3 ……あたし、それがいいなぁ


 レイコと出会ってから、二週間。お盆の手前、晴れた夕暮れ。


「あんたって、『風』みたいなものなのかな」


 大学ノートに向かいながら呟くと、隣に座っていたレイコが瞬きをした。数則の四方に跳ねる癖毛と違って、彼女のさらさらとした髪は、風にあまり乱れることなく胸に落ちかかっている。


「カズくんも、詩的なことを言うんだねえ」

「そういう意味じゃない」


 弟を宥めるような口調で笑われて、数則は若干機嫌を損ねて膝に肘をついた。

 レイコの身体は、物を通り抜ける、といっていい。体温計を向ければブレザーの中に沈むし、触ろうとしても手が通り抜ける。しかし、レイコは今のように社殿に座っていたり、鳥居にもたれかかったりもする。地面にも潜れない。つまるところ、ものすごく規模の小さい空気のかたまり、雲、あるいは風。そんなものに近いのではないか。少なくとも個体としてそこにいるわけではなさそうだ。彼女と会話が成立しているということは、『音』が空気を振動させて伝わるものである以上、完全に外部への物理的な干渉が不可能、というわけではないと思う。(図書館の関連書籍を調べたところ、テレパシー説もあったのだが、解明されていない理屈を優先するのは好みでなかった。)

 原理はさっぱりわからないが、彼女は気体に近い状態であり、その分子がどういう形か光を上手く屈折させて、その反射で彼女が生前の姿に見えているのかもしれない、……というのが、中学生の知識レベルでなんとか組み上げられた仮説だった。

 とりあえず、厳密である必要はない。必要なのは、数則自身の納得だ。

 もっとも彼女以外に「幽霊」なるものを知らないのだから、結論を出すのはまだ早い。これはあくまで推論だ。神社手前の石段脇にある自動販売機で買った缶ジュースをお供に、書き込みだらけのノートとプリントアウトされた坂多町の地図を眺める。


「ふふ、冷たい……」


 隣では冷たさが気持ちいいらしく、飲めもしないのにレイコは手を缶のそばにぴとりと当てて口許を緩めていた。

 室内気温に長く置かれた「もの」は、熱の移動により、周囲と同じ温度になっていく。

 理科の復習コースで教えられた通り、感情の高ぶりさえなければ、レイコの体温は毎日、外気温とほぼ同じで推移していた。そのためレイコにとって暑いだとか寒いだとか、そういう感覚はどうやら意味がないらしい。羨ましいことだった。

 それでも、ひやりとした感触が好きなのだろう、数則が缶ジュースを買ってくるたびに、レイコは好んで触りたがるのだ。


「カズくんは、炭酸が好きなんだね」

「まあ、どちらかといえば好きだよ」


 何気ない話も、前よりずいぶん増えてきた。笑顔を見る機会も、同じくらいに。彼女は引っ込み思案で怖がりで、話す声も小さかったが、親しくなると本音を垣間見せてくれる。クラスに一人か二人はいそうな、そんな普通の少女だった。


「あたしね、コーヒーが好きだったような気がしてきた」

「苦いだろ」

「甘いのもあるんだよ」


 意外な台詞に、まじまじと見つめると、少しだけ悲しそうにレイコは笑った。膝を抱えて空を仰ぐ。


「カズくんと話してたおかげかな、不思議だね。毎日ね、少しずつだけど、何が好きだったかとか、そういうことを思い出してきた気がするの」

「……そっか」


 それが微笑むようなことなのか、彼には解らなかった。既に伝えているのだ。彼女は数年単位で行方不明なのではないか、と。図書館の地方新聞や家族の共有PCからネット界隈を可能な範囲で漁ってみたが、この一、二年。花朱高校の一年生には死亡者はもとより行方不明者の記録も噂も、なかったからだ。もっとも、中学生が聞き回ってわかることなど限界があるとレイコは慰めてくれたし、数則もそれはそうだと、頷いてはいた。何にせよ、漫画やドラマにあるように、交通事故で眠っていてその生き霊が――という展開は、おそらく望み薄だろう。

 もし彼女が既にこの世のものでないのなら、命を落とした場面について、彼女が記憶を取り戻すのは良いことなのかどうか、レイコ自身がそれをどう感じているのかも解らなかった。漠然とした予感を信じるのならば。思い出さない方が良いし、馬鹿正直に調査状況を報告していていいのかとさえ、思っていた。


「記憶、全部戻らなくても、気持ちが満たされればそれで成仏、みたいなら簡単なのにね」

「そういうケースもあるらしいけどな」


 狛犬の鼻先に止まったオニヤンマをぼんやり眺めて、レイコは呟く。


「……あたし、それがいいなぁ」

「不確実だろ」


 かといって彼女がここに留まり続けるのもやはり、良いことではないのだろう。

 調査の方は手詰まりだが、実験についてはそうでもない。足を動かせばいい。

 レイコの「葉鉢神社から動けない」というのはあくまで自称だ。少なくとも賽銭箱から鳥居までは移動できていたのだし、これまた図書館で調べたところ、古来幽霊というものは恨めしい相手のところへは距離を問題にせず現れたりするものだと書いてある。場所につくとしても、その中心が神社だとは限らない。地図から視線を移し、缶ジュースの周囲に手をかざすレイコの横顔を眺める。


「そうだな。……あんたがどこまで移動できるのか、調べてみるか」


 葉鉢神社が中心点とは限らない。

 可動限界の点を結び、中心点を割り出せば。彼女の遺体を発見することすら、可能かもしれないのだ。


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