第9話

 電球が切れていると気付いたのは、風呂に入ろうと戸を開けてスイッチを押した時だった。既に服は脱いでいる。裸で買い置きを探す気にもなれず、街灯や隣家の灯りがあれば充分だろうと、浴室に足を入れた。


 ふと、洗い場の隅に小さな光が零れているのに気付いた。


 蛍の光を縒り集めたような、優しい光だった。


 光は、アザユとかいう男の頭から落ちた銀色のヘルメットに張り付いている。


 ヘルメットを見た瞬間、昨晩の記憶がまざまざと甦り、泉は意味もなく叫びたい衝動にかられた。


 酔うと記憶を失くす友人がいる。


 暴れて、愚痴って、脱ごうとして、キス魔になっても、次の日には何一つ覚えていない。二日酔いにもならない体質らしく、飲んだ翌日は、いつも気分が晴れ晴れとしているそうだ。


 泉は今、その友人が心底羨ましかった。


 二日酔いの痛みや悪心も嫌だが、それよりも、昨晩の記憶が鮮明に残っていることが何より嫌だ。


 呆れた顔のスノコ。困った顔で絡まれていたアザユ。丸顔の料理長。彼らはあられもない格好で飲んだくれていた自分をどう思っただろう。きっと、とてつもなくだらしない女だと思ったに違いない。違う。違うんだと、泉は声を大にして言いたかった。


 せめてもの救いは、二度と会うことが無い人々だという点だろうか。


 塔に居た子供が、無事に助け出される場面は、この目で見たいところではあるが、深く関わるべきではないとも思う。一度きりの出会い。それでいいのだ、と。


 それにしても……まさか自分に露出癖があったなんて。


 風呂場故に、やむを得ず、裸体を晒してはいたが、自分から晒そうとする日が来るとは夢にも思わなかった。


 風呂場でもそれ以外でも、深酒は二度としないようにしよう。恥を洗い流すように、頭からシャワーを浴びながら、泉は固く誓った。


 頭と体を洗い終わり、湯船に浸かる前に、ヘルメットを見ると、まだ光が零れている。


 泉は、ヘルメットを持ち上げた。


 光が溢れた。


 小さな箱に閉じ込められていた蛍が一斉に大空に舞うように、浴室の中が光で包まれる。


 それは一瞬のことだった。すぐに光は弱くなり、元の細々とした灯りが漏れるのみ。


 泉は唖然として手にあるものを見た。


「なにこれ……」


 呟きに答えてくれる者はいない。


 銀色のヘルメットはずっしりと重い。丁度額にあたる部分に掌に納まるほどの、平たい石のようなものが取り付けられている。石の表面はごつごつとしていた。


 その石が、ぼわんぼわんと瞬いている。


「灯り……ゲット?」


 安定感に欠けるきらいはあるものの、充分に切れた電球の代わりをはたしてくれそうだ。


 泉はヘルメットを浴槽の縁に置くと、湯船につかった。


 湯のなかで足を伸ばし、ついでに頭の上で腕を組んで、伸びをする。


 温かい湯が、やさしく体をほぐしてくれる。


 泉が、ほう、と溜息をついた時だった。


 窓の外から男のものと思われる低い声が聞こえた。怒声と言っていいかもしれないその声に、泉は項垂れる。


 少しハイペースすぎやしないか。


 怒声が途切れると、今度は金属音が聞こえた。鍋をお玉で叩くよりも少し低い。


 今日ぐらいはゆっくりと湯を楽しみたかった。窓を開けずに様子を窺うことにするが、怒声と、金属音はどんどんと近づいてくる。


 泉は、ヘルメットを手に取ると被った。ぶかぶかだが、用心のためだ。


 そっと窓を開ける。白いものが煌いた。かと思うと、頭部に衝撃が走る。


 ガンっという鈍い音が響き、光が迸った。


 仰け反りながら、余りの眩しさに目を覆う。


 光が収束し始めると、窓の外に二人の男が見えた。


 一人は全身黒ずくめで、顔も目を除いて黒い布を巻いている。


 もう一人は薄い青の衣装を着ていた。薄青の長袖に、ゆったりとした長ズボン。腰に巻かれた布には鞘らしきものが差し込まれている。こちらも頭に布をまいているが、顔は出ていた。褐色の肌が誰かを彷彿とさせる。


