第18話

 ユズの生まれ故郷は長閑な村だった。

 インセン国の東の端にあって、山を幾つか越えると砂の国にたどり着く。

 王都からは遠く離れ、土地は肥沃で、美しい季節の移ろいがあった。

 周囲を山々に囲まれた盆地という性質上、夏は蒸し冬は底冷えしたが、水害も雪害もない。

 村民のほとんどは、ジオキビの栽培で生計を立てていた。ジオキビの栽培は決して楽な作業ではない。刈り入れ時にはネゴの手も借りたくなる程忙しい。それでも村に流れる時間は緩やかで温かい。

 ジオキビは長く価格が安定しており、贅沢は出来なくとも、衣食に満足に足る収入を得ることが出来る。その為か村人は皆穏やかでのんびりとしていた。

 ユズは思う。もしも違う場所に生まれていれば自分はきっと不幸な人生を送っただろうと。

 親兄弟はもとより、村民全てにユズは感謝していた。そしてジオキビにも。

 安定した生活が、村人の心に余裕を生み、ユズのような人間でも受け入れてくれる土壌を作り出しているのだ。

 ユズは自分が変わり者であると自覚がある。

 幼い頃、ユズは少し足りない子共だと思われていた。いつもぼうっと虚空を見詰め、呼びかけてもろくに返事もしない。一つ所にじっとしていられず、よく行方が分からなくなった。そして、いつもとんでもない場所で発見される事になるのだ。

村人は度々行方が分からなくなるユズを探すために幾度も駆り出されたが、それでも彼女を鼻つまみ者扱いすることなく、優しく見守ってくれた。

 村民全てが、庇護すべき幼子としてユズを見ていた。

 そんなユズの評価が、がらりと変わったのは彼女が八歳の時だった。

 新しく、村に赴任した教師が、ユズの素質に気付いたのだ。

 ぼうっとしているのは、ユズが世の中の至る所から疑問を見つけ、その疑問について考えているから。返事をしないのは疑問を紐解くのに専心していて、気付いていないから。一つ所にじっとしていられないのは、一たび興味を惹かれるものに出会ってしまうと周りが見えなくなってしまうから。

 ユズの才能に気付いたその教師もまた変わり者だった。狭き門である王都の大学を卒業しておきながら、高官になる道を蹴って、ユズの住む片田舎の学校へ赴任してきたのだ。

 一度、ユズはどうして村に来たのかと教師に聞いた事がある。

 教師は苦笑いをこぼすとさらりと言った。

「井の中のゲコだったと痛感させられたからです。逃げてきたのですよ、私は」

 でも、貴女なら……と、教師はユズの頭に手を置いた。

 教師がユズの父母に、彼女を王都の学校へ入れるよう進言したのは、そんな会話を交わしていくらもしない頃だった。

 父母は当初、俊英と言って差し支えない能力の持ち主であるという教師の言葉に懐疑的だったという。だが教師の指導のもと、めきめきと頭角を現すユズの様子を見て、ユズの王都行きを真剣に検討した。

 しかしユズ自身が王都行きを拒否した。

 ジオキビの栽培は安定した生活をもたらす。しかしそれは子供一人を王都へ送り、その生活を支えていくには心もとないものだ。しかもユズは女だ。例え優秀な成績を収められたとしても、高官への道はおろか、大学へ進学出来るかも怪しい。父母と二人の兄に苦労を強いておきながら、恩を返せないのでは意味がないのだ。

 教師はユズの才を惜しんだが、ユズは後悔していなかった。

 王都の偉い大学などへ行かなくても、学べる事はいくらでもある。野の花からも、地を這う虫からも、空に煌めく月や星からも、疑問は無限に湧き、考える事が出来る。ユズにとって、自分を取り囲む全てのものや出来事が、教本であり教師であった。

