第2話

 智明は寝不足からだけではない疲労と、首筋から肩甲骨にかけての強張りを感じた。電話をかけるのを止め、一口しか飲んでいないアイスコーヒーをゴミ箱に放り込んだ。

 明るくなり始めた空の下、智明は碧の住むマンションに急いだ。玄関ホールに入り、エントランスにある呼出しボタンで碧の部屋の番号を押す。数回電子音のチャイムは鳴るが、応答はない。

 普段はのんびりしていて、沖縄生まれだからな、と周りから揶揄い半分で言われる智明だが、今は不安混じりの怒りで頭の芯が熱くなっている。再度、指先が白くなるくらいに強く呼出しボタンを押した。

 応答はないかと思ったが、突然スピーカーから、「どうしたの?こんなに早く」と、碧の少ししわがれた声が聞こえた。

「開けてくれ」

 怒鳴りたいのを必死に堪えて、智明は普段は出さない重量感のある声で言った。

 カチっという音と共にエントランスのガラス扉が開き、智明はスーツケースと紙袋を持って、あいつ・・・が降りて間もない状態で止まっていたと思われるエレベータに乗り込んだ。三階でエレベータを降り、五部屋が並んでいる真ん中の部屋のインターホンを押した。

 智明が来るのを待っていたのか、解錠の音はなく直ぐに扉は開いた。

「どうしたのよ。お昼前に来るんじゃなかった?」

 薄手のスエットの上下を来た碧が顔を出し、視線を合わせないように下を向いて言った。

 それには応えず、智明は乱暴に玄関扉を大きく開け、スーツケースと紙袋を狭い三和土に置き、碧を押し退けるようにして室内に上がった。

 狭いキッチンを通り抜け、狭い寝室兼リビングに入り、布団の掛かったテーブル兼用の炬燵に、ったまま爪先を入れて温もりを確認した。

 ベッドは碧が起きたばかりの状態なのか乱れている。

 智明はベッドの傍にあるティッシュで一杯の屑入れを見て、ふと言いようのない絶望感に襲われた。

「どうしたの?何で黙ってるの?」

 背後から聞こえる碧の声が、癇に障る。

「どういうことだ?説明してくれ」

 振り返って碧を殴りつけたい衝動に駆られたが、智明は拳をきつく握りしめて耐えた。

「説明って?……どうしたの?何を怒ってるのよ」

「さっきから、どうしたばっかりだな。他に言うことはないのか」

「だって、いつものトモじゃないから……」

 碧は化粧を落とした白い顔に、怯えるような表情を張り付けさせながら智明を見た。

「いつもの?当たり前だろ!この状況で正常でいれるわけがないだろ!」

 自分でも驚くような大きな声で智明は言った。

「ちょ、ちょっと大きな声出さないでよ。まだ朝の五時よ」

「その朝まで何をしてたかって訊いてんだよ!」

 智明は腹の底から絞り出すようにして、低く怒気を含ませた声を投げつけた。

「何って……昨日は新年度の人事異動で配属してきた人たちの歓迎会だったのよ。入社二年目の女の子と、四十歳くらいのチーム長の……」

 後ろで束ねてはいるが、乱れた髪と、すっぴんだけが原因ではない蒼白な顔で碧は話し始めた。

「……」

 智明は声を発しないで、先を促した。

「その女の子が面白い子でつい盛り上がっちゃって、何人かで二次会のカラオケに行ったんだけど、私が途中で酔っぱらっちゃったみたいで……トモ、立ってないで座ったら?」

 碧は智明に炬燵に入るように勧めながら、炬燵のスイッチを入れて座った。

「いいから、続きは?」

 智明は立ったままの姿勢で碧を見下ろした。

 ネットの記事で、怒りは六秒で収まるというのを見たが、碧が話している間、頭の中でゆっくりと一から十を数えたが、全く効果は現れてこない。

 今はどんな懐柔も無駄だと悟った碧は、炬燵の上にあるティッシュボックスからティッシュを抜き取って洟をかんでから話を続けた。

「二次会が終わって、品川から電車に乗ったんだけど、気持ち悪くなっちゃって、一旦横浜で降りてトイレに行ったの。で、トイレで少し吐いたら、いくらか良くなって、なんとか家に帰って来たのよ。でも家に着いたら安心しちゃったみたいで、直ぐにベッドに入って寝ちゃったみたい。だから、トモの電話とかラインには気が付かなかったの……ごめんね」

