第13話

泉は少し低めに設定した湯の中に、体を沈めた。

 湯の量はいつもより少なく、臍の上ほどまでしかない。

 通勤電車での立ちっ放しに加え、今日は一日、立ち仕事だった。浮腫んだ足の血行を改善しようと、半身浴を楽しむことにしたのだ。

 予め浴室内を暖めてあったものの、湯から出ている上半身は少々肌寒い。

 しかし、時間が経つにつれ、全身がぽかぽかと温まり、ふくらはぎの不快感が湯の中に解けるように消えていく。

 泉は浴槽に背を持たせ掛けて大きく息を吐いた。

 やはり風呂はゆっくりと楽しまなければならない。間違っても、水着を着こんで入るものではないのだ。

 頭を浴槽の縁に預けると、浴室に渡してある紐にかけられた縄が目に入る。

 橙と茶の細い紐を縒って作られてある頑丈そうなその縄は、首吊りに使われようとしていた、縁起でもない代物だ。

 その縄を目にする度に、泉は腰に添えられた、男の手の感触を思い出して、叫び出したい気持ちに駆られる。

 いつ、窓がおかしな世界の住人の元へ繋がってもいいようにと用意してあったバスローブは、全く役に立たなかった。そのうえ、厚手で、雨の日にはまず半乾きになってしまう。

 考えてみれば、窓が繋がった時、その向こうにいる人々は緊急事態を迎えていることが多く、悠長にバスローブに袖を通している時間があるとは限らない。

 そう気づいた泉は、翌日から、水着を着用して風呂に入ることにした。

 フィットネスクラブ用に買った半袖とスパッツのセパレートタイプの水着は、シャワーを浴びるとべったりと体に張り付き、気持ちが悪かった。さらに、覆われている部分が多く、順にずらして洗うのはすこぶる面倒臭い。

 翌日は布面積の小さい、ビキニタイプの水着を押入れの奥から引っ張り出した。

 前述のものに比べれば格段にましだったが、何より大切な入浴タイムは、泉の望む、くつろぎの時間とは程遠いものになった。

 数日に一回の羞恥と、毎日の楽しみ。

 両者を秤にかけて、泉は後者をとった。

 見知らぬ世界の人々に裸を見られたところで、仕事に差し障るわけでも、交友関係にひびが入るわけでもない。ただ、恥かしいだけだ。

 同じ人物に二度見えることもあると知ってしまったけれど、ほんの数分、羞恥に耐え、様子を見て脱衣所に置いてあるバスタオルを巻けばいいだけのこと。

 泉は、そう自分に言い聞かせ、元通りの入浴を楽しむことに決めた。

 暗い存在感を撒き散らす縄をなるべく視界にいれないように努めながら、泉は頭の中を空っぽにして、湯に浸かった。

 額にしっとりと汗が浮かぶ。そろそろ出るかと腰を浮かした時だった。

 どおおおおと、何かが勢いよく過ぎ行く音が聞こえる。

 無論、風呂場の外の狭い通路を、猛スピードで通り過ぎるものなどあるはずがない。

 また窓の外がどこかに繋がったのだとすぐにわかった。

 入浴は充分に楽しんだ。何よりあの縄を引き取ってもらえるなら、有難い。

 泉は窓に手をかけた。

 しかし、割り切ったつもりだったはずの羞恥が泉に待ったをかけた。

 また、素っ裸で窓枠を乗り越えるはめになりはしないだろうか。アーリジゴックなる巨大な虫が出てきた時のように大勢の人がいやしないだろうか。

 けれど首吊り自殺をしようとしていた、あの男性のように、一刻を争う事態になっている人がいるかもしれない。

 迷ったすえ、泉は僅かな隙間を開けて、窓の向こうの様子を窺うことにした。

 まず目に入ったのは大量の水だった。

 向かって右手から左へと、轟々と音を響かせ、流れている。

 川だ。

 それも、そこそこの幅と水量がある。

 見える範囲に人がいないのを確認すると、泉は窓を半分ほど開ける。

 窓の下を覗き込めば、そよそよと草が風に揺れていた。どうやら足元は草原のようだった。対して、対岸は森になっているらしく、木々が生い茂り、枝が川の上にせり出している。

 川の水は、雨の後なのか濁っていたが、風光明媚なその様は、窓の外の景色としてはもってこいだ。

 それにしてもと、泉は首を傾げた。

 縄を必要としている人物どころか、人っ子一人見当たらない。

 何かの間違いだろうか? と、窓を閉めようとした時だった。

「うご……ごほっ、たす……ごぼっ」

 低い叫びと、咳き込む音と、助けを求める声が聞こえた。

「だれかっ……がはっ」

 水音に混じって、途切れ途切れに聞こえるそれは、どんどんと近くなる。

 誰かが溺れているんだ!

