第15話

 泉は風呂が好きだ。

 うだるような暑い夏の日も、体の芯まで凍えてしまいそうな寒い冬の日も、もちろん、春も秋も、いつの季節も入浴の心地よさは変わらない。

 嫌なことが重なった日でも、石鹸の香りを嗅ぐだけで、澱んだ気分が上向く。

 熱いお湯に身を沈める瞬間は、疲れも悩みも吹き飛んでいくような気がした。

 さあ、今日も待ちに待った入浴の時間がやってきた。

 ところが、風呂場のドアを開き、冷たい床に足をつけるなり、泉は盛大に溜息を吐いた。

 本来、風呂場にあるはずのないものが、真っ先に目に飛び込んだのだ。

 それは先日窓の外に現れたジェバスの王女、アクア姫に手渡されたものだった。

 これまでも対処に困るものが手元に残る事はあったけれど、今度の品は群を抜いている。

「……どうしよう。これ」

 泉はシャワーのコックを捻るのも忘れて呟いた。

 銀に輝く美しい髪。ジェバスの王族の象徴だと言う髪は、大切に伸ばされていたらしく、結構なボリュームがある。

 桶に入れようと思ったが収まりきらず、考えた末に透明のゴミ袋の中に保管している。

 泉は途方に暮れていた。髪の保管には場所をとるし、管理にも気を使う。だがそれ以上に困った問題があった。

 これまでの経験で、手に入れたものが、次に窓の外に現れる人物の役に立つのは分かっている。

 ならば、窓を開ければ、今きっと一番この髪を欲しているヒキューに繋がってしまうのではないかと懸念しているのだ。おかげで、今日は一度も窓を開けていない。

 だが、昨晩の邂逅で一つ気付いた事もある。

 窓はどうやら泉が会いたいと願っている人物に繋がる場合が多い。

 遭難中の男に会い、その後の安否をぼんやりと案じていた時には、耳飾りの持ち主を探すヨーク・ザイの宰相テオ・ケーに繋がった。

 イエティ・セツケンに会い、申し訳ないことをしたらしいと沈んでいたら、彼の姉を救うのに一役買えた。

 甲冑の男アーシユに会い、奥さんとの仲をどうにかしたいと思っていた時には、その当人である女性に出会った。

 塔に幽閉されいていたヒノキ王子に会い、何も出来ない自分を不甲斐なく感じていた時には、彼を助け出したいと願う人物に鍵を渡せた。

 トメユ女王の罠にかかったヨーク・ザイの一団にヒノキ王子を助けて欲しいと願っていた時には、やはり彼らに出会えた。

 そして、老師に会い、アーシユと王女の結婚話を聞いて、王女の気持ちを聞きたいと考えた時には、アクア王女に会えたのだ。

 ここまで偶然が重なれば、それはもう必然と呼んでいいのではないだろうか。

 窓は泉が会いたいと強く願った人物のもとに繋がる。なら、逆を言えば泉が会いたくないと思った人物には繋がらないのでは……と思うのだ。けれど泉にはヒキュー以外に、王女の髪を必要とする人物がいるとはどうしても思えかった。

 ――だって、頭髪の使い道なんて、鬘以外に思いつかない。

 それもどうやら、王族の証になってしまうほど珍しいらしい銀髪だ。実際、泉がこれまで出会った人物で銀髪はアクア王女だけだった。

 泉は髪を保管してある袋に出来るだけお湯がかからぬよう、シャワーを捻る。

 泡が飛び散らぬよう気を使いながら、頭と体を洗い終えると、湯船に浸かった。

 駄目だ。安らぎがない。

 温泉や銭湯などの他者も居る場所ならいざ知らず、なぜ自宅で周りに気遣いながら、風呂に入らなければならないのか。

 泉は濡れた指先で、袋越しに髪の束をつついた。

 処分するのは簡単だ。外へ出してしまえばいい。

 だが、この髪を必要としてる人がヒキュー以外にもいるかもしれないと思うとそれも躊躇われるし、それ以上に、この美しい髪をただ処分してしまうのは忍びなかった。

 泉はごくりと唾を呑んで窓を見上げた。

 ヒキューのもとに繋がるか、それ以外の人のもとへ繋がるか。

 これはもう、ヒキューと自分。どちらの気持ちが強いのかにかかっているのかもしれない。

 ――凄く気負けしそうなんだけど。

 アーシユとウタセーユには想う者同士幸せになってほしい。アクア王女にも納得のいく相手を見つけてほしい。そう願う泉の気持ちに嘘はない。だが、別れ際のヒキューの悲痛な表情を思い出すに、思いの強さは彼の方が上ではないかと思われた。