 碧は頭を下げた。

「一人で帰って来たのか?」

 頭のどこかでしつこく訊くのは止せという声が聞こえたが、智明は抑制できずに最大の疑問をぶつけた。

「どいう意味?」

 防戦一方だった碧の顔色に赧みが差した。

「誰かと一緒に帰って来たんじゃないのかって訊いてるんだ。それと、昨日俺が呼出しボタンを押した時は家にいなかったのか?」

「誰かって、誰よ?ちゃんと一人で帰って来たわよ。トモがウチに来たのは、夜中にトイレに行った時にスマホを見て知ったわ。電話もあったみたいだし、悪いことしちゃったなと思ったけど、何処にいるのか分からなかったし、夜中だから返信をしなかったのよ」

 碧はそう言って大きく溜息をついた。

「本当に一人なんだな?」

「しつこいわね!一人で帰って来たって言ってるでしょ」

 碧が、それが怒った時の癖で、親指を握り込んだ拳を固めて智明を見上げた。

「何、開き直ってんだ!」

 逆ギレにしか見えない碧の態度に、智明の怒りは暴発寸前になった。

「開き直ってなんかいないわよ!ホントのことを言ってるのに、トモが信じないからでしょ!」

 碧は握りしめた拳をほどいて、ティッシュで再び洟をかんだ。

「じゃあ、俺がさっき見た男はどこから来たんだ?」

「……男って?」

 一瞬、息を飲むような間があってから、碧は反芻するように訊いた。

「以前渋谷で会った男だよ。会社の同僚で浅草の料理屋の息子とかいってたやつだよ」

「……」 

 碧は洟をかんだテイッシュを握りしめて、驚きを隠すように言葉を飲み込んだ。

「なんで浅草に住んでるやつが、始発に間に合うように必死で東戸塚駅に走って行くんだ?しかも土曜日なのにスーツ姿で……それにこのマンションの方から来たぞ。この辺にあいつの知り合いでも住んでいるのか?それとも、あいつは最近こっちに引っ越してきたのか?」