 泉はすぐさま縄を引っ張り下ろした。

 縄の端をぐるぐると左手に巻きつけると、映画で見かけた西部のカウボーイよろしく縄を投げる体勢を整える。

 その人物はすぐに視界に現れた。

 白っぽい服に白い髪、白い髭を蓄えた老人が、浮き沈みしながら手足をばたつかせている。

 泉は呆然とした。

 老人が流されているのは川の中ほどで、とてもではないが長さが足りない。

 いや、例え充分な長さがあったとしても、泉の力ではとても老人の元まで縄は届かなかったに違いない。

 このまま何も出来ずに、老人が流されていくのを見ていなくてはいけないのだろうか。

 歯がゆい思いで、窓から身を乗り出し、辺りを見回す。

 と、老人が、川の中に突き出た岩と岩の間に、斜めに引っ掛かっていた倒木の元にたどり着いた。老人はしっかりと木を抱え込む。

 この流れの中で大した腕力だが、そう長くは持ちそうにない。

「頑張ってー!」

 泉は声を張り上げた。老人は声に気づき、泉を認めると、信じられないというように、目を見開いた。

 草原に裸の女がいれば、誰しも驚くだろう。

 しかし、次に老人のとった行動に、今度は泉が仰天することになる。

 老人は白い歯を見せて泉に笑いかけると、右手を倒木から放して手を振ったのだ。

 泉は我が目を疑った。誰もそんな愛想など望んでいない。

 当然、片腕で体を支えられるわけもなく、老人は再び流される。

 幸運にもというべきか、悪運が強いというべきか、老人の体は倒木にそって流され岩の上へ押し上げられた。

 岩の上にへばりつき、肩で息をする老人。

 とりあえずの危機は脱したものの、このままでは老人は川の真ん中に閉じ込められたままだ。

 やはり、何か探しにいこう。泉は、老人に「少し待っていて」と伝えるべく口の両端に手を当て、大きく息を吸い込む。

 どかかっどかかっと地に響く、重たい音が泉の声を消した。

 手を当てたままの姿勢で音のした方――川上である右手――に顔を向ける。

 全身が長い毛で覆われた馬のような生物が二頭と、その馬モドキの上に跨る二人の人物が目に入った。

 二人はともに若い男性で、一人は長い金の髪を後ろで縛っており、もう一人は、櫛を入れることを諦めたような、ぼさぼさの癖毛頭だった。

 金髪の男は、泉の目の前で馬モドキから飛び降りるようにして、地に足をつけると、老人に向って叫んだ。

「老師!! ご無事ですか」

 どうやら、老人の知り合いらしい。泉はほっとした。

 老人は岩の上に座り込み、金髪の男を見て眉を寄せる。

「老師と呼ぶなと言うておろうが!」

 はりのある声は低く、その見た目よりもずっと若々しい。

「いいですか。そのまま動かないでくださいよ、老師!」

「だから、老師と」

 二人が漫才ではないかと思われるような問答を繰り広げている間、癖毛の男は、馬モドキから降りると、手早く、手綱を外していく。

 馬モドキの耳の横にぶら下げられた鈴が、シャンと鳴った。

 一頭目の手綱を外し終わったところで、男は泉に気づき、目を瞬かせると、軽く頭を下げた。釣られて泉も会釈する。

 男はすぐに泉から目を離すと、もう一頭の馬から手綱を外し、それらを結んだ。

「アロマ、上着を脱げ」

 自身も上着を脱ぎながら癖毛の男が金髪の男――アロマに声をかける。

「は!?」

 アロマは怪訝そうな顔で振り返った。

「長さが足りない」

 アロマの視線は最初、癖毛の男が持つ手綱を結んだものに向けられ、すぐに、その背後にいた泉に合わされた。

「なっ、天使か!?」

 泉が天使と呼ばれるのはこれで三度目だ。

 よく見れば、彼らの顔立ちは甲冑の男やその奥さんに似ている気がした。

 金髪の男が、その場に膝をつく。

「天使よ。老師を召されるのは、いま少し、お待ちいただけませぬか。老師は王よりトランゴーン討伐の英雄の像と、彼を称える詩うたをと所望されております。どうか、老師に最後の仕事を成し遂げる猶予をお与えくださいませ」

「最後の仕事だなどと縁起でもないことを申すな! それから、老師と呼ぶなと何度言えば分かるのだ」

 背後の老人を無視しして、アロマは癖毛の男のズボンの裾を引いた。

「こら、ソルト。お前も天使に助命を請わぬか」

 癖毛の男――ソルトは手綱を引っ張りながら軽く頭を下げた。

「来年の給金を貰えるまでは待って下さい」

「え、ええと……」

 トランゴーン討伐の英雄と聞いて、やはりと得心した泉だが、その後の会話についていけなかった。彼らは命がけのコントでも繰り広げているのだろうか?

