第3話
泉は浮き立っていた。
ひょんなことから手に入れた石が、思いのほか使い勝手が良かったのだ。
湯船に水をはり、テオ・ケーとかいう腹のでた男から貰った石を放り込む。すると、ほんの数十秒ほどでよい湯加減の湯へと早変わりする。しかも冷めない。どれだけ時間が経とうと常に適温を保ってくれる。これでガス代もいらないというのだから、風呂好きの泉には、風呂場から持ち出せもしないあの耳飾りとは比べるべくもないほどの値打ち物だった。
得しちゃった、と浮かれるのも無理からぬことだろう。
今日も泉は風呂を楽しんでいた。
右手にはきんきんに冷えた日本酒の瓶、左手にはお猪口。翌日の予定が真っ白な夜のみ、己に許したご褒美だ。
ふと、泉は足元に沈む火石を見た。湯を温める火石があるなら、逆に湯を冷やす作用のある石もあったのではないのだろうか。もし、そんな石があれば、風呂場に持ち込んだ冷酒をいつでも最高の状態で楽しめそうだ。
そんな都合のよい妄想を思い浮かべながら、泉はお猪口に口をつけた。
「くあ~。うまいっ」
火照った体の中を冷たい日本酒が滑っていき、疲れた心と体を癒してくれる。百薬の長とはよく言ったものだ。
ぷはっと息を吐けば、冷やされた食道が、次の瞬間にはぽっと火がつたいように熱くなる。明日は自由だ。と実感できるひと時だった。
そんな至福の時間を、がらり、という音が打ち破る。
右手に持った瓶よりも冷たい風が風呂場に吹き込んだ。
「……嘘でしょう」
泉は窓に顔を向けて絶句した。
窓の向こう側でイエティが驚いた顔をして、泉を凝視していた。
「何者だ? 呪師か?」
イエティは流暢に言葉を紡いだ。
「いや、違うけど。貴方こそ、何? イエティ? ビッグフット? サスカッチ? それとも雪男?」
「何だ、それは」
イエティが唸る。泉はせめてものガードにと酒瓶を手に身構えた。
泉のささやかな抵抗を横目で見ながら、イエティは頭部に手を当てると、ずるりと毛を脱いだ。
その光景に泉は目を見張る。自前だとばかり思っていた物は、被り物であったらしい。目と鼻と口以外を覆っていたその毛皮と、毛皮と同色の口周りに蓄えられたぼさぼさの髭のせいで、イエティかそれに類似した生物であるとしか思えなかった訪問者は、立派な人間の男に化けた。掘りの深い顔立ちをしているが、褐色の肌をしていた遭難中だった男やテオ・ケーと違って、肌の色は日本人である泉に似ている。
「俺の名はセツケン。呪師殿の名は?」
「いや、だから呪師じゃないんだけど」と泉はもごもごと口の中で呟やき、セツケンと名乗った男を見た。口ひげのせいで老けて見えるが、声の張りや何気ない仕草が若々しい。
セツケンは興味深げに浴室内を見回していた。物珍しげに電球を観察した後、泉に視線を戻したセツケンは顔を顰める。
「禊の最中であられたか……」
セツケンに事情を説明するには途方もない労力が要りそうだ。泉は早々に諦める事にした。
「私は泉よ。それで、貴方も……えーと、何か困り事があるのかしら? 例えば、遭難中とか、人を探しているとか」
泉はここ最近、暇さえあれば、風呂場で起こった不思議な出来事について考えていた。その結果辿り着いた結論が、自分には、あの遭難者を助け、テオ・ケーに彼を引き合わせるという役目が担わされていたのではないか、というものだった。
泉は無神論者だ。神も仏も信じてはいないが、正月には神社に行って手を合わせ、法事の際にはお坊さんの読経を聞き、更に将来は教会で式を挙げるのだと漠然と考えている。神も仏も居はしないのだから、これらは本人の気持ちの問題だ。今でもその考えは変わっていない。なのに、役目が担わされていたのかもしれないと考えるなんて、自分でも矛盾しているとは思う。思うが彼らが無事に会えたなら、私はもう用済みで、不思議な世界ともお別れだと思っていたのだ。風呂場の窓が不思議な世界に繋がることもないと……
なのにこれだ。
セツケンは首を傾げた。
「遭難もしていないし、人も探していないが」