 智明はこれまで生きてきて、これ程皮肉交じりの言葉を発したことがなかったなと、胸の奥で自嘲した。

 碧は握りしめたテイッシュを見ているのか、下を向いてしまった。

「どうなんだ?名前は忘れちゃったけど、間違いなく渋谷で会ったチャラいあいつだったよ。偶然にしてはでき過ぎだよな」

 自分で言っているのが信じられないくらいに、毒のある言葉で智明は言った。

 碧は全身を固くして微動だにしない。

「何か言うことはないのか?……本当のことを正直に言えよ」

 固まった碧を見て、智明は少し冷静さを取り戻した。

 智明の声色がいつもの状態に戻りつつあることを敏感に感知した碧は、握りしめていたテイッシュをベッドの近くにある屑入れに投げた。

 綺麗な放物線で屑入れに入ったティッシュを見て、智明は胸の中で見事なスローを称賛した。だが、直ぐに自分のお人好しさを戒めた。

「ホントはね……。これはホントのことだからね……」

 碧は智明を見上げて哀願するような表情になった。

「本当って?」

「あの人、山崎さんっていうんだけど……。昨日、山崎さんが送ってくれたの……」

「送ったって……部屋まで?」

 智明の声に再び怒気が帯びて、碧は肩をすぼめて、こくんと頷いた。

「さっきは一人で帰ってきたって逆ギレしたじゃないか!」

「ホントのことを言うとトモが怒ると思って……。それに送ってもらっただけで、何もなかったから言わなくてもいいかなって……」

 最後の方は消え入りそうな声で碧は言った。

「ふざけんなよ!じゃあ、嘘をついたってことじゃないか!バカにしてんのか!」

 つい大きな声になり、智明は隣の部屋から苦情が来るかと思い、両隣に接している壁を見てしまった。

「ごめんなさい……でもホントに何もなかったのよ」

「何もなかったからって……。送ってもらっただけでなく、なんで部屋に上げたんだ?上げたんだろ?」

 智明は立っているのが辛くなり、腰を下ろして座ったが、幼稚な意地を張って炬燵には足を入れなかった。

「横浜の駅で吐いたのはホントなの。で、トイレを出たらそこに山崎さんがいてびっくりしたんだけど……。酔った私を心配して、品川から同じ電車に乗って私の様子を見てたって……」

 碧は言葉を途切らせ、またテイッシュで洟をかんだ。

「びっくりしたけど、山崎さんがペットボトルの水をくれて、心配だから家まで送るよって言ったんだけど……。私はもう大丈夫だからって言って、ホームに行こうとしたの」

「で?」

 中々先に進まない碧の話に、智明は苛立ちを隠さずに先を促した。

「電車は大変だからタクシーで送るって言われて……家の前まで送ってもらって……。そしたら、終電がない時間だから始発まで部屋にいさせてくれって……」

「そんなミエミエの手口に乗って部屋に入れたのか?そんな子供だましの話を俺に信じろって言うのか!」

 吐き捨てるように智明は言った。

「違う、ちゃんと断ったわよ。帰りのタクシー代は月曜日に返すから、乗ってきたタクシーで帰ってって言ったわよ」

「でも、結局は部屋に入れたんだろ」

 智明の言葉に、碧は項垂れるように頷いた。

「本当は最初からその予定だったんじゃないのか?浅草に住んでるやつが、なんで逆方向の横浜までついてくるんだ。今思えば渋谷で偶然会ったのも、本当はあいつが俺たちの様子を探るために来たんじゃないのか?じゃなきゃ、あいつは立派なストーカーだぞ」

「どういう意味?」

 碧は顔を上げて智明を見た。

「どういう意味って……お前たち、本当は付き合ってんだろ?じゃなきゃ、渋谷での偶然の出会いや、昨日からのことの説明がつかないじゃないか!」

「バカなこと言わないで!」

 碧の表情が怒りで歪んだ。

「バカなことだって?お前の言ってることを信じる方がよっぽどバカだろ!そんなお前の話を聞いて、それを信じない方が悪いなんて言うやつがいたらお目にかかりたいよ!」

 智明は怒りでじっとしてられなくなり、思わず立ち上がった。

「ホントよ、ホントなんだってば!部屋に上げたりして、トモに誤解を与えるようなことをした私が悪かったのは分かってる。でも、ホントのことを言ってるんだから……お願い……」

 花粉症のせいだけではない大量の涙と洟を、テイッシュでかんでいる碧を見て、智明はこれ以上は無理だと、内臓が全て抜け落ちたような脱力感に襲われた。

「もう、いい。何を聞いても、もう信用できない。最初は一人で帰ってきたとか嘘をついたし。お互いに嘘だけはつかないのがルールだったけど、それを破ったのはお前だからな……。もう、好きにしろ」

 智明は玄関に向かい、スーツケースと紙袋を持って扉を開けた。

 部屋の方から碧の声が聞こえたが、三階で停止していたままのエレベータに乗り込んだ。

 ささくれた気持ちでスーツケースを引き摺り、東戸塚駅の改札を抜けてエスカレータでホームに降りた。土曜日の早朝の上りホームには、かなりの人が眠たげな顔で電車を待っていた。