「あの、縄の長さが足りないのなら、これをどうぞ。上着よりは強度があると思うんだけど」

 とりあえず、手にしていた首吊り自殺用の縄を差し出す。

「おおっ、お慈悲に感謝致します!」

 アロマは這い蹲らん限りに頭を下げた。

 勢い良く身を起こすと、川の中の老人を振り返る。

「老師!! 天使が猶予を下さいました」

「あの、別に命を取りに来たわけじゃないから……」

「助かったら、さっさと像と詩を完成させて下さいよ」

「いや、だから……」

 すっかり老人を迎えにきた天使だと思われている。

 泉はアロマに向って伸ばしかけた手を引っ込めて、溜息をついた。甲冑の奥さんを思い出す。ひとの話を聴かないのは、もしや国民性なのだろうか。

 「老師と呼ぶなと……」と、また漫才を始めたアロマと老人をよそに、癖毛のソルトが、泉の手から縄を抜き取った。

「お借りします」

 手綱を結んだものに合わせ、両手でびんっと音がするほどに引っ張る。

「なんとか足りそうだ。アロマ、どけ。老師! いきますよ」

 くるくると輪っかを作ると、老人に向って縄を投げる。

 縄は見事に老人の足場の岩に引っ掛かった。

「輪を体にくぐらせて下さい」

 両腕に縄を巻きつけ、ソルトが叫んだ。

 老人は首を括る為の輪に、足先から体を入れる。胸の下でしっかりと固定されたのを見て、ソルトは足を踏ん張った。

「いつでもどうぞ」

「おいっ」

 アロマが慌てて、加勢し、縄を掴む。

 老人は大きく息を吸い込むと、縄をしっかりと掴み、足の先で水の温度を確かめ、一気に川の中に体を躍らせた。

 ぴんと縄が伸びる。

 一旦、下流に流された老人の体は、振り子のようにしなり、川岸に近づいた。アロマとソルトは、綱引きをする時のように、体を沈め、縄を手繰り寄せていく。

老人の手が、川岸の草を掴んだ。

 最後の一踏ん張りと言わんばかりに、ソルトが腕に縄を巻きつけると、老人の体は見事、川岸に上げられた。

 老人が無事に助かったのを見届けると、泉は慌てて脱衣所に向かう。大判のバスタオルを体に巻きつけ、風呂場に戻ってみると、草原の上に座り込んでいた老人が立ち上がった。

 長い髭を撫でつけ、老人は泉の元に歩み寄る。

「ありがとう、天使のお嬢さん」

 言うや否や、老人は泉の肩を掴んで引き寄せ、素早く目元にキスを落とした。

「い、いえ。どういたしまして」

 その仕草はひどく手馴れており、笑顔は爽やかで、年老いてなお甘い。若かりし頃はさぞやもてただろう。

「助平じじい」

 ソルトがぽつりと呟く。

「天使が貴女のように可愛らしいとは思ってもみませんでした。天界とは教会の教えの通り、素晴らしいところなのでしょうな。老い先短い我が身を哀れんでおりましたが、とんでもない間違いだったようです」

 ソルトの呟きが聞こえなかったはずもないのに、老人はそれを無視して、泉の手をとって撫でた。

 不思議と嫌悪を感じないのは、老人が老人だからだろうか。

「えーと、私はあなたを迎えに来たわけではないので、天界の話はひとまず置いておいて。さっき、そこのアロマって人が言ってたトランゴーン討伐の英雄って、元は片田舎の騎士団に居た人のこと?」

「よくご存知ですね。そうですよ。今は王都の騎士団長を務めておりますな」

「やっぱり!」

 泉は老人の手に己のそれを重ねる。

「その人、どうしてる? 奥さんとは仲直り出来た?」

 手を重ねた瞬間、相好を崩した老人は、続く泉の言葉に眉を寄せた。

「あの男、細君がおるのですか?」

「え……、ええ、故郷に。ちょっとした行き違いがあって奥さんを置いて、討伐に出たみたいだけど。あの、奥さんは王都に来ていないの?」

 老人は口髭の奥の口角を下げる。唇をへの字に引き結んだ。

「あの男には今、このジェバスの姫君との結婚の話が出ております。よもや郷に細君がおったとは……。男の風上にも置けん奴だ。アロマ、やはり此度の仕事は断るぞ」

 老人がアロマを振り返る。

「断るなど無理です。王直々の命なんですよ!?」

 アロマが悲鳴のような叫び声を上げた。

「元々、気に食わんかったのだ。わしの声は女性の美を賛美し広める為にあるのであって、男を称える詩を奏でるためにあるのではない。彫像とてそうだ。甲冑を着込んだ、筋肉質の男を石に刻んで何が楽しい」