 そんな訳でユズの評価は、ユズの一番の理解者である教師が赴任して来る前と後で、全く違うのである。

 八歳まではぼんやりした子供と心配され、以降は神童と仰がれた。

 そして二十歳になった現在、ユズの評価はまた変わった。

 ――馬鹿と天才は紙一重

 成人した神童は、時に呆れ混じりに、時に苦笑混じりにそう評されることになったのだ。

 歳を重ねても、考え込んでしまえば、上の空になるところも、度々行方を眩ませる癖も治らなかった。いくら頭が良くても考えものであるのは痛いほど理解できる。

 ユズは新しい自分の評価を、誰よりも納得していた。

 それも、今、自分が置かれた状況を考えるに……

「……どちらかと言うと馬鹿寄りなのかも」

 呟くと、ユズは盛大にため息を零した。

 どうしてこんなことになってしまったのか…… 

 きっかけは、村の外れにある湖だった。湖の畔に自生するアッシの葉に産み付けられる虫の卵を観察に出かけ、ユズは湖の異変に気付いた。

 雨が降ったわけでもないのに、湖の水位が上昇していたのだ。

 そこですぐに村に戻り、教師や村人にユズの察知した異変を話し、相談すればよかった。

 湖の水は、村の生活用水に利用するほか、畑にも引かれている。湖の異変は村の一大事である。

 だが、ユズの悪い癖が出てしまった。

 目の前に用意された新たなる疑問に、ユズの頭の中はそれ一色に染まった。

 周りから一切の音が消え、ぎゅっと視界が狭まるような感覚に陥る。

 ただ湖に関するもののみが認識出来るようになった。

 ユズは湖の周囲を歩き回り、湖に流れ込む小川の一つが増水していることを突き止めると、小川を遡って歩き始めた。土の抉られ具合を注意深く観察しながら歩を進め、夜を迎えれば、火を熾して休みをとり、朝になればまた歩く。

 いつ何時放浪癖が出るか分からないユズのために、鞄の中に食料と火打石を用意してくれていた母に感謝しつつ歩き続け、ついに原因と思しき地へと辿り着いた。

 そこは林の中だった。時折、村人が材木を切り出しに来ることもある何の変哲もないズキ林。

 だが、異変ははっきりと見て取れた。地面が広い範囲でぬかるんでいたのだ。

 川はまだまだ続いていたが、その先の水量が増えた様子は見られないから、まずここが原因と見て間違いないだろう。

 ユズは木の枝で、数か所地面を掘り返した。少し掘ればどの穴からも水が湧いて出る。

 ズキはどちらかと言えば乾燥に強い木だ。それがこのように根を張る土地が水浸しになったとすれば、今は青い葉をつけている木々も、やがて根腐れを起こして枯れるだろう。

 この異変の原因を、ユズはまず、気候に変動があり、どこかの山の頂で雪が溶けたのだろうかと考えた。

 しかし、ここより川上の水量が変わらないのはおかしい。ならば次に考えられるのは地下の水脈に何らかの変調があったというものだ。掘れば掘るだけ湧き出す水に、それは間違いではないように思えた。

 今の水量なら被害はこの一帯のズキ林だけで済む。しかし、この先水量が増えるようであれば、もしくは水脈がさらに変調をきたすような事があれば、ジオキビにも影響が出るのは必至だ。

 ユズは今度こそ村へ知らせに戻るべきだと思い至った。

 ぬかるみの周囲を歩いて、範囲を測り、水溜りに浸かっている木の幹に水位を記す。

 さあ、村へ戻ろうと手に付いた泥を、服で拭った時だった。

 見たこともない耳の長い小さな獣が二頭、目の前に現れた。

 獣は、両手を合わせて形作れるほどの小さな穴の中から、ぴょこりと跳ね出ると、耳の付け根を前足で掻いた。

 丸い目と泥に汚れた白い毛並。ぶるぶると幾度も体を震わして泥を払った獣は、ユズに気付くとぴょんぴょんと跳ねて林の奥へと姿を消した。

 その瞬間ユズの頭から、村へ戻る選択肢は消えた。

 軽やかに飛び跳ねる獣を追い回す。息が切れ、足元は跳ねた泥に塗れたが、ユズには少しも気にならなかった。

 長引くと思われた追いかけっこは唐突に終わった。

 それは林を抜け、草原に差し掛かった時だった。草の合間から覗く獣の長い耳が、小さな鳴き声と共に急に見えなくなったのだ。慌てて獣のいた場所に駆けつけると、二頭の獣は血を流して草の上に横たわっていた。