 寝不足と空腹で胃痛を感じた智明は自販機でコーンポタージュスープを買い、ホームに滑り込んで来た電車に飛び乗った。

 空いている隅の席に腰を下ろし、缶のタブを開けて熱いスープをいがらっぽい食道と胃に流し込んだ。

 スープの缶を膝の間に挟み、ひっきりなしにジャケットの内ポケットで振動していたスマホを取り出す。

 碧からのライン通話とメッセージの着信通知が、ロック画面に表示されている。智明はメッセージを読まずにスマホをポケットに戻し、スープの残りを飲み干した。

 まだ温もりの残る空き缶を握りしめ、これからどうするかを考えた。空腹感はあるが、とにかく眠い。今日の塒と、これから独りで住む部屋も探さなければならない……。

 もう、碧と一緒に住むことは考えられない。

 碧に対する未練は嫌になるほどたっぷりとあるが、昨夜からの碧の行動とその説明は水に流せるものではなかった。

 普通の人より寛容さを持ち合わせていると自負をしているが、そのキャパシティを超える怒りの感情は制御不能で、行き場のない怒りと憎悪は膨らむばかりだった。

 昨夜の出来事は今迄の喧嘩や諍いとは違い、二人の関係の修復が不可能な事件だと思う。

 碧だけではなく、周りからも優柔不断でお人好しと評されている智明だが、今回の件だけは許せない。いや、許してはいけない。

 今、碧を許して関係を修復しても、碧とあの男に対する妬みと嫉み、あるいは僻みかもしれない複雑な感情は、決して消えることはない。

 激しく壊れたグラスの破片は四方に飛び散り、欠片を集めても完全には元には戻らず、修復した跡が醜く残ったグラスからは水がこぼれるだけだ……。


 横浜駅を後にした車内で、智明は内ポケットで振動を繰り返すスマホを取り出し、碧の電話番号を着信拒否に設定してから連絡先リストから消去をした。

 車窓の外を過ぎ去る景色をぼんやりと見ていると、ふいに、何か取り返しのつかないとんでもないことをしてしまったような気がした。

 電車の揺れと周辺のざわめきで、智明は眠りから覚めた。

 窓の外に眼をやると、徐々に速度を上げている電車は錦糸町駅を離れたばかりだった。

 横須賀線に乗ったはいいが、どこに行くかを決めていなかった。

 次の停車駅は新小岩だが、とりあえずは学生時代に住んでいて土地勘のある本八幡にでも行ってみようかと、智明は濁った頭で考えた。

 新小岩駅が近付き電車の速度が落ち始めた時、新小岩の駅前のアーケード型の商店街にカプセルホテルがあったことを思い出した。

 学生時代、ゼミが一緒で仲の良かった同級生が新小岩のアパートに住んでいた。同じ沿線に住んでいた智明は、数か月に一度の頻度でバイトの帰りに新小岩駅で途中下車をして、その同級生と安酒を飲みに行っていた。

 飲み屋と駅の行き帰りに、アーケードの中程でカプセルホテルの壊れかけた電飾看板を目にした記憶がある。

 とにかく横になりたかった智明は停車した新小岩駅で電車を降り、投げ出したくなってきたスーツケースを引いて、記憶にあるカプセルホテルに向かった。

 土曜のまだ早い時間で人の流れが少ないアーケード商店街を歩き、記憶通りの場所で、今も壊れかけているカプセルホテルの看板を見つけて入店した。

 古ぼけたフロントにいた愛想のいいおじいさんから、今日は点検があるので昼の十二時迄しか利用できないと言われた。

 少しもったいない気がしたが、抗しきれない睡魔には勝てず、智明は料金を払って指定されたカプセルに潜り込んだ。

 目を瞑った瞬間、碧のことを想い浮かべる余裕もなく智明は奈落の底に引きずり込まれるように眠りに落ちた。

 

