第11話

 かびる。

 このままだと確実にかびてしまう。

 泉は風呂場に渡した紐にかけた青いマントを見て、顔を顰めた。

 砂漠で迷っていた男――フーロン王が泉にかけてくれたマントは、思いのほか厚手だった。

 日中は暑く、日が落ちてからは底冷えする。彼らがいた砂の大地を思うと当然のつくりかもしれない。

 ただ、厚手の青い布。というだけなら泉はここまで悩みはしなかった。

 マントには、布と同系色の糸で刺繍が施されていた。明らかに手縫いの刺繍は見たこともないほど緻密で繊細だ。

 「高そう」刺繍に気付いた泉の第一声は下世話なものだった。

 とっておきの酒を二瓶と、ハハネロのお手玉を三球、さらに地図も渡したのだから、ちょっとお目にかかれないほど手の込んだ刺繍が施されたマントぐらい受け取ってもいいのでは………とは到底思えない。

 それほどに、マントの刺繍は見事なものだったのだ。

 ひょっとしたら次に会う人は生活に困っているのかもしれない。

 このマントを売ればいいお金になるだろう。だが、仮にもヨーク・ザイの王様のマントだ。王のマントを売ったせいで、その人物にあらぬ疑惑をかけられないとも限らない。

 やはりここは、王様本人にマントを返すのが一番のように思えた。

 もっとも泉自身はフーロンに会いたいとは思っていない。裸を見られても平気だったのは、もう二度と会わない人々だと思っていたからだ。二度目の邂逅があると知っていれば、もう少し身形に気を使った。

 泉はちらりと、風呂場の片隅に置かれたビニール袋を見る。中身は今日買ったばかりのバスローブだ。

 これで、いつ窓がおかしな世界に繋がっても大丈夫。

 今晩からは今までより余裕をもって対処出来るかもしれない。

 泉は、差し当たっての問題であるマントに、布を傷めぬよう遠くからドライヤーの風を当てながら、どうやってこれをフーロン王に返そうかと考えを巡らせていた。

 ドライヤーが熱風を吹き出す。

 その音に混じって「火事だ!」と叫ぶ声が聞こえた。

 この声が現実世界のものなのか、それとも窓の外に現れる不思議な世界のものなのか。判別するには、窓を開けるのが一番手っ取り早い。

 ドライヤーを切ると、マントを潜り、窓を開けた。

 窓は、見知らぬ家の中に繋がっていた。

 黄土色の土壁。岩をくり貫いたようなキッチン。温かみのある木の家具。そして、白い服を身につけた人物が二人。

 二人の人物は泉に気付かず、木で出来た窓板を開けて、外を見ていた。

 窓の外には一メートルほどの空間を開けて、土壁が見える。泉がいる家の窓から向って斜め左へとずれた位置に、同じような木板のついた窓が見えた。

 泉は二人の後姿をしげしげと眺めた。むき出しの腕は褐色で、砂漠の人々を思い起こさせる。だが、衣装が随分と違う。白い貫頭衣を、シルクのように光沢のある帯で縛っている。貫頭衣は何れもお尻の下あたりまでの長さで、一人は足首まである長いスカートを。もう一人は膝下までのスカートをはいていた。