「ただの筋肉質の男ではありません。数百年ぶりにトランゴーンの討伐に成功し、心臓を持ち帰った英雄ではないですか。今や民からの人気は凄まじく、天使から賜ったという不思議な剣を模したものを作れと、鍛冶屋に注文が殺到しているとか――――天使?」

 どうやら筋金入りの女好きらしい老人を説得しようと、熱心に言葉を紡いでいたアロマは、ふと何かに気づいたように泉を見た。

「まさか、アーシユ様に宝剣ケロロンソードを授けた天使は、貴女様ですか?」

「え。宝剣!?」

 アーシユというのは、甲冑男のことだろう。まさか、あのケロロンソードが宝剣になっていたとは。

「違うのですか?」

「いや、うん、まあ。違わない、かな」

 元はといえば剣は泉のものではないし、宝剣でもないが、授けたという点は間違いではない。

「やはり。老師、お聞きになりましたか。この天使が、宝剣を授け、彼の英雄を勝利に導いた方なのですよ。その天使が、今度は老師のお命を救われた。やはり英雄アーシユ様の詩を書けるのは老師しかおりません」

「ふむ、天使が剣を授ける場面ならば彫ってもかまわんな……。だが詩は気がのらん」

 自分が石像になるかもしれないと聞かされ、泉は引きつった笑みを浮かべた。ひょっとしたら、その石像の自分は全裸なのではあるまいか。

 黙って話を聞いていた癖毛のソルトが、「しかし」と声を上げた。

「アーシユ様に細君がいらっしゃるのが本当なら、まずいですね。重婚は四十九の大罪の一つですよ」

「四十九? 随分多いのね」

「戒律の神ヘチーマは恋多き神。かの神が恋に破れるたびに増えたと申します」

つまり、八つ当たり的に増えたということだろうか。

「他国を侵すべからずから始まる我が国の戒めです。これを破る者はそれが例え王であろうと罰せられます。アーシユ様は本当にご結婚を?」

 残りの四十七つの内容も聞いてみたかったが、今はそれどころではない。甲冑の男が罰せられては大変だ。

「いや、元って言っていたから、離婚済みだったみたいだけど。えーと、離婚は認められてる?」

「そういうことでしたか。離縁済みならば問題ありませんよ」

 泉の言葉に、ソルトとアロマは揃って安堵の息を吐いた。

 「でもね」と泉は口を開く。

「彼らが離婚したのには理由があるのよ。アーシユだっけ? 彼の奥さんは体が弱くて、奥さんの為に一度は討伐を断ったの。でも王様の使者に酔わされて、娼館に放り込まれたらしくて。それを知った奥さんが怒って、彼は家を追い出された。とアーシユは思っているんだけど、実は奥さんは余命いくばくもない体で、夫であるアーシユの将来を思って身を引いたらしいのよ。でも色々あって、奥さんの体は治って、王都に夫を追いかけて旅立った……と私は思っていたんだけど」

 あの人は王都に行かなかったのだろうか? あんなに体が治ったことを喜んでいたのに。

「ははあ、あの筋肉男にそんな事情が。どうりで、ゆくゆくは王配の地位が約束されるというのに、陰気臭い面をしていると思いました」

 あけすけな物言いをして、ソルトが頷く。

 泉は胸を撫で下ろした。ソルトの言い様から察するに、アーシユが心変わりをしてしまっているというわけでは無さそうだ。

「もしや、奥方は王都に来て、姫とアーシユ様のご結婚の噂を耳にされたのでは?」

 アロマの推測に泉は額を押さえた。ありえる話だ。あの奥さんのことだから、姫君と結婚が決まったのならと、また身を引こうとしているのかもしれない。もしくは、出るに出られない状況にまで話が進んでしまっているのだろうか。

「ねえ、そのお姫様との結婚って、もう決まってしまっているの? あと、アーシユは喜んでいるわけではなさそうだけど、お姫様の気持ちはどうなのかしら?」

「まだ本決まりではないですが、話を進めているのが王御自身だと聞いていますから、時間の問題でしょうね。アーシユ様は確かに辛気臭……いえ、表情を緩めておられるところを見たことがありませんから、まだ元の奥方に気持ちがあるのかもしれません」

 もう一人の当事者である姫はどうなのだろうか?