 スマホのアラームで、十二時少し前に智明は起こされた。まだ眠気はあるが、四時間近く熟睡したのでいくらかは体力は戻っている。

 ただ、体力の回復に反比例するように、重い後悔の念で気力が萎えていて腹に力が入らない。

 部屋を借りなければならない大仕事が控えているが、今夜を含めて当面の塒の確保は急務だった。

 幸いにも週明けの月曜日は転勤に伴う特別休暇なので、今日を入れて二日半の猶予はある。

 先ずは自由な行動を阻んでいるスーツケースと紙袋をなんとかしたい。

 大型のコインロッカーがあればいいのだが、それよりは今夜の宿泊先を決めて、荷物を預けた方が賢明な気がした。

 智明はカプセルホテルを出て、近くにあった全国チェーンのコーヒーショップに入った。

 荷物をカウンター席に置き、アイスコーヒーを買って腰を落ち着ける。

 スマホを検索して新小岩駅近くにある手頃なホテルを見つけ、今日と明日の二日間の予約をした。チェックインは三時からだが、荷物だけ預かってもらうことにして、コーヒーショップを出た。

 新小岩駅の北口近くに建つやや古びたホテルに入り、フロントの若い女性に声をかけた。

 智明の依頼事項に対して、フロントの女性はにこやかに応じてくれた。

 両手が自由になり、やっと手枷足枷から解放された気分になる。

 身軽になったせいか空腹を覚えたので、食事する場所を探すために、アーケード商店街に戻ることにした。

 アーケードをしばらく歩くと、黄色の看板に赤い文字で〈三龍亭〉と書かれている街の中華屋といった風情の店があった。

 土曜の昼食時間帯で混んでいるが、店員にカウンター席の端に案内される。

 荷物がなく文字通り肩の荷が下りた気分なので、智明は生ビールと野菜炒め定食を注文した。山盛りのご飯と、皿からこぼれる程の野菜炒めを生ビールで平らげると、凝り固まっていた肩が少しほぐれた気がした。

 まだチェックインまで時間があるので、この辺に住むわけではないが参考までに不動産屋を訪ねてみようと智明は考えた。

 ホテルの方に向けて歩いていると、歩道橋の近くに不動産屋があった。

 派手な幟や立て看板もない地味な印象の店だ。道路に面したガラス扉に貼ってある物件の数も少ない。

 ちょっと入るのに躊躇したが智明は思い切ってガラス扉を開けて、蛍光灯だけで少し暗い感じの店内に足を踏み入れた。

 地元密着型とでも言うのか、大手チェーン店にあるようなタレントが大写しのポスターやステッカーなどはない。その代わりに防犯や消防の注意喚起のポスターが数枚、整然と貼られてあった。