 かといって、いつまでも窓を閉め切ったままにもしていられない。

 そんな泉の葛藤を読み取ったかのように、窓の外で話し声が聞こえた。

 数人がぼそぼそと声を潜めて話している。

 内容は聞こえなかったが、隣家の住人の声でないのは分かった。

 もしも、ヒキューのもとへ繋がったら、すぐに窓を閉めよう。

 泉は思い切って窓を開けた。

「……勝ったわ」

 そこにいたのは、初めて会う人物達だった。

 中年の女と、まだ若い女、それから子供が一人。

 中年の女は石造りの床の上に敷かれた寝具に横になっており、後の二人は、畳一枚分程の大きさの絨毯に座っていた。

「こんにちは。どなたかお困りですか?」

 声をかけてみたものの、泉は困惑していた。

 驚きの余り声も出ない様子で泉を見詰めている三人の髪は、何れもくすんだ茶色で、禿げてもいない。

 アクア王女の銀髪が、彼らの役に立つとは思えなかった。

「お前! 何者だ!」

 最初に我に返ったのは、泉の一番近くにいた少年だった。イ・ワブロのヒノキ王子よりも二、三歳若いだろうか。

 きりりと上がった眉と眦は、いかにも気が強く、はしこそうだ。

「答えろ!」

 少年は立ち上がりざまに腰帯に差していた短刀を引き抜くと、切っ先を泉に向けた。

「何者って言われるとすごく困るんだけど……。昨日は天使って呼ばれたけど、分かる? 天使って」

 呪術師の方が良かったかな。と泉は首を傾げた。

 彼らの容姿はジェバスの人々とは随分と違う。服装といい、顔立ちといい、どちらかといえばヨーク・ザイの人々に近い。

 少年の後方で二人の女が息を呑んだ。

「天使様!? ロテン! 剣をおさめなさい」

 歳若い女が駆け寄り、ロテンと呼ばれた少年の体を後ろから抱きしめた。

「姉上! お放しください。こいつが天使かどうかなんて、どこに証拠があると言うのです。イ・ワブロの放った間者かもしれないのですよ!」

「イ・ワブロ!?」

 泉は驚きに声をあげた。

 どうやらトメユ女王は方々に敵がいるらしい。まだ少年のヒノキ王子を塔に閉じ込めた性根を思えば、誰から恨みを買っていてもうなずける。

「私はイ・ワブロの間者ではないわ。証拠を出せと言われても困るんだけど。信じてもらえないかしら?」

「誰が信じられるか」

 ロテンは剣を構え泉を睨みつけた。しかし、若い女――どうやら姉らしい――が、必死にそれを押し留める。

「おやめさない。ロテン! いかにイ・ワブロと言えど、間者一人を村へ送り込めるはずがありません」

 静かな、けれど厳しい姉の声は、ロテン少年には届いていないらしい。

 少年は、姉を引きずらんばかりの勢いで足を踏み出し、剣を振り上げる。

「欲深いイ・ワブロの者めが。俺が天に代わり成敗してくれる! そこへ直れ、この乳出し女め!」

「は!?」

 ヒノキ王子のように、トメユ女王に酷い目に合わされているに違いない……と、気の毒に思った泉だったが、ロテンの言葉に、目を剥いた。好き好んで裸を晒している訳ではない。

「誰が乳出し女ですって!」

 浴槽の中で足を踏ん張ると、窓の外のロテンに勢い良く指を突き付けた。

「よく見なさいよ。全部出してるでしょうが!」

 言ってから、泉はすぐに正気を取り戻した。

 これでは単なる痴女だ。

「あの、今のは――」

 忘れて。湯の中に潜って消えてしまいたいほどの羞恥を押して、そう言おうとした泉を少年の言葉が遮る。

「確かに出ている。ならば全出し女と呼べば不服はないか」

 泉は呆気にとられた。

 女の裸を見て、恥じるには若すぎるのだろう。ひょっとしたら、少年を羽交い絞めにしている姉と一緒に風呂に入っていて裸など見慣れているのかもしれない。

「いや、そういう事じゃなくて……」

 泉は脱力して、窓枠に手を付いた。

 ああ、そうだ、と背後を振り返る。

 何に役立つのか知らないが、きっとこれがあれば、彼らを窮地から救えるのだろう。もう、さっさと渡して、入浴の続きを楽しもう。泉はゴミ袋へと手を伸ばすと、窓を潜らせた。