 シルエットから、膝下までのスカートをはいているのが男性で、足首まであるスカートをはいているのが女性だと分かった。

「ど、どうしよう? キョウスイさん。まだ子供が取り残されているかもしれないらしいよ。ああ、どうして、誰も助けにいかないんだ。私が水を被って行って来ようかな」

「無理よ。貴方の運動神経じゃ、救助が必要な人を一人から二人に増やすだけです。すぐに兵が来ますから」

「そりゃそうかもしれないけど、だからって……」

 男が隣の女の顔を見る。見るからに人の良さそうな垂れ目と、耳で光る赤いピアスが印象的な男だった。

 キョウスイと呼ばれた女は男へ向き直り、泉に気がついた。

 大きな目が落ちそうなほどに開かれる。

「え? ええ? あの……ええ!?」

 泉を指差してぱくぱくと喘ぐキョウスイ。そんな彼女の様子を見て、男もまた泉に気づいた。

「どうも。あの、信じられないでしょうが、怪しい者ではありません。ところで、何かお困りですか?」

 泉はとりあえず会釈した。

「はあ、これはどうもご丁寧に」と、深々と頭を下げた男は、冷静なのではなく、驚きに思考が麻痺しているだけなのではないかと、泉には思えた。

 男は顔を上げるなり、泉の元へと駆け寄った。

「実は大変困っております。妖術師様!」

 泉は何も言わなかった。否定するだけ無駄だと、今までの経験から想像がつく。

「路地を挟んだ隣の家が火事なのですが、小さな子供が取り残されているかもしれないのです。どうかお助け下さい」

 泉は困った。男は今にも平伏しそうな勢いだ。

「えーと」

 浴室内を振り返る 役に立ちそうなものは、目の前で揺れる王のマントだけだ。

 泉はマントを勢いよくひいた。洗濯バサミがはじけて床に落ちる。次にシャワーのコックを捻って、マントに水をかけた。

「これを被って助けに行くのはどうかしら。でも、無茶はしないでね」

「貴方、鈍そうだし」という言葉は飲み込んだ。

「おお、これは心強い。妖術師様の布があれば百人力です」

 豪華な刺繍が施されただけの普通の布なのだけど……。泉は強烈な不安を覚えずにはおれなかった。

「あなた、ちょっと待って!」

 キョウスイが男を止めるが、男はマントを被って、窓を乗り越えようと手をついた。颯爽とジャンプしようと上げた足がマントに絡まり、男は窓の向こうに落ちた。

 どすんと重い音がする。

「だから、あなたには無理ですってば!」

 キョウスイが窓に手をついて身を乗り出す。

 その前を真っ赤な長い髪が翻った。

「この布、借り受ける!」

 落ち着いた低い音だが、間違いなく女性の声だ。

 泉からは見えないが、窓の外で男からマントを引き剥がしているらしい。男の慌てた声と、赤い頭が時折見える。

 布を男から全て巻き取ると、女は立ち上がった。

 腰まで伸びた、燃えるような赤い髪を頭の高い位置で一つに纏めている。

 少し黄味がかった白い肌に、きりりと上がった眉、涼やかな目元、すっきりと通った鼻筋、意志の強そうな青い瞳が室内にいたキョウスイと泉に向けられた。

 女は泉を見て、一瞬呆気に取られた顔をするが、すぐに気を取り直した。

 フーロンのマントを体に纏い、止める間もなく、駆け出す。

 窓の外の路地を走る女の姿はすぐに見えなくなった。

「いててて」

 男が腰を擦りながら立ち上がった。

 遠くで、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。

 ぱちぱちと火がはぜる音が聞こえ、隣家の窓から黒煙が噴出した。

「あなた、早くこっちに!」

 キョウスイの声に、泉は我に返った。

 風呂場を出ると、家中からありったけのバケツや桶、果ては花瓶までをかき集めて戻る。

 男は窓の外で某然と煙を見つめていた。泉は窓辺で男を室内に引っ張り込もうとしていたキョウスイに声をかけた。

「バケツリレーをするわよ」

「え?」

 キョウスイが振り返る。その手に、泉は水を溜めたバケツを押し付けた。

「ほら、早く、外の男の人に渡して!」

 手の中のバケツと泉を交互に見ていたキョウスイは、力強く頷くと、バケツを持って、窓へと向う。

「あなた! 水です! ほら早く!」

 キョウスイは声を荒げた。

 ぼんやりと突っ立っていた男が、弾かれたように振り返った。

 バケツを受け取ると、男は煙の噴き出す窓めがけて水をかけた。その時には、二つ目のバケツがキョウスイの手に渡っていた。泉は手元にある容器に次々に水を溜めてキョウスイに渡す。キョウスイは窓の外の男に渡し、男は空になった容器と交換に、隣家の窓の中目掛けて水をぶちまける。急場しのぎにしては上出来だった。

 額に汗が浮かび始める。

 と、隣家の窓の奥から一陣の風が吹きぬけた。

 マントを被って家の中に入って行った女が、そのマントを胸に抱いて飛び出てきたのだ。

 赤髪の女は胸の中に抱えたマントをそっと、地面に降ろすと、布を捲る。中から四、五歳の男の子が現れた。真っ赤になった目をうるませ、不安そうに辺りを見回している。唇を噛み締めてなお漏れる嗚咽が痛々しい。しかし、見たところ怪我はおろか、火傷一つ負っていない。