 ガラス扉を後ろ手で閉めると、初老の女性がカウンターの向こうから「いらっしゃいませ」と、挨拶をしてきた。

「あ、あのー、部屋を探してるんですけど」

 智明は活気とはまるで無縁な店内の雰囲気に、店選びを失敗したかなと一瞬後悔の念を覚えた。

「はいはい、どんな物件をお探しですか?」

 初老の女性がカウンター越しに智明に向き合い、柔和な表情で言った。

 店の雰囲気は地味だが、応対しくれる初老の女性の物腰は柔らかく、どこかほっとする雰囲気を与えてくれる。

「あ、いえ、特に場所とかは決めていないんですけど……。できるだけリーズナブル、手頃な家賃で……」

 智明はそう話しながら、新宿の本社への通勤を考えると、新小岩周辺も悪くはないと思えてきた。

 各駅停車で御茶ノ水まで行き、中央線の快速に乗り換えれば数駅で新宿だ。

 御茶ノ水駅での乗り換えが面倒なら、少し早めに家を出てそのまま各駅で新宿駅まで行くこともできる。

「うちはこの辺の物件しかご紹介できませんけど……。あ、私は小西です」

 初老の女性はプラスチックのケースから黒い文字だけの素っ気ない名刺を取り出して、智明に差し出した。

「あ、この辺……新小岩辺りも候補です」

 受け取った名刺を確認しながら智明は咄嗟に言った。

 初老の女性の名前は小西愛子と書かれている。

「間取りとか、ご予算のご希望は?」

「えーと、一人なのでワンルームで充分です。予算は……なるべく安く」

 智明はそう言って、ぎこちなく笑った。

「はー、お安くですか。お勤めですか?」

「ええ、大阪から転勤で……。会社は新宿です」

「大阪からですか。転勤はいつから?」

「今度の火曜日です」

 智明は女性の眼を見ず、壁に貼ってある詐欺に注意のポスターに視線を向けながら言った。

「あら、そんな急に。じゃあ、こちらではホテルとかにお泊りですか?」

「ええ、すぐそこのビジネスホテルに」

「ああ、あそこの……外国のお客さんが多いみたいですね。でも、結構部屋は綺麗みたいですけど。あら、いけない。お茶をお出しするのを忘れてたわ。コーヒーとお茶、どちらになさいます?」

「あ、お茶をお願いします」

 小西と名乗る女性はお茶の用意をするために、建てつけの悪い引き戸を開けて奥に消えた。

「今の時期は引っ越しシーズンなので、いい物件を探すのは中々難しいんですけど…どれ」

 お盆に日本茶と最中を載せて戻ると、小西は腰を下ろして老眼鏡をかけてからファイルをめくり始めた。パソコンはあるがそれは使用しないようだ。

 お茶のお代わりと途中で出された煎餅を頂戴しながら、智明は目の前の初老の女性店主と様々な雑談を交わした。

 人見知りの智明だが、小西の柔和な語り口と押しつけがましくない質問のせいか、会話は途切れることなく続いた。

 物件はワンルームを中心に、数件の資料を見せてもらった。しかし人の移動が最も多い四月ということで、良さそうな物件はなかった。

 あったのは駅から離れているためバス利用だったり、築年数の古い木造アパートだったりで、内見したくなるような部屋はなかった。

「時期的に難しいですかね。もっと早く探さなければならなかったんでしょうけど……。さっきも言ったように、ちょっと事情があって、住もうとした部屋がだめになっちゃったもんで」

 智明は落胆したように言った。

「お仕事もあるし、部屋が決まらないと大変ですよね。……そうだ、とっておきの物件がありました。お客さん、家具とか大型の家電とかはまだ大阪ですか?」

「いえ、大きいものは処分してきましたので、荷物は着る物と……」

 小西に説明し始めた時、智明は重大なことを思い出した。

「他には?」

「あ、いえ、とにかく家具とか大きい家電はこっちで買い揃えるつもりです」

 家具と大型家電は碧の部屋にあるものを使うつもりで大阪のリサイクルショップに売ったり、同僚たちに提供してしまった。

 ハンドキャリーでは持ち切れなかったお気に入りのCD、ゲーム機本体とソフト、それとマンガが主体の本、コートなどの冬用の衣類は、碧の部屋に宅急便で手配をしていた。

 その荷物は今日の午後の配達に指定しているので、今頃は碧の部屋に届いているはずだった。

「でしたらいい築浅の物件がひとつありますよ。先月退去したばかりなので部屋のクリーニングが必要だから、今日から入居ってわけにはいきませんけど」

「……」

 碧の部屋に届いているであろう荷物をどう対処しようかと智明の意識はそちらに向いてしまい、小西の話に曖昧に頷いた。

「そこは家具とか大型家電はほとんど設置されているので、それこそ手ぶらでも入居できますよ」

「え!それはありがたいですね」

 手ぶらで入居ができると聞いて、智明は意識を部屋探しに戻した。

「そこは大きな一軒屋ですけど、個室が七部屋ある、いわばシェアハウスみたいなところなんですけどね。でも、シェアハウスと言ってもお部屋はちゃんとしたワンルームで、トイレとシャワーブースがあって、一口タイプのIHコンロのキッチンと小型の冷蔵庫。それから、備え付けのベッドの本体っていうか枠、机と椅子があります。共用ですけど洗濯機と乾燥機は三台ずつあって、それに物干し場も部屋ごとに場所が決められてます。浴槽のあるお風呂場とトレーニング用のマシーンもあるし、共用のキッチンにある大型冷蔵庫も、部屋ごとに使用できるスペースが決まってますから他の方と揉めることはないですよ。それに共用のリビングには大型テレビもあるから、テレビも必要ないかも」