「これ、あげるわ」

 結び目を解き、身を乗り出して、床の上に袋を置く。開いた口から、さらりと銀の髪が零れた。

「これは……」

 ロテン少年が剣を掲げたまま呟いた。

「……コン・ヨーク・ニセイの頭髪」

 ロテンの言葉を姉が引き継ぐ。

 泉ははてと首を傾げた。コンヨークニセイ。どこかで聞いた名だ。

「世界中を旅した眉唾物のコンヨーク二世!」

 すぐに思い出して、ぱんと手を打つ。

 老師がアクア王女の兄に語った話はどうやら眉唾ではなかったらしい。

「本当に天使なのか?」

 泉が銀の髪を持ち、コンヨーク二世を知っていたためか、ロテンが訝しげに問うた。

「え、ええ。そうよ」

 ここで違うと言ってしまえば、呼び名が「全出し女」になってしまう。

 泉は胸をはって、頷いた。

「天界にはやましい心も持つ者はなく、みんな裸なの」

 どこか納得がいかないというように、ロテンは眉を顰めたが、ひとまず気持ちを落ち着けたらしい。剣を降ろすと、「姉上、離してくれ」と背後を振り返る。

 弟が落ち着きを取り戻したのを見て取ると、ロテンの姉は、さっと膝をついて、頭を垂れた。

「天使よ。コン・ヨーク・ニセイの髪をお持ちいただけたという事は、私を長にと認めていただけるのですか」

 さっぱり話が分からない。困惑する泉の前にずいとロテンが割り込んだ。

「天使。その髪はどうか俺に! ユアタァーリ姉上は先だっての病で、虫の声を聞く聴力を失いました。長就任の儀など、務まるはずがありません。虫の餌になってしまう!」

「いいえ。長はどうか私に。ロテンはまだ幼く、上手く草笛を吹けません。それこそ虫に心を伝えられず、彼らの餌食となるでしょう。どうか長は私に」

「コン・ヨーク・ニセイの髪を持ち帰る事も出来なかった今の姉上に、就任の儀など無理だ!」

「コン・ヨーク・ニセイの髪は、幾多の巣がある谷の奥深くに祀られているから失敗したのです。就任の儀なら従えなければいけない巣は一つだけ。声を聞くよりも、声を伝えるほうがより重要なはず。ロテンにはまだ無理です」

 ますます話が分からない。

 代わる代わる押し出て、力説する二人に、泉は待ったをかけた。

「お、落ち着いて二人とも。まずはどうして長の座を廻って揉めているのか、最初から話をして頂戴」

 欲から長の座を奪い合う。というよりは相手を思って長の座につけまいとしている。そう感じた泉は話を聞こうと二人を宥めた。

「話など……俺を長に指名してくれればいいだけだ!」

「ロテン! いけません。貴方はこれからのオットコ・ユを背負う身なのです」

「ユアタァーリ。ロテン。二人ともお止めなさい。天使が困っておられます」

 泉の言葉にもさっぱり止まらない二人を見かねて、臥せっていた中年の女が声をかけた。泉は存在を忘れかけていた女に目を向ける。

 血の気のない顔は、見るからに具合が悪そうだ。女は重い動作で体を起こした。

「母上、なりません! 寝ていなくては」

「そうです、母上」

「お黙りなさい」

 二人の母らしい女は、子供達を毅然とした態度で制すると、頭を下げた。

「天使よ。子供達の無礼をお詫び申し上げます。しかし二人の非礼は互いを庇ってのこと。どうかご容赦下さい」

 畏まった様子に、泉は慌てて手を振った。

「いえ、いえいえ。別に無礼だとも非礼だとも思っていないから」

 乳出し女呼ばわりされたこと以外は。

 女は安心したように微笑んだ。

「ありがとうございます」

 そして、いっそう深く頭を下げた。

「コン・ヨーク・ニセイの髪を持ってお姿を現された事、我らが窮地を察して、とお見受けいたしました。どうか我らオットコ・ユの民にお力をお貸し下さい」

「え!? ええと……」

 顔を上げた女の目尻には涙が浮かんでいる。

「コン・ヨーク・ニセイの教えは誠であったのですね。正しい心根を持ち続ければ、救いが訪れると」

 冷たい汗が背を流れ落ちた。

 今更、「実は違うんだけど……」とは言えない。

「で、出来る限りの事はするわ」

 ――出来ることって何よ!

 泉は胸中で、叫んでいた。

 手に入れた髪はもう渡してしまった。これ以上、何が出来るというのか。

 己の浅はかさを悔いたが、悔いたところでどうにもならない。

「とりあえず、横になって。それから話を聞かせて頂戴。出来る限り詳しく、最初から」

 何はさておき、具合が良くないらしい女を休ませるのが先だろう。

「はい――」

 女が三度頭を下げた。

「長! イ・ワブロの使者が参りました」

 唐突に、声が響いた。如実に焦りが滲んだその声を追いかけるように、どかどかと足音聞こえる。

 三人の顔に緊張が走った。

 駆け出そうとしたロテンよりも速く、ユアタァーリが動く。

「時間がありません。天使、ロテンをお願いします。就任の儀が終わるまで、匿ってください」

 言うなり、ユアタァーリはロテンを抱え上げる。

 子供とはいえ、女の力で窓の高さまで持ち上げるのは大変だ。

 しかし、ユアタァーリは軽々とやってみせた。それは弟を思う姉の心が引き出した火事場の馬鹿力であったのかもしれない。

「あ、姉上!」

 ロテンが暴れる。

 戸が開けられ、男が入ってくるのと、ユアタァーリがロテンを泉に押し付け、窓を閉めたのは、ほぼ同時の事であった。

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