 一体何故……と周囲を見回すが、草が風にそよぐだけ。

 ユズは薄気味悪さを感じながら、二頭の獣を掴みあげた。獣を持ち帰り、調べようと考えたのだ。

 今思えば、それが間違いだった。

 持ち上げた獣の下、血を吸い込んだ土の中から、黒光りする二本の棒状のものが生えたと思ったら、それはあっという間に巨大な虫の形をして、ユズの前に姿を現した。

 ガチガチと長い角のような触角のような器官を打ち付けるそれを見て、ユズは咄嗟に獣を鞄に詰め込むと、逃げ出した。

 走りながら、ちらりと背後を振り返れば、そこに虫の姿はなく……代わりに、ユズを追いかけるように地面が次々に盛り上がってゆく。

 その様子は下手に姿が見えているよりも余程恐ろしい。

「ぎゃああああああ、来ないで! 来ないで下さい! 私なんて、がりがりで美味しくないでずがらぁ」

 必死の懇願に、巨大な虫は地中から這い出ることによって応えた。

 ユズは草原の中にぽつんと佇む大木に駆け寄ると必死にしがみ付いた。木登りは得意ではなかったが、必死にやってみればなんとかなるものだ。

 だが、安心は出来ない。節くれだった三対の脚は木登りに適しているようには見えなかったが、もしも木に登れるようなら一巻の終わりだ。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、どうか登って来ませんようにとユズは祈った。ところがユズの祈りは不思議なかたちで叶えられることになる。

 少年と、何故か半裸の女の、二人の妖魔が現れ、彼女を救ったのだ。

 ユズは妖魔の少年に命じられるまま、耳の長い獣――スナラビと言うらしい――を手放した。

 二人連れの妖魔はすぐに消えたが、虫――こちらはアーリジゴックと妖魔は呼んでいた――は暫くスナラビの血の跡に留まっていた。

 恐ろしさに震える手で少年妖魔のぐっしょりと濡れた衣服を体にこすり付ける。つんと鼻に付く香りが全身に移ったのを確認すると、少しほっとした。

 「自分で考えろ」と少年妖魔が言った通り、ユズは恐怖で真っ白になっていた頭を働かせ、服に付いた臭いがアーリジゴックを遠ざけると気付いたのだ。

 それからユズは辛抱強く待った。アーリジゴックがスナラビの血痕の周囲を未練がましく這いまわり、やがて土中にその姿を消す。

 とっぷりと日が暮れると、少年妖魔の服を足に巻き付け、木から降りた。そして、走った。 走って、走って、走り通した。

 スナラビの血がしみ込んだ鞄は、惜しかったが捨てた。

 おかげで中に入っていた火打石も、雨除けに油をしみ込ませた小さな革のマントも、携帯食もおじゃんだ。

 膝が震えて、足に力が入らなくなり、これ以上は一歩も走れない状態になるまで駆けてから、大きな岩の上に這うように上った。

 唾でひり付く喉を潤し、岩の上に寝そべる。満点の星空を眺めていると、ようやく心が落ち着いた。

 水脈の異変や、スナラビにアーリジゴック。そして妖魔と思議すべき事は山ほどあったが、一気に降りかかったそれらはユズが抱えられる容量を軽く超過していた。

 とりあず今は忘れよう。

 無心になろうと深い呼吸を繰り返していたユズだったが、ふと思い立って、一つ一つ星座を指でなぞっているうちに、それに夢中になった。

 五〇余り星座を数えたところで、瞼が重くなる。

 睡魔に呑まれようとした時、睡眠欲より切羽詰まった欲求がユズを襲った。

 ――お腹……痛い……

 極度の緊張に晒されたのがいけなかったのか、それとも汗をぬぐいもせず冷たい岩の上に寝そべったのがいけなかったか……。猛烈な腹痛にユズは転げるように岩から降りると、穴を掘り、それを跨ぐようにしゃがんで衣服を下した。