 小西は商売熱心な不動産屋になって、耳障りのいいセールストークを始めた。

「シェアハウスですか……」

 極度の人見知りの智明は、少し難色を示した。

「シェアハウスといっても部屋は独立していて、プライバシーはしっかりと守られているから大丈夫ですよ。先月退去した方もお客さんと同じく広島に転勤になったサラリーマンの方でしたけど、住みやすいから本当に離れたくないって仰ってましたから。これからお部屋を見てみませんか?それからお決めになっても構いませんし」

 小西の熱心な説明に負ける形で、智明は「はい」と、頷いてしまった。

 車がないという小西と徒歩でアーケードの商店街を端から端まで歩き、そこから数分で大きな一軒家に着いた。

 〈Symbiosis・シンビオシス〉と書かれているステンレス製の銘板の横の門扉を開き、小西は玄関までとことこと歩き、合鍵で解錠した。

 二階にある空き部屋と共用スペースを内見しながら、小西から細々とした説明を受けた。

 退去したばかりの部屋は綺麗でクリーニングは不要にも思える。設備も充実していて、文字通りカバン一つで引っ越しができそうだ。

 参考までにと家賃を聞き、想定していた金額を下回るのに驚いた。

 智明は「ここ、契約できますか?」と、シェアハウスを敬遠していたのを忘れたかのように、思わず小西に訊いてしまった。

 

 再び来た道を徒歩で店舗に戻り、小西から入居に必要な費用や書類の説明を受ける。

 正式な入居は大家の承諾が必要だが、勤務先や年収、保証人もいるので問題ないと、小西は自信たっぷりに言った。

 明日の日曜日は定休日なので、今日中に大家の確認を取ってから連絡すると言う小西に礼を言い、智明はホテルに戻った。

 チェックインを済ませ、部屋の鍵と荷物を受け取って無機質なビジネスホテルのベッドの上に仰向けに寝ころんだ。

 昨夜からの慌ただしい経過をぼんやりと思い返していると、枕元に置いたスマホが突然鳴りだした。

 びっくりして画面を見ると、知らない固定電話の番号が表示されている。一瞬、碧がどこかの固定電話からかけてきたのかと思ったが、東京の市街番号だ。恐々しながら電話に出ると、不動産屋の小西からの電話だった。

 小西は大家さんから入居の許可が出ましたと告げ、入居可能日の他にベッドとカーテンのサイズを親切に教えてくれた。それから契約書の作成が必要になるので、都合のいい時に店舗を訪ねてくださいと優しく言う。

 智明は今から店に伺いたいと言って、ベッドから鉛のように重くなっている身体を引き剥がすように起こした。

 再び小西不動産に出向き、必要書類と記入方法を聞いてから契約書を受け取った。

 店を出て、小西から教わったホームセンターに向かう。

 駅からは少し距離はあるが、町の様子を把握するために、疲れてはいるが徒歩で行くことにした。

 ホームセンターに着くと、時間をかけずにコスト重視で寝具類とカーテンを購入した。

 配達の手配をして徒歩でホテルに戻る途中、コンビニで缶ビールなどの買い物をする。

 ホテルの部屋の粗末な椅子に座り、全く予想していなかったジェットコースターのような一日だったなと、深い溜息をついた。

 脱力した頭に、当たり前のように碧の顔が浮かぶ。

 智明はそれを打ち消すように、缶ビールのプルタブを勢いよく開け、喉を鳴らして苦いビールを胃に送り込んだ。


※最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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