「主人! この子を頼む。細君、すまんが匿ってくれ、表通りには兵が集まっている。わけあって姿を見られたくないのだ」

 言うなり女は、男に助け出した男の子を引き渡し、窓から家の中へと入ってきた。無論足を引っ掛けたりなどしない。

 キョウスイは心得たとばかりに、窓の板に手をかけた。

「あなた、よろしくお願いしますよ」

「へ? あの、ええ!? あ、ちょっと。キョウスイさーん」

 戸惑う男の声を最後に窓は閉められた。

 キョウスイは煤に塗れた女に、絞った布を差し出す。

 女は礼を言って受け取ると、頬や腕についた汚れを拭い始めた。

 見れば、髪の先や、帯の一部が焦げ、右の手の甲が赤くなっていた。

「そばへ来て、流水で冷やすから」

 泉が手招きすると、女は首を傾げながら近づいた。

 シャワーから冷たい水を出し、女の手を取る。赤くなった手に泉はシャワーをあてた。

「世話をかけるな」

 女は大人しく泉に腕を預ける。

 そこで女は火傷を負ったのとは反対の腕に持ったままだった、マントに目をやり、息を呑んだ。

「この外套、よくよく見れば素晴らしい刺繍が刺してあるではないか!? このように精巧で美しい柄は初めて見る」

 感嘆の溜息を吐いてから、女は申し訳なさそうに、キョウスイに告げた。

「すまぬな、細君。同じものは用意出来そうにないが、出来る限りの償いはさせてもらおう」

「いえ、それは私共のものではなく、こちらの妖術師様の持ち物です」

「妖術師?」

 二対の視線に晒され、泉は首を振った。

「いや、それ、私のってわけでもないんだけど……。まあ、子供の命を救えたんだし、元の持ち主も文句は言わないんじゃないかな」

 マントの端は焼け焦げ、煤交じりの水でべっとりと汚れている。刺繍の糸は縮れて解れ、もう修繕は不可能だろう。

 「そうか? 太っ腹なのだな」と女はマントを見詰める。

 そう言う女の腰に巻かれた帯とて、朝焼けを思わせるグラデーションのかかった見事な光沢の布で、やはりかなりの値打ちものに見えた。

 いや、真に惜しむべきは帯ではなく……

「毛先、焦げちゃったわね」

 赤毛と一言で表してしまうには鮮やか過ぎる赤。女の長い髪は、大切に伸ばされていたのだろう事が一目で分かった。

 マントの刺繍も、彼女の帯も残念だが、彼女の髪は同じ女として、胸が痛む。

「すぐに伸びる」

 女は笑った。あっけらかんとした笑みなのに、大輪の花が咲いたような艶やかさも感じさせる。

「さあさあ、どうぞ。お召し上がりください。お口に合えばいいのですが」

 キョウスイが飲み物と軽食を運んできた。

「ああ、ありがたいな。実は朝から何も食べていないのだ」

 マントを置くと、女は飲み物を口に運んだ。続いて、ピタのような薄いパンに手を伸ばす。中には鶯色のペーストが挟まれている。

「妖術師様もどうぞ。ゾラマメのナーンです」

「ありがとう」

 泉は遠慮なくナーンを手に取った。

 周りのパンはぱりっと焼き上げてあり、さくさくとしている。中身は柔らかいペースト部分と、素材の形が残った部分が混ざり合っていて、粒餡のような舌触りがした。少しばかり塩気が足りないが、あっさりとした優しい味わいだ。