 汗はいつの間にか脂汗にかわっていた。

 間一髪事なきを得たユズだったが、腹痛から解放されて、辺りを見回し、青ざめることになる。

 なぜなら彼女を囲むのはウルシンの木ばかりだったのだ。

 星座を数えるのに夢中にならずに、冷え対策を取っていれば、周囲の植物を調べていれば、スナラビを追いかけなければ、そもそも湖から真っ直ぐ村へ帰っていれば……

 後悔ばかりが胸に去来する。

 一縷の望みをかけて、衣嚢をまさぐる。上着の中に筒状の固い感触を認めて、がっくりと肩を落とした。ジオキビだ。湖に行く前に、出来具合を確かめようと畑に寄って、切り取ってきたものだった。考えるまでもなくこれでは拭けない。

 拭くのを諦めるか、かぶれを我慢するか。

 答えの出ない二択に、彼女は心底情けなくなり、呟きと共に大きなため息を吐いた。

 やはり自分は……

「……どちらかと言うと馬鹿寄りなのかも」

「え? 馬鹿?」

 答える者のいないはずの呟きに、怪訝な声が返される。

「おかしいわね。博識な人に繋がるように願ったのに」

 ぶつぶつと独りごちる声は若い女のものだ。

 ユズは首を傾げた。村からはまだまだ距離があるし、この辺りには炭焼き小屋もなかったと記憶している。夜半に女がふらふらしているような場所ではないのだ。

「まあ、いいか」

 あっけらかんとした女の声は、岩の向こうから聞こえた。

「あのー、何かお困りではないですか? っていうかどこにいるのかしら?」

「こ、ここです! あの実はとても困っているのですが」

 人気のない林に突如降ってわいた声に不信を覚えなかったわけではない。だが背に腹は代えられないし、何より声の主が女であることに背中を押され、ユズは声を上げて助けを求めた。

「ん? 岩の向こう? こっちに来られるかしら?」

「それが、今はちょっと動けなくて……」

「それじゃ、ちょっと待っててね。服と靴をとってくるから、服を着たらそっちへ行くわ」

 ユズは思わず沈黙した。

 服を着る必要があるということは、声の女は今、裸だということになる。

 何度も確認するが、ここは人気のない林の中だ。そんなところで裸の若い女が何をしているのだろう!?

 ――も、もしかして、逢引の最中だったのだろうか……

 考えてユズは赤面した。赤面してから真っ青になった。

 逢引中であれば、当然、相手の男も近くにいるはずだ。二人でこちらへ来られたら、尻丸出しのあられもない姿を見られてしまう。いや、例え女が一人で来たのだとしても、恥には変わりない。ユズは慌てて声を上げた。

「ま、待ってください。今こちらへ来てもらってはちょっと問題が……」

「あら、そうなの? 困ったわね。私も頼みたいことがあるんだけど……。あっそうだ!」

 女は何かを思いついたらしかった。ユズは大人しく待った。

「飛ばすわよー。受け取ってね」

 ややして、女の声が聞こえた。

 え? 何をですか? そうユズが問う前に、それはすうっと空気を滑るように眼前に落ちてきた。

 なめらかに空を切る様子を見て、ユズは最初、それを紙凧だと思った。

 彼女の恩師は凧作りが趣味だ。いつか自分が乗れるほどの大きな凧を作って空を飛ぶのが夢だという。ユズは師の夢を応援しており、設計や材料集めを手伝っていたが、何故か村人はそんな二人を必死に止めた。

