、冷静で客観的な判断ができるし。将来は新しい発見をして、ノーベル賞でも取るかもね」

 重信の境遇を聞いて、酔いがすっかり醒めた智明は素直な感想を述べた。

「そうよね。マー君なら何をやっても成功すると思うわ。小さい頃に大変な目にあっても、ひねくれたりしないで素直だしね」

 そう言って、多佳子は目立たないように目元を拭った。

「去年の夏に翔君がいなくなって、年末に碧ちゃんが新たに加わってくれたけど、今度はマー君がいなくなっちゃうっていうのは、なんだか寂しいわね。でも仕方ないわね、ずうっとここにいられるわけじゃないもんね……特に若い人たちは」

 多佳子が、智明と碧に充血気味の眼を向けた。

「え?ボクは出ていきませんよ。まだ越してきたばっかりですし……なあ?」

「……何?」

 智明のキラーパス的な問いかけに、碧は反応できなかった。

「ふーん、そうなの?でも分からないわね。だって、二人が結婚なんてことになったら、当然ここを出ていくでしょ」

「け、結婚!そ、そんなことは、まだ……」

「まだって、トモ君、碧ちゃんと一緒になるつもりがないっていうの?」

 多佳子が絡むように追求してきた。

 テーブルの上は空いた缶と瓶が、所狭しと転がっている。

「え、いや、そのー、まだ時期的に……なあ?」

 多佳子の猛攻に耐えられなくなり、智明は再び碧に話を振った。

 だが、静かだった碧の前のテーブルにも、大量の缶チューハイの空き缶が転がている。

「ん?時期的?時期的って何?どういうこと?……あー、もしかして、アタシとは遊びなんだな。ここまで追っかけてきたアタシが邪魔になってきたんだな……酷い!酷過ぎる!多佳子さん!この男は酷いんです!散々アタシをもてあそんだくせに、飽きたらポイですって!こんなの許せますか!」

 知り合ったばかりで事情の分からない重信の話が続いていたので、その間、碧はひたすら飲んでいた。

 気が付いたら既に泥酔に近い状態で、自分のことをわたしと言えなくなっていた。

「そうだ!トモ君!なんとか言え!あんたは今日から女の敵だ!」

 多佳子も碧の錯乱したような状態が憑依してしまった。

 逃げ場のない智明はソファから腰を浮かせ気味にして、藁にも縋る思いで遠藤を見た。

「内間さん!わ、私を見てもなんの解決にもなりませんよ。それにこんな可愛い女性ひとに追いかけられてるなんて、私からしたらそれこそ敵ですよ」

 遠藤はふらふらになりながらも、智明を吊し上げている多佳子と碧に恐れをなして、己の保身のために絵に描いたような裏切り行為に走った。

「な、なんですか、遠藤さん!ボ、ボクを見捨てるんですか!酷いじゃないですか!」

「酷いって……それはこっちの台詞ってなもんです。女性にもてたことのない私の前でのろけたりして、私がどんなに辛い思いをしてるか、考えたことありますかって!」

「のろけって……のろけたことなんてないでしょ!ましてや遠藤さんの前で」

 智明は裏切り行為に拍車がかかってきた遠藤に、戸惑いながら言った。

「それはパートナーがいる、もてる人の自分勝手な解釈ですってなもんだ!あっしなんざ、綺麗な女性と散歩してる幸せそうな犬にだって嫉妬するくちですからね」

「そ、そんなの、オス犬かどうか分らないじゃないですか!」

 酔っているのか、青森生まれなのに突然柴又生まれの江戸っ子みたいな口調になった遠藤を、智明は持て余し気味に詰った。

「そんなのオスに決まってるってなもんだ!ねえ?」

 遠藤は、自分は女性陣の味方だということを認めてもらおうと、巻き舌で言ってから、阿るように多佳子と碧に同意を求めた。

「そうだ!トモ君は贅沢だ!こんなに可愛い碧ちゃんに好かれてるのに、結婚を躊躇う資格があると思ってんの!」

「そうだ!トモはずるい!なんの罪もないアタシを疑って、それを口実にアタシを捨てるんだ!」

「そりゃあ許せねー!そんなことしたらあっしが黙っちゃいませんってなもんだ!」

 多佳子と碧、そして柴又生まれのフーテンが憑依したかのような遠藤たち酔っ払いの攻撃に、智明はソファにあったクッションで頭を防御した。

 

 喉の渇きと寒さで智明は目が覚めた。

 閉め忘れた遮光カーテンの隙間から弱々しい冬の陽が入っていて、室内はうっすらと明るかった。

 はぐれた掛け布団を直そうとした時、隣に温かい物体があった。

「な、なんだ……?」

 栗色の髪の毛に顔が隠れているが、隣で寝ているのは明らかに碧だった。

 左腕に感じる体温と仄かな匂いは、決して忘れることはなかった。

「おい、何してんだ」

 見覚えのある智明の長袖のTシャツを身に纏った碧の肩を揺すった。

「うん……あ、おはよう、って、なんでトモがいるの?……ところで、今何時?」

 寝ぼけ眼の碧は落ち着いた様子で、智明に向き合うように態勢をずらしながら訊いた。

「何時って……八時……四十分。なんでって、それはこっちの台詞だ!」

 智明は机の上に置いてある目覚まし時計で、時間を確認してから言った。

「うーん、あー、頭が痛い。ガンガンするー。お水が飲みたい」

「水って……」

 自分も喉の渇きを覚えていたので、智明は軽く身震いをしながらベッドから這い出した。

 いつ着たのか記憶にない寝間着代わりのスエットだけだと寒い。

 小型の冷蔵庫からペットボトルを取り出し、直接ボトルに口をつけて一気に飲んだ。

 そのままベッドに戻り、布団を引き剥がしてから碧の額にペットボトルをつけた。

「きゃっ!冷たい!もう、何すんのよ」

 文句を言いながら上半身を起こし、碧は半分近く残っていたペットボトルの水を飲み干した。

「なんでお前がいるんだ?しかも、それ俺のTシャツだぞ」

「え?あ、ホントだ。なんで着てるんだろ……私が着てたのは」

 机の上の目覚まし時計の横に、きちんと畳まれた碧の衣服はあった。

「酔っぱらってたのにちゃんと畳むなんて、しっかりしてるな」

「ううん、多分トモが畳んだんだよ。自慢じゃないけど、私酔っぱらったらそんなまめなこと絶対にできないから」

「威張って言うな!……で、しつこいようだけど、なんで俺の部屋にいるんだ?」

 そう言いながら、智明は寒さから再び布団に入り、碧の横に身を滑らせた。

「分かんない……憶えてない。昨日、かなり飲んだのは記憶にあるけど……お酒臭いからそんなにくっつかないで」

「お前も酒臭いって!リビングの時計が一時半くらいまでは憶えてるけど、その後、なんかお前とか多佳子さんに攻められて……遠藤さんも一緒になってたような」

「そう?私は全然記憶にない。重信君の話を皆でしてたのは、ぼんやりと憶えてる。でも、私は途中でメッチャ眠くなったきて……そこからの記憶が全くない。なんで、トモの部屋に来ちゃったんだろ?」

「俺だって分かんないよ……ところで、今日はなんか予定はあったっけ?」

「予定?特にないけど……」

「そうか。じゃあ、せっかくだからもう少し寝るか。寒いしな」

 そう言って智明は碧の方に身体の向きを変え、左の掌で優しく碧の髪を撫でた。

「そうね。明日も休みだし……ねえ、寒いからこっちきて……」

 智明は碧の言葉を最後まで聞かずに、唇で遮った。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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