あら、違った。泉も首を傾げる。その時、セツケンの背後で、戸口の隙間から白い雪がちらちらと入り込んでいるのに気付いた。
見れば、セツケンが居るのは小さな山小屋というのもおこがましいような掘っ建て
小屋だった。余り厚みのなさそうな壁板を叩く風の音が煩い。室内でも毛皮に身を包まなければならないほど冷え込んでいるのに、中央にある囲炉裏らしきものには火も熾されていなかった。
「もしかして、火と薪がいる……とか?」
セツケンはまた首を傾げた。
「いや、もう出ようと準備していた所だ」
これも違った。男は特に困っているわけではなさそうだ。
この窓が不思議な世界に繋がるのに理由などないのかもしれない。
「どこに行くの?」
考えが外れて拍子抜けした泉は、好奇心で尋ねた。
男はしばし押し黙った後、低い声で「ザハーリャに」と答えた。
「――分かったわ!」
泉は思わず湯船から立ち上がった。
「テオ・ケーに会いにいくんでしょう?」
泉の言葉に男の顔が見る見る強張る。
「お前、ヨーク・ザイの人間なのか」
「え……え? 違う。違うわよ」
警戒心と敵意をむき出しにする男に泉は慌てた。
てっきりテオ・ケーの知り合いなのだと思った。彼もテオ・ケーと同じく遭難していた青い耳飾りの男を捜しているのかもしれないと思ったのに。
「その、テオ・ケーって名乗るおじさんに、偶然にも少しだけ会った事があるだけで、知り合いって程でもないし、ましてやヨーク・ザイとは何の関係もないから」
「偶然会った?」
セツケンの眉が上がる。
「そうそう。砂漠の外れで遭難していた男の人に水を分けてあげた事があって、そうしたら、次の日、テオ・ケーが現れて、遭難していた人の話を伝えたら物凄く喜ばれて……。その人の事を探していたみたいよ。きっとテオ・ケーにとって大事な人だったんでしょうね」
「テオ・ケーが探していた?……探していた……探していた……」
男は泉の話を吟味するように何度も繰り返した。
「あのー」
泉は恐る恐る男に声をかける。
「何か問題でも?」
「その男にテオ・ケーは会ったのか?」
しかめっ面をしたセツケンに泉は首を振った。
「知らないわ。その後は遭難していた人にも、テオ・ケーにも会ってないもの」
でも……と泉は言葉を続ける。
「東のオアシス都市郡がどうたらとか言ってたから、生きて出会えていると思う」
泉の言葉には自身の希望も含まれていた。不思議な縁で出会い言葉を交わして、水を渡した相手だ。やはり助かって欲しい。
男は天を仰いで目を閉じた。
食いしばった口元が小さく震えている。
泉は居たたまれなくなった。
セツケンにとって、ヨーク・ザイは好ましくない相手くにであるらしい。セツケンとヨーク・ザイとの関係はさっぱり分からなかったが、痛恨の念を抱き耐えている様は痛ましい。
長く瞑目していた男は、深い息を吐きながら顔を下ろした。
「そうか。テオ・ケーは探し当てたのか」
「よく分からないけど、ごめんなさい」
泉は頭を下げる。
「何故あやまる」
「だって、貴方にとっては、テオ・ケーが、私が助けた相手に会うのは良くない事だったんでしょう?」
男は笑った。何かを諦めた笑顔だった。
「呪師殿が気に病む事はない。貴方は人助けをしただけなのだろう」
泉は言葉に詰まった。自分は余計な事をしてしまったのかもしれない。だが、目の前に困窮した人間が現れ、自分に助けるすべがある時に、見ぬ振りをするのは難しい。
「さて、ザハーリャに用はなくなった。俺は国へ帰る」
立ち上がったセツケンは、毛皮を被った。
「ところで――」
セツケンは背にかけた荷物袋の紐を縛り直しながら、泉から目を逸らし、言いにくそうに呟いた。
「さっきから丸見えだぞ」
「……ぎゃあ!」
泉は両手で体を隠しながら、湯船の中に勢いよくしゃがみ込んだ。そんな風に羞恥まじりに注意されると、こちらも恥ずかしくなってしまう。
ざばりと湯が溢れ出る音に混じって、からんからんと固いものが床を転がる音がする。
辛うじて右手で酒瓶は握っていたものの、左手にあったお猪口がない。
――買ったばっかりなのに!