 師が王都から持ち帰ったさまざまな紙凧作りの本を目にした事があったから、ユズは紙凧には少々詳しい自信があった。

 ところが、手を伸ばして紙を拾い上げたものは、ユズの知るどの紙凧とも違っていた。それは紙を折り返して作られていたのだ。尖った先端と一対の翼は、鳥を思わせる。

 先端を幾重にも折り返し、重みを加えてあるのは、重心と揚力の釣り合いをとるためだろうか。

 折り方が気になり、紙凧を広げると手の中で一枚の紙になる。それを見てユズははっとした。王都の豪商は尻を拭くのに葉ではなく、紙を用いるという。

 岩の向こうの女は尻を拭くためにこれをくれたのではないだろうか。そう思い至ったのだ。

 きっと女はユズの状態を知っていて、気遣って見て見ぬふりをしてくれているのだろう。

 珍しい紙凧をそんなことに使ってしまうのは勿体ない気がしたが、女は何か頼みたい事があると言っていた。

「ねえ、届いた?」

 急かすように女の声がする。ユズは意を決した。受けた恩は返さねばならない。

 尻を拭く寸前、月明かりに文字が浮かび上がったが、気に留める事もなく尻を拭うと、用を足した穴の中に紙を落とし、土を被せた。

 衣服を整え、岩に上る。思った通り、岩の向こうに女は居た。そして想像通り裸だった。ただ、想像と違ったのは女が普通の女ではなかった点だ。

 四角く光る不思議な乗り物には覚えがある。女は、アーリジゴックからユズを救った妖魔だったのだ。

 架空の存在であると思っていた妖魔を目にした時は驚嘆し、恐怖した。だが二度も窮地を救われたとなると、恐ろしさも幾分薄らぐ。

「ありがとうございました。おかげさまで助かりました」

 岩から降りると女は驚いた顔をした。

「え? 何が? ……って貴女、アーリジゴックに襲われてた人?」

「はい、その節はお世話になりました」

「お世話をしたのはロテンだし。私は何も……」

 ロテンとは少年妖魔のことだろうとユズは見当をつけた。

「あの、つかぬ事をお伺いしますが、あの虫は妖魔様の使い魔か何かなのでしょうか?」

 再び妖魔に会ったことで、むくむくと好奇心が湧き上がる。

「いや、まず私は妖魔じゃないから。もちろんロテンもね。もっともロテン達オットコ・ユ族はアーリジゴックと意思の疎通が図れるみたいだから、使い魔って表現はあながち間違いではないかも」

「オットコ・ユ族。聞いたことがあります。砂の大地を追われた禍患の一族ですね。確か井戸を掘るのを生業としていたとか……」

「なんだやっぱり博識なんじゃない」

 女妖魔……ではなく裸の女は嬉しそうに微笑んだ。

「さっそくで悪いんだけど、まず、さっきの紙になんて書いてあるか教えてほしいの」

 ユズは口を衝いて出そうになった悲鳴をすんでのところで飲み込んだ。

 あれは、尻を拭くためにくれた紙じゃなかったんだ!?

「そうしたら、あの紙は自由にしてくれてかまわないわ。たぶんだけど、そのうち貴女の役に立つと思うから」

 もうすでに役に立ちました……

「ところで、紙は?」

 唇を引き結んで黙りこくるユズを不審に思ったのか、女は探る様な視線を寄越してそう言った。

「え? ……えと……あれは……その……」

 ユズの全身に嫌な汗が浮かぶ。

 女は妖魔ではないと言ったけれど、人ならぬ力を持つ超越的な存在だ。

 怒りを買えば、ユズの命はないかもしれない。

「ありゃ、そっちにいかなかった? やっぱりカミヒコウキはまずかったか……」

 ぽりぽりと頭をかく女。ユズはたまらず地面に伏せた。

「申し訳ありません! お腹を下していて、排泄後に清めるのに使ってしまいました。排泄物と一緒に埋めてきたのですが、た、大切な事が書いてあったんですよね!? 掘り返してきます。ただ、下していたせいで水分が多くて……読める状態であるかどうかは……」