「美味いな」

 赤毛の女が呟いた。

 ナーンは確かに美味しい。だが、何故切なげに溜息を吐きながら言うのだろう。

 ふと、顔をあげれば、キョウスイが眉を寄せて、赤毛の女を見ていた。

「あの、もしかして貴方様はヒトウ王女ではありませんか?」

「え!?」

 泉は赤毛の女に視線を戻す。すると女は神妙な面持ちで頷いた。

「その通り。私はヒトウだ」

「王女様!?」

「しっ、声が大きい」

 思わず、大声を出してしまった泉の口元に、ヒトウは人差し指をあてた。

 ああ、このジェスチャー、異世界でも共通なんだ。と泉は感心する。

「どうして? ああ、兵に姿を見られたくないんだっけ?」

 大声で王女だと言われたくない理由はすぐにわかった。だが何故姿を見られたくないのだろう。

「やっぱりどうして?」

 率直に疑問をぶつけると、赤毛の女――ヒトウ王女は押し黙り、俯いた。

 後れ毛が横顔を隠す。

 泉は慌てた。

「あの、ごめんなさいね。込み入ったことを聞いちゃって、別に言いたくないことを無理に聞きたいとは思っていないから」

 ヒトウ王女は顔を上げて首を振った。

「いや、疑問を持つのは当然のこと。王族の端くれとして、民を不安に陥れるなど、恥ずべき行為だ。すまない」

 潔癖すぎるのではないかと思えるほどの潔さで頭を下げられ、泉は口元を引きつらせた。この国の民でもないし、謝ってもらう謂れはない。

 どう説明したものかと思い迷う泉をよそに、ヒトウは息を吐いた。

「家臣と意見の食い違いがあってな。少し一人になりたくて、頭を冷やすためにと、宮を出てきたのだ」

 秀麗な眉目に悲愁を漂わせるヒトウの様子に、泉は口を開き、しかし何も言わずに閉じた。

 ヒトウ王女の染み一つない健康そのものの肌の、目の下に浮かぶうっすらとした隈に気付いたからだ。

 二十歳になるかならないか程だろうか。

 ただでさえ悩みの多い年頃であるというのに、王族ともなるとスケールが違うのだろう。そんなヒトウ王女に泉が助言出来ることなどありはしないに違いない。

 今にも雨が降り出しそうな昼下がりのように、どんよりとした空気が漂う。

 遠慮がちに口を開いたのはキョウスイだった。

「恐れながらヒトウ王女のお心を曇らせているのは、トージ国のコーノウ王とのご縁談に関係があるのではありませんか?」

 ヒトウは目を見張る。

 頬がうっすらと色づいた。

「なぜ、それを……」

「私は見ての通り移民ですが、この国に来て、王族と民の間が余りに近いことに驚きました。皆様、身分の隔たりを感じさせぬほど気さくで温かくて……。ですから、民は皆、心配しているのです。以前はコーノウ王の名前が出るだけで、はにかみながら、嬉しそうに笑っていらしたのに、近頃では悲しげな笑顔を浮かべられていると」

 王女は、身を屈めて顔を伏せた。

 膝の上に掌を乗せて、そこに顔を突っ伏す。

「皆に、そこまで気付かせるとは、私はなんと未熟なのか」

 ここまで、オーバーリアクションに気持ちを表されたら、誰でも気付くかもしれない。泉はヒトウ王女の赤い髪が揺れる頭を見詰めた。

「これも何かの縁かもしれないし、良かったら話を聞くわ。家臣さん達より忌憚なく相談にのれると思うけど」

「政治的なお話は、分かりかねますが、王女のご様子を拝見するに、多分、違いますね? でしたら、白髪のお偉方よりも、私達のほうが余程適任です」

 ヒトウ王女は顔を上げた。

 頬といわず、耳といわず、その顔は、トマトのように真っ赤に色づいている。

「聞いてくれるか? 情けなくて、幻滅するかもしれんが」

「もちろん」

「ええ」

 泉とキョウスイは力強く頷いた。

 ヒトウ王女は、大きく息を吸い込み、吐き出すと共に、肩をすとんと落とす。

「食べられないんだ」

 ぽつりと呟いた。

「は?」

「え?」

 泉とキョウスイの声が重なる。

「何を、ですか?」

 キョウスイが尋ねた。

「トージの料理がだ。トージの食事はココナッソを使ったものが殆どで、あの独特の甘ったるい香りと味が駄目なんだ。ガレーにもナーンにも全てにココナッソが入っていて……トージを訪れる度に飲み物で流し込んで無理やり食べてきたが、二日が限界だった。トージで暮らすのに、ココナッソが食べられないだなんて、コーノウ王に知られたら呆れられてしまう。だから王に結婚の延期を申し入れた。今はココナッソを取り寄せて、食べられるようになるべく、特訓中だが、無理かもしれない……」