 窓の近くにいた黒尽くめの男が、泉目掛けて腕を振り上げた。


 その手に握られた湾曲した短刀を見て、泉は悲鳴を上げる。


 叫び声に黒尽くめがほんの僅かの間、怯む。


 泉は黒尽くめ目掛けて、ヘルメットを投げつけた。


 ぶつかる寸前に、黒尽くめはヘルメットに剣の柄を叩きつけて落とす。


 すると、また光が溢れた。


 眩しさに目を眇めながら、泉は見た。


 薄青の布を纏った男が、黒尽くめの背後に迫る。砂袋をバッドで殴りつけるような重たい音が聞こえ、黒尽くめは、顎を上げて痙攣し、倒れた。


 薄青の男が泉を見た。


 えも言われぬ緊張が泉と男の間に産まれる。


「こ、こんばんは」


「……ああ」


「あの、その黒い服を着た人、し、死んだの?」


 「ああ」と頷かれたら、即刻窓を閉めよう。


 しかし、男は「いや」と首を振った。


「気絶しているだけだ。貴重な証人だからな、後でふんじばっておく」


 そう言うと男は屈み、黒頭巾の手からこぼれた短刀を拾い上げた。


 何をする気なのかと見守る泉の前で、黒頭巾を蹴って転がすと、胸元に手を差し込む。引き抜かれた男の手には鞘が握られていた。鞘に納めた剣を腰に巻いた布に差すと、男は泉に向き直った。


 空色の瞳が、吟味するように、じっと泉を見詰めた。


 四角い顎にいかにも頑健そうな体つき。男にとって、泉を押さえつけることなど、赤子の手を捻るに等しいに違いない。


 泉は息苦しさを覚え、窓に手をかけた。


「えーと、それじゃあ、私はこれで」


 閉めようとした窓を男が掴む。


「待て」


 泉は心の中で「ひいい」と情けない声をあげた。


「忘れ物だ」


 窓に手をかけたまま、男は足元のものを蹴り上げた。


 砂と共にヘルメットが宙を舞う。


 窓を掴んだ手とは逆の手でそれを受けると、泉に差し出した。


「月石が割れたな。貴重なものを……すまない」


「月石?」


 泉は首を傾げた。


 男が眉を顰める。


「ここにはめ込まれていた石だ。振動を与えると光を発する」


 持ち主なのに何故知らない。男の表情はそう語っていた。


「あー、それで光ったんだ」


 泉はちらりと男の顔を見た。


 怜悧な印象を受ける威圧的な男だ。だが、そう悪い人物ではないのかもしれない。


「良かったら、あげるよそれ。多分だけど、あなたのための物だと思う」


 水が耳飾りになり、耳飾りは火石になり、火石は氷雪草になり、氷雪草はケロロンソードになり、ケロロンソードはトランゴーンの血になり、トランゴーンの血はお手玉になり、お手玉は鍵になり、鍵は光るヘルメットになった。


 もう、ここまで繋がってしまえば、何となく分かる。分かりたくなくとも分かってしまう。


 手に入れた物は次に現れる人の役に立つ。


 何の因果か知らないが、自分は風呂場の外に現れる世界の人々の、橋渡し役になっているのだろう。勘弁してほしい。


 男は指の上でヘルメットをくるりと回した。


「我が王に聞いたことがある。砂漠には女神が現れると」


「は?」


 窓の外の人々には様々な名称で呼ばれてきたが、今度は女神ときた。魔女から随分と昇格したものだ。


「酒の席であったから、てっきりからかわれられたのだと思っていたが……。そなたのことなのか?」


「いや、私に聞かれても。というか、王様って誰? セツケンのこと?」


 男は眉を上げた。


「いや、ヨーク・ザイ建国の王、偉大なるテヌーグ王の血を受け継がれたフーロン王だ。砂漠で迷っていたところを、美しき女神に命を救われたと聞いた」


 男は少し首をかしげる。小さな声で「聞いていた話とは少々違うが……」と呟いたのを泉は聞き漏らさなかった。


「悪かったわねえ。美しくなくて」


 泉の怒りを感じ取ったのか、男が目をそらす。「いや、その点ではない。王は豊穣の女神コーヨクのようだったとおっしゃっていたのだが」


 男は何かを確認するように泉をちらりと見ると、また視線を伏せた。


「女神コーヨクといえば、大地の神でもある浮気ものの夫、カラン神を文字通り尻に敷く為、豊かな腰を持つとされている。そのせいか私の知るコーヨクの像は何れも肉感的で……。いや、何もそなたの体の成長に偏りがあると言っているわけではない。コーヨクは子沢山の神でもあってだな。そなたの腰の細さでは……というのは私の主観に過ぎんわけで……」