 やっぱり自分は馬鹿だ。天下一の大馬鹿者だ。せっかく拾った命を捨てるような真似をしてしまった。師が凧に乗って大空を舞う姿を見られないのが無念でならない。

「あ~~。いや、それは私が悪かったわ……」

 困惑したような声にユズが顔を上げると、女は引きつった顔で途方に暮れたように佇んでいた。

「今、来られたら困るって、そういう意味だったのね」

「お怒りではないのですか?」

 恐る恐る尋ねるユズに、女は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「だって、貴女の事情も知らずに、お願いを押しつけようとした私が悪かったんだもの」

「本当に、すみません……」

 ユズはうなだれた。女は思いのほか人が良く、そんな人物の頼みを無下にしてしまった自分が情けなかった。せめて、月明かりに垣間見えた文字を思い出そうと試みる。インセン国の字ではなかったが、以前に師に教わった覚えがある。

「あの、ちらっと見えた限りですが、『預ける』だとか『少ない』とか、そういう意味の文字が書かれてあった気がするんです。見えたのはそこだけで、本当になんとお詫びしていいのか……」

「えーと、そんなに落ち込まないで。あ、そうそうお願いはもう一つあるんだけど、そっちを叶えてくれないかしら? 貴女の知恵を貸してほしいの。矢文を読んでくれて、私の疑問に答えてくれる人を探していたのよね」

「私でお役にたてるのでしたらいくらでも」

 ユズはぱっと笑顔になって答えた。

「良かったわ。実はね、オットコ・ユ族の族長承認の為の儀式があったんだけど、その時にロテンから聞いたアーリジゴックの言葉が気になっていて」

「アーリジゴックの言葉ですか?」

「ええ、「ここにはいられない」「ここにはない」「追いかけよう」そう言ってアーリジゴックはスナラビを探していたらしいの。それにユアタァーリが、あ、ユアタァーリっていうのはロテンのお姉さんね。新しいオットコ・ユ族の族長なんだけど、虫達がずっと何事かを囁き合っていて落ち着きがないって言ってたのよね。もしもよ? スナラビがみんないなくなっちゃってたんだとしたら、アーリジゴックは餌に困るわよね。そうしたら、オットコ・ユ族も難儀するんじゃないかと思うのよ。アーリジゴックと共存しているようだったし」

「するでしょうね」

「そこで私が聞きたいのは、ずばりスナラビはどこへ行っちゃったのか。――って、そう言えば前回会ったとき貴女スナラビを持っていたわよね……そこ、どこ?」

 ユズは自分が粗忽ものだと自負している。だが、目の前の女もユズに負けず劣らずそそっかしいようだった。

「ここはインセン国です。砂の国、ヨーク・ザイの西北西に位置します」

「……そこは、オットコ・ユ族の居住地からどのくらい離れているのかしら」

「オットコ・ユ族の現在の居住地が分からないのですが、たぶん、かなり距離はあるかと」

「そうよね。あー、もうなんだってスナラビはそっちに行っちゃったりしたのかしら。どうにかしてスナラビを元の場所へ戻せないかな。アーリジゴックを使って追い立てるとかして」