「姫様は……御歳九つであらせられますから、まだ何も分かっておられないのではないかと思います」

「は? 九つ?」

 アーシユは若く見積もっても二十代の前半に見えた。九歳と二十代。そんな馬鹿なと唖然としたが、政略結婚とはそんなものなのかもしれない。

 それにしても、なんてことだろう。せっかく奥さんが元気になったというのに。どうにかならないものかと、思案していた泉は、むっつりと黙り込んでいる老人に目を留めた。

「……あの、詩つくるんですよね?」

「いや、つくらん」

 老人は眉を寄せて、そっぽを向く。

「だから、断るなんて無理だと言っているじゃありませんか!」

 アロマが窘めるが、老人はますます態度を頑なにする。

「つくってもらえませんか?」

「王の使者に騙されて、細君を置き去りにした間抜けな男の詩をか?」

 老人はすっかりやる気をなくしているらしい。馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの態度で、放っておけば、鼻でもほじりだしそうだった。

「いえ、危険な討伐の為、奥方と離れ離れになってしまった、英雄の悲恋を詠ってほしいんです」

 老人が眉を上げて泉を見た。

「王直々の命が下るなんて、さぞやご高名なお方なのでしょうね。あなたが、アーシユと奥さんの悲しい恋を詠えば、王や民衆の心を動かせるのではないかと思ったのですが」

 王様には打算があるだろうから、無理かもしれないが、絶大な人気があるという民衆の後ろ盾を得られれば、状況を変えられるのではないだろうか。

「それは良い案かもしれません」

 黙り込んだままの老人に代わってアロマが賛同する。

「王命には逆らえんのではなかったのか」

 老人がアロマを睨みつけた。「なにをおっしゃいます。王はあくまで、英雄アーシユのトランゴーン退治を称える詩をご所望なのですよ。故郷の想い人のことを語ってはいけないとは言われてはおりません。逆らったことにはなりませんよ」

「せいぜい褒賞が出ないぐらいでしょうね」

 すっかり乗り気のアロマにソルトが相槌を打つ。

「実は九つの姫のお相手に、いくら英雄とはいえ、アーシユ様をあてがうのは、さすがにどうかと思っていたのですよ」

 政略結婚だから仕方がないよね。と皆が皆、割り切っているわけではないらしい。

「王も焦っておられるのでしょう。王子が国を出奔なされ、跡継ぎは姫お一人になってしまいましたからね」

 と、ここで、アロマは意味ありげに老人を見た。

「おいたわしや、姫君。世界中を旅したとかいう、眉唾もののコンヨーク2世の話を聞かせ、王子をそそのかした者としては、心が痛まれますね、老師」

 すかさずソルトが追随する。

 どうやら、老人とこの国の王子と姫には浅からぬ縁があるらしい。

 ぐぬぬ。と老人が呻く。

「アーシユ様の為ではなく、姫君の為と思われてはいかがですか。9歳にしてあの美貌ですよ。将来は老師の好きな美女になるのはまず間違いないですよ」

「ふん、その頃には、わしはもう生きとらんだろうが」

 悪態をつくと、老人は大きく溜息を吐いた。

「ええい、つくればいいんだろう。つくれば」

「さすが老師!」

「これだから、あなたの弟子はやめられません」

「ありがとうございます、老師」

 泉がアロマとソルトに混じって喝采をあげると、老人は眉を下げた。

「だから、老師と呼ぶなというておろうに」

「あ、ごめんなさい」

 泉が老人に頭を下げた時、ぬっとその隣に割って入ったものがあった。

「わわっ」

 叫び声を上げて隣を見る。

 馬モドキが風呂場の窓から鼻を突っ込んで来たのだ。

 浴槽の湯を飲もうと首を伸ばして、届かないと分かると、壁についた水滴をべろりと舐める。

「こら、やめろ! 天界に昇れなくなるぞ」

 アロマが慌てて馬モドキの毛を引っ張るが、馬モドキが顔を引っ込める気配は無い。

 手綱が外れているせいで、制御が利かないのか、馬モドキは好き勝手に壁を舐めていたが、アロマとソルトが二人がかりで首の後ろの毛を引くと、ブヒヒンと不満気な声を出して、後ずさった。窓枠に鈴が引っ掛かってシャンと音をたてる。

「天使よ。失礼した。アーシユ様の件、ご心配めされるな!」

 アロマが叫ぶと同時に、ソルトが窓に手をかける。

 シャン。鈴が外れて湯の中に落ちた、と同時に窓は閉められた。

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