泉は慌ててお猪口を探そうと体を起こした・。
「うあ!? っちー」
途端に、今度は足の裏を焼く熱に驚いて、湯船から飛び出た。
急いでシャワーを捻って水を出す。
「どうした。大丈夫か?」
体を隠すのも忘れて足の裏を冷やす泉にセツケンは気の毒そうに声をかけた。
「ああ、うん。大丈夫。火石があるのを忘れて踏んづけちゃったみたい……」
泉は情けない声で答える。
「火石?」
セツケンは怪訝な顔をして、身を乗り出し、湯船の中を覗きこんだ。
「この、赤い石か?」
「そうよ。水を張ってこれを入れるとあっという間にお湯になるのよ。あー、その、テオ・ケーにその辺に転がっている石を頂戴って言ったらくれてね」
「……その辺に転がっている石が水を湯に変えるのか!?」
セツケンは驚愕したようだ。そりゃあ、驚くよね。私も驚いたし。泉はうんうんと頷いた。
「火石。なんと素晴らしいものがザハーリャにはあるのか」
セツケンは目を輝かせて火石を見詰めている。
泉は嫌な予感を覚え、「さ、さーて、そろそろ出ようかしら、湯あたりしちゃった」と風呂の蓋をしめようとした。その蓋をセツケンの大きな手が押さえる。
「待ってくれ、呪師殿。これを! これを譲ってくれんか!?」
ああ、やっぱり。泉はうな垂れた。
「いいわ……。何と交換する?」
「交換? そうだな、こんな素晴らしいものを只で貰うわけにいかんな。しかし、今は碌な手持ちがない」
セツケンは荷物袋を背から下ろして中を覗きこみ、溜息をついた。どうやら、交換出来る品がないらしい。なら潔く諦めてくれればいいのに……。
ちらちらと物欲しげに火石を見詰める仕草が鬱陶しい。
泉は深い深い溜息を吐いてから、渋々セツケンに提案した。
「ねえ、そこって寒い土地よね? 火石ならぬ氷石とかないの?」
「氷石?」
「そうそう、この冷酒を冷やせたら嬉しいんだけど」
「呪師殿は酒を好むのか」
セツケンはしばし考え込み、ぽんと手を打った。
「待っていてくれ」
そう言いおくと、慌しく小屋の戸口へと向かう。
戸を開けた瞬間、びゅおっという音と共に雪と風が勢いよく吹き込んだ。
泉はたまらず湯船に潜った。
セツケンはすぐに戻ってきた。手にはつるんとした光沢を放つ、緑の葉を携えている。
根っこがついているところを見ると、地面から引っこ抜いてきたらしい。
「これは氷雪草だ。力と酒の神サウナーが、秘蔵の酒を細君に隠されて嘆き悲しんだ時、零れ落ちた涙が地に落ち、そこから芽を出したのが始まりと言われている」
酒を隠されただけで泣くなんて、情けない力の神もいたものだ。
人間味があると言えば聞こえはいいが、ありすぎるのも困りものではないだろうか。
「雪深い山の頂に自生しているんだが……」
セツケンは一枚、葉を茎から切り離した。
「この葉を、その酒瓶にいれてみろ。どんな悪酒も一晩で極上の美酒にかわるぞ」
本当なのだろうか。思わずセツケンの言葉を疑ってしまう。そんな自分に気付いて泉は軽く自己嫌悪に陥った。この火石も、元を辿ればただの水だったのだ。たとえセツケンの話が火石を得たいが為の嘘だとしてもいいじゃないか。
「じゃあ、それで」
泉が承諾すると、セツケンは踊りださんばかりに喜んだ。
「恩に着る! これがあればトリートは救われるかもしれん」
泉はぎょっとした。何やらまた、大事にかかわってしまったようだ。火石をタオルに包んで差し出すと泉はそそくさと窓に手をかけた。
「じゃあ、私はこれで。帰り道に気をつけてね」
「ああ、呪師殿も風邪を召されるなよ」
毛皮を着込み、再びイエティに戻った男の満面の笑顔に向かって手を振りながら窓を閉めた。途端にくしゃみが出た。
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