 ユズは顎に手を当てて一考してから首を振った。

「追い立てたとしても、オットコ・ユ族の住む土地に戻るとは思えません。まずはスナラビが移動した理由を考えなければ」

 ユズは全ての出来事、物事には理由があると考えている。

 月の形が変わるのも、木からリンコが落ちるのも、それが当たり前だからなのではない。必ず何かしらの理由があるのだ。

 あれは確か師が赴任して、半年が過ぎた頃だった。ユズの家と隣近所数軒の家で、飼っていたメエメの乳の出が悪くなったことがある。

 大人たちはそれを、「そういうこともある」と気にも留めなかった。乳の出が良い時もあれば悪い時もある。いずれまた乳が出るようになると、放置したのだ。

 だがユズは不思議でならなかった。ユズの家で飼っていたメエメはまだ歳も若く、餌も良く食べていたし、乳が出なくなる要因が見当たらなかった。

 疑問を得たユズは答えを見出したくてたまなくなった。そこで学校をさぼり、一日中メエメに張り付いた。家族が寝静まるのを待って、こっそりと部屋を抜け出て枕片手にメエメの隣で一夜を明かし、そして原因を突き止めたのだ。

 ――寝藁の中にノミーがいる

 メエメは大量発生していたノミーに刺され、痒みによる鬱屈から乳が出なくなっていたのだ。

 答えと同時に、ユズは全身の痒みと、父のげんこつと感謝の言葉を得た。

 直ちに、寝藁は全て焼却され、それ以降は燻してから使うようになったのだ。

 この一件はユズに自信と確信を与えた。全ての出来事、物事には理由がある。

 スナラビはただなんとなく今までの住処からいなくなったのではない。ただなんとなく、インセン国に来たのではない。

アーリジゴックはスナラビを追って来た。ならばスナラビは何を追って、この地へ来たのだろう。

 ユズの意識は瞬く間に静寂の中に落ちる。

 湖の異変。ぬかるんだ林。穴から出てきたスナラビと、地中を進むアーリジゴック。――そして、オットコ・ユ族のかつての生業。

 ばらばらと解けていた糸が、縒って集まり、一本の筋となった。

「スナラビは水を追って来たんです!」

「え? 水?」

「そうです。地下の水脈が移動したんです。私が見たスナラビは地中から出てきました。恐らくスナラビは地中奥深くを流れる水脈と地上を行き来して生活している。かつて砂漠でオットコ・ユ族が井戸を掘れたのは、スナラビを餌とするアーリジゴックを使って地下水脈を正確に把握できたからなんですよ!」

 「おおー」という感嘆とともに女はぱちぱちと手を打った。

「だとしたら、オットコ・ユ族が、今の土地でこれまで通りの生活を送るのは難しそうね」

 ユズは頷いた。

 問題はオットコ・ユ族だけに止まらない。水脈が移動した全ての土地に影響が出るだろう。もちろんインセンにも。

 ユズは懐からジオキビを取り出した。

「それ何?」

「ジオキビです。ご覧になりますか?」

 ユズがジオキビを手渡すと、女は物珍しそうに角度を変えて眺めた。

「私の村で栽培している調味料の一種なのですが、水脈の動きによっては、栽培が叶わなくなるかもしれません……」

 ユズの声は暗い。村の存続を脅かすこの事実を、なんと村人に伝えればいいのだろう。

「そっか。困るのはオットコ・ユ族だけじゃないのね。うーん、なんだかもう私が首を突っ込める範疇を超えちゃってるような気がするわ……」

 力なくそう言うと女は「とりあえず、ロテンに知らせるべきかしら。でもなあ……」と言って唸った。

「はあ、とりあえず今日はもう寝るわ。明日は早出だし。ジオキビだっけ、これもらってもいい? 何かないと次に繋がらないと思うから」

 女の言葉の意味は良く分からなかったが、ジオキビの一本や二本、惜しくはない。ユズは二つ返事で快諾した。

 女は疲れたように腕を上げると、乗り物の縁に手をかける。

 からからと軽い音を立てて、入り口が閉まっていく。

 女の姿が見えなくなる寸前。ユズは思い出していた。

 「預けた」ではなく「預かっている」。そして「少ない」ではなく「少年」であると。

「あの紙! 「預かっている」「少年」と書かれていました!」

 慌ててユズが叫んだ時には、女はおろか、乗り物までが眼前から消えていた――

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