「それは、まあ……大変かもね」

 食べ物の好き嫌いといえば、子供っぽく感じるが、誰しも苦手なものはある。その苦手なものが全ての料理に入っていれば、きついかもしれない。

 ぽかんと口を開けて、呆れかけた泉は、椎茸づくしの料理を想像して、考えを改めた。

「ヒトウ王女の皿からはココナッソを抜いていただくようにお願いされてはいかがですか?」

 料理人に手間を取らせるのは心苦しいかもしれませんが、とキョウスイ。

 王女は首をふった。

「ココナッソは、コーノウ王にとって特別な食べ物なんだ」

「特別?」

 泉は首を傾げた。

「ああ、十年程前、トージは飢饉に見舞われた。それまでココナッソはトージでも一部の地域でしか食べられていなかったが、飢饉のおり、コーノウ王が自ら広め、栽培にも乗り出された。成長が早く、病に強く、滋養に優れている。ココナッソのお陰で命を救われた乳幼児が幾人もいると、トージの民に聞いた。そんなコーノウ王にとっても、トージの民にとっても思いいれのある食べ物が苦手だなんて、とても言えないよ。きっとコーノウ王は私のことがお嫌いになる。なんと我がままな王女よと」

 うーん。泉は腕を組んだ。

 十年前まで食べられていなかったのなら、ココナッソを使わない味付けも充分可能だろう。不慣れなものなら断ってもいいのではないかと思う。しかし、飢饉を救った食べ物となると、贅沢だと考える人もいるかもしれない。果たしてコーノウ王の考えはどちらだろうか?

「コーノウ王ってどんな人なの?」

 問うと、肩を落として力なく溜息をついていたヒトウ王女は、青い瞳を輝かせて泉を見た。

「素晴らしいお方だ! 思慮深くて、誰よりも聡明で、お優しい面差しをしておられるのに、どの様な困難にも、どんな相手に対峙しても、決して怯まれない。自分にお厳しくて、全てを完璧にこなされる。ずっと昔から私の憧れの方なのだ」

「へ、へえ」

 握りこぶしをつくって力説する王女に、泉は頬を引きつらせて頷いた。

 そんな完全無欠な超人が、存在するのだろうか? と思いながら。

 ふふふふ、と楽しげな笑い声が響いた。ヒトウ王女の隣にいる、キョウスイが笑ったのだ。

 え、今、笑うとこ? と泉は肝を冷やしてキョウスイを見た。

「ごめんなさい。王女がお可愛らしくて」

 口元に手をやり、なおもキョウスイは笑う。

 王女は困惑し、眉を寄せていた。

 笑いが引っ込むと、キョウスイは妹を見詰める姉のような温かな眼差しをヒトウ王女に向けた。

「ヒトウ王女はコーノウ王に恋をしておいでなのですね」

 王女はまた顔を赤く染めた。

「あ……いや、恋、というか、尊敬……している」

 いや、恋でしょう。泉は心の中で突っ込んだ。

「恋は時に女を弱くします。相手に嫌われたくない、失いたくない、日がな一日、その人のことばかり考えてしまったり。私にも覚えがあります。当時の私はあの人を失うのが何より怖くて……まあ、それは今も変わらないんですけど……」

 キョウスイは笑った。今度は楽しげなそれではなく、何かを思い出すような寂しげな笑みだった。

「私達は入り組んだ事情があって、国を出なければなりませんでした。兄の協力を得て国境を越えるまでは生きた心地がしなかったものです。この国に来たばかりの頃も、失うことを恐れるばかりで、びくびくと怯えて生きておりました。それまでは郷でも兄に似て豪胆な性格だと言われていたんですよ。でも恋をして、私は変わってしまった」

 少し抜けているが優しそうな夫と、幸せに暮らしているように見えても、キョウスイはキョウスイで大変な人生を送ってきたらしい。泉はキョウスイの波乱に富んだ過去を思い、しんみりとしながら、同時に、羨ましくなった。そこまで想える相手に出会えるなんて。

「でも、大丈夫。恋は女を弱くしますが、愛は女を強くします。さらに子供を産んだ女は最強の生物だと、よく兄も申しておりました」

 哀愁ただようさっきとは打って変わって、キョウスイはからりとした表情を見せた。

「生活を営むためには、いつまでもくよくよとしていられませんから」

「……確かに、市場で見る夫人の活力には私も怯ませられるときがあるが」

 泉はタイムセール時のおばちゃんを思い出した。あの図々しいまでのガッツには確かに恐れ入る。

「言葉は悪いですが、もっと厚かましくおなりなさいませ。飢饉の真っ最中に好き嫌いを言えば、それは我侭でしかありませんが、今は違います。二度と飢饉が起きぬよう、コーノウ王と力を合わせて頑張るのが王女の勤めではありませんか?」