 墓穴を掘った男の声はどんどんと小さくなっていく。


「それ以上弁解しようとしたら、頭から水をかけるわよ」


「……すまん」


 男は頭を下げた。


「でも、まあ、貴方の王様が誰かは分かったわ。青い石がついた耳飾りをしている人でしょう?」


 よくよく見れば、男のまとう薄青の衣は、耳飾りの男の服に良く似ている。褐色の肌もしかり。そもそも砂漠で迷っていた男といえば、一人しか心当たりがない。


 ヨーク・ザイの宰相であるテオ・ケーが血眼になって探していた人物だ。彼にとっても、ヨーク・ザイにとっても大切な人なのだろうと思っていたが、王様だったのか。


「そうだ。ではやはり、そなたが王の命を救った女神か」


 泉は曖昧に微笑んだ。救ったには違いないだろうが、女神ではない。ただ、説明するのも面倒だ。


「王様は元気?」


 男は「ああ」と頷いて目を伏せた。泉はおやと思う。


「王様に何かあったの?」


「王はトメユ女王に招かれ、二日前よりイ・ワブロに向かっておられる」


 泉は息を呑んだ。イ・ワブロと言えばヒノキ王子の国だ。


 男が顔を上げた。その目は険しく、激しい憤りに耐えているようだった。


「昨晩、密使が来たのだ。此度の訪問は罠である。女王の示した道は恐ろしい虫が巣食う道であると。密使は、巣の在りかを示した地図と引き換えに、自国の王子の救出を願い出た」


 泉は窓枠にかじりついた。


「ちょっと待って! フーロン王は密使の地図を受け取ったの? 二日も前に出たんでしょ? まさか、まさか、あなたが報せに行く途中だったとか?」


 だとしたら、悠長に話をしている場合ではないのではないか。


「いかにも、私は王に報せを届けにいく途中だった」


「だった、じゃないわよ! 早く行かなきゃ」


 泉は男の手からヘルメットを奪い取って、頭をひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。


「心配せずとも、他が向かっている」


「へ?」


「報せを届ける役が一人なわけがなかろう。ルバの扱いに長けたもの五名が、それぞれにこのように写した地図を持ってイ・ワブロに向っている」


 男は懐から折りたたんだ紙を取り出した。


 思わず手を差し出すと、ぽんと掌の上にのせてくれる。


 塔の中にあった紙よりも、厚く、ごわごわとした手触りがする。広げてみると、泉にはよく分からない様々な記号が書き込まれていた。記号の合間を一匹の蛇が体をくねらせたような線が描かれている。この蛇が安全なルートを示しているのだろうか。


「テオ・ケー殿は密使の存在に気付いたトメユ女王の刺客を懸念されておったが、見事的中したというわけだ」


 男は足元に転がる黒ずくめを蹴りつけた。


「私のルバはこいつらが放った毒矢にやられて使い物にならん。ここでこやつと、別隊が到着するのを待つ」


「え? こいつら?」


 泉は地図から顔を上げた。


 男の背後に視線をやる。


 風は無い。澄んだ空気の中、青い月明かりに照らされた砂の山が、幾つも折り重なっていた。幻想的ともいえる光景の中に、墨汁を垂らしたような黒い点がぽつぽつと見えた。


 一番手前の大きな黒い点は、首の長い馬のような、こぶのない駱駝のような、動物だった。


 その奥に、点々と転がる黒い点は、男の足元に横たわる黒尽くめと同じ服を身につけている。


 泉は震える指で男の背後を示した。


「あの、後ろで倒れている人達って、死んでるの?」


「ああ」


 男は後ろを振り返り、頷いた。


 その動きに合わせて、頭から垂らされた、薄青の布がふわりと揺れる。


「それじゃあ、私はこのへんで! 夜は冷えそうだけど、頑張ってね」


 泉は力任せに窓を閉めた。

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