 王女ははっとしたように顔を上げた。そして、徐々に視線を下げ、目を閉じ、唇を噛み締める。

「コーノウ王は、即位なされた時から苦難の連続で、それでも力強く立ち続ける王の力になりたいと……思っていたのだ。それなのに何時の間にか嫌われないようにすることばかり考えていた」

 王女は立ち上がると、キョウスイを抱きしめた。

「ありがとう、正直に話すことにする。嫌われるかもしれないが、精一杯努力すると、伝えてみる」

 真っ赤な髪に顔を埋めながら、驚いて目を見開いていたキョウスイは、やがて目を細めてうなずくと、王女の背中をとんとんと叩いた。まるで妹を褒める姉のように。

 拍手でも送りたい雰囲気のなか、話も纏まったようだし、そろそろ窓をしめてもいいだろうか? と様子を窺っていると、ばたんと大きな音がした。

 家の戸が大きく開け放たれ、先ほどの垂れ目の男と、ヒトウ王女が助け出した子供、さらに見知らぬ厳つい体躯の髭面の男が一人、入ってきた。

 戸を閉めるなり、髭の男が頭を下げた。背に負った大きな篭の中身がちらりと見える。

「ヒトウ王女、息子の命を救っていただき、ありがとうございました」

 すると隣で小さな男の子がぺこりとお辞儀する。

「王女様、ありがとう」

 ヒトウ王女はキョウスイから離れ、男の子の側に行くと、屈んで視線を合わせる。

「どうしたしまして」

 くしゃくしゃと頭をかき混ぜると、男の子はくすぐったそうに笑った。

「火は消えたよ。あ、兵には話しておりませんから。どうしてもお礼を言いたいと言われて連れてきてしまったのだけど、駄目、だったかな?」

 垂れ目の男がキョウスイの顔色を窺うように見た。

「いいえ、駄目だなんて言いませんよ」

 キョウスイの答えを聞いて、男はぱっと笑顔を浮かべる。

「良かった。キョウスイさんは怒ると怖いから」

 男はよく言えば純粋そうだが、頼りないことこの上ない。蓼食う虫も好き好きとはよく言ったものだ。とろけそうな笑顔で寄り添う二人を見て、泉は人の心の複雑さを知った気がした。

「ヒトウ王女に火の中に飛び込ませるなど、なんと感謝すればいいのか。俺に出来ることならなんでもお申し付けください」

 髭の男が真摯な顔でそういい募ると、王女は泉を振り返った。

「礼なら、あちらの妖術師殿に言ってくれ。外套を使わせてくれたのだ。一家が、軽く一年は暮らせる品だろうに」

 高そうなマントだと思っていたが、それ程とは……

 もしも、もしも、三度、フーロンに出会うことがあれば、なんと言おう。

 どうか二度と会うことがありませんようにと祈る泉の元に、髭の男が近寄る。

 男は背に負った篭の中から、長い鋏を取り出した。柄が長く、刈り込み鋏に良く似ている。

「これは俺が職人になった時から使っている、俺にとっては命の次に大事なもんです。そこの外套とはくらべもんになりませんが、どうかお納めください」

「いや、そんな大事なものはちょっと……」

 手を振り、受け取りを拒否しようとすると、髭の男が困ったように眉を寄せる。

 それを見ていた垂れ目の男が、おもむろに鋏を持ち上げた。

「カラスの旦那……」

 髭の男はほっとしたように垂れ目の男を見る。

 カラスと呼ばれた垂れ目の男は、うやうやしく泉に鋏を差し出した。

「どうぞ、お受け取り下さい。妖術師様に遠慮されては、彼の気がすまないのですよ。対価を払わずに得たものは己の足をすくうとも申しますし」

 それでも泉は迷って髭の男を見る。男と、その隣で小さな男の子が頭を下げるのを見て、鋏に手を伸ばした。これで彼らの気が済むなら受け取るべきなのだろう。

「元気でね」

 男の子に手を振ると、泉は鋏を手に、窓を閉めた。

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