ブルー・マウンテンの所為

竹村いすず

1 来ちゃだめって、言ってるのに

 『数則かずのり』と命名したのは父だったという。

 おかげでというべきか、その所為せいでというべきか。

 因果関係のはっきりしない物事にどうにも我慢のいかないたちらしい。興味を持つと相手を気にせず質問攻めにしてしまう癖がある。


 ◇


 ひぐらしが控えめな七月末の夕べ。

 結城数則ゆうきかずのりは緩やかな坂道を登りながら、行く手にひっそりと影を落とす葉鉢はばち神社を目指していた。Tシャツの袖を風があおる。夏休みも前半、夕暮れまではまだ遠い。

 街中の住宅街、誰もが立ち寄ることのない小さな社を通りたいのにはわけがある。


 ひとつ。

 中学三年生の夏休みの間だけ、通うことになった夏期講習の塾から帰るには、境内の横手を抜ければ近道であるということ。

 ……もうひとつは、あまり人には言いにくい。

 数則の「実験台」が、毎日そこで待っているのだ。


 さして長くもない石段を上りきり鳥居にもたれ、横目で振り返れば絶景だ。ざあと、丈の高い木々が夕風に揺れた。鞄を背負い直して手水舎の脇から境内へ向かう。

 本殿の賽銭箱の前に、ブレザーを着た薄い少女が腰掛けている。

 薄い、といった。文字通りの意味だ。透けているというではないが、ただ輪郭がぼやけている。儚い靴の先も、肩甲骨よりも少し長い髪もさらさらと、西日のつくる梢の葉陰に溶けていた。


「よす」


 目が合ったので挨拶代わりに手を上げると、困ったように杏色の唇が綻んだ。


「来ちゃだめって、言ってるのに」


 眉を八の字にして、数則の「実験体」がはにかんでいる。外見はどこにでもいる十代半ばの少女だ。それでいてどこか世離れした背筋の寒さを見る者に与えるのは、ぼやけた輪郭に加え、影が周囲よりも薄いせいだろう。いまいち法則性が理解できないが、彼女を形作る分子だか何かは、光の反射が普通の人間のそれとは違うのかもしれない、というのが暫定的な結論だ。

――まあ、そのあたりはおいおいだ。

 数則は構わず歩いて賽銭箱の脇へ行く。参考書類でズシリと重い荷物を置いて、中身を漁るために少女の脇へ腰掛けた。


「今日も実験するからな」

「カズくんも好きだねえ」

「そうじゃなきゃ来ない。チテキコーキシンってやつだな」


 一本指を立てて言う数則に少女が微笑う。


「近道なんでしょ?」

「ま、それもある」


 ショルダーバッグの脇ポケットからようやく見つけた細長いペンケースを取り出して蓋を開け、白いプラスチックの棒を摘まむ。日にかざすと、表面の細かな傷が目立った。


「……体温計?」


 遠慮がちに覗き込んだ彼女の波打つ髪が、肘に触れても感触はない。なんとなく、違う空気に手を突っ込んだような微かな違和感があるのみだ。横目にちらと見てから、別のポケットから錆びた鎖も取りだした。


「こう、瞬間で測れるいいのが良かったんだけどな。なかった」


 無感動に呟いて体温計のスイッチボタンを押し込み、片手には懐中時計に似た小型の温度計を持つ。


「というわけだ。体温、測るぞ」

「え? う、うん」


 銀色に光る先端を、少女に向けて突っ込んだ。胸の格子柄ネクタイに鈍色の先端が触れ、音もなしにつぷりと沈む。


「……ぇえ…」


 少女は胸元をおずおずと見下ろしてから、口を引き結んだ。耳が赤く、目元が泳いでいる。


「あのね、カズくん……なんかこれ、ちょっと、恥ずか」

「あんたのこの制服な、花朱はなあけ高校の冬服みたいだぞ」


 遮った数則に恥じらいをふと飲み込んで、少女が目を見開いた。

 数則にしてみれば、驚かれることでもない。元々、そういう約束だ。趣味の実験に付き合わせる代わり、動けない彼女に代わって記憶を取り戻す手伝いをする。

 塾の友人、光希には高校生の姉がいる。特徴を聞いてネットで検索したら正体がわかった。藍色のブレザーに水と青の柄ネクタイ。県内有数の進学校でもある花朱高校の冬服だった。ついでに言えば、


「校章は一年生のものらしい。まぁこれは、あんたが今年の入学生だとすれば、だけど」

「高校生かぁ」


 遠い目をする彼女の左頬は輪郭がおそろしく淡い。白い肌のふちに、社殿に照り返す茜色が滲む。


「……だったら、カズくんの方が年下だ」


 観察していると、少女はふわりと微笑んだ。数則は、温い夕風にぼさぼさの髪を吹かせて、首の裏を掻いた。体温計の数字に目を落とす。


「ほんとに、探してくれてるんだ……あたしのこと」

「まだそこまでしかわかってない。何か思い出したか」

「ううん。でも、わかったことがあるのは嬉しい」

「気にすんな」


 電子音に体温計をすうと抜いて、出て来た数字を大学ノートに書き留める。「E」マークも覚悟していたのだが、体温計は有効だった。


「やっぱり、外気温とだいたい同じだな。幽霊って言っても、別に冷たかったりしないのか」

「カズくんはどこの高校に行くの? 志望校決めた?」

「決めてない」

「……そっか」


 ぼさぼさ頭をノートに埋めたままなのは、痛いところを突かれたからだった。

 夏になっても志望校が決まらないのは、だいぶまずい。両親の希望、体調の悪い祖母の望み、自身の成績と、興味のある様々のこと。数則なりに考えてはみるが、どうにもしっくりこないのだ。敢えて希望をいうのであれば、『合格できる高校』に行きたいのではなく、『行きたい高校』に行きたい。ただし『行きたい高校』が特にない。

 そんなに難しく考えることはないよ、制服の好みとかで決めればいいんだよと同じく塾の友人である理太は言う。男に制服の好みがあるのかと言いたかったが、理太は異性に人気があるから、女子制服のことかもしれない。

 黙り込んだのを気遣ってでもいるのか、らしくない明るさで少女がぽんと両手を合わせた。


「じゃあ、カズくんもあたしと同じとこにしようよ。一緒の学校だったら嬉しいなぁ」

「花朱? 無理言うな、偏差値63とかあるんだぞ」


 眉根を僅かに寄せて、額の邪魔な髪を無意識にかきやる。入院中の祖母を思い出した。齢八十になる祖母は、まさに目の前の彼女と同じ、百年の伝統をもつ旧女学校・花朱高校の出身だ。姉が私立に進んだ今、数則に期待をかけている。が、無理難題だとさすがの父母も取り合わない。今の数則とはそれほど歴然とした点差があるのだ。


「頑張ってみればいいのに……」

「無理だ。レイコは優秀なんだな」

「そ、そんなことないよ」


 真っ赤になると僅かに手元の温度計に動きがあった。針が触れ、約0.1度の気温上昇。感情に左右されるのか、と数則の目元が好奇に光る。謎は尽きないが、こうして日に一時間ほど、日暮れ前に神社で彼女と話すのは、心穏やかで好ましかった。


――「おそらく」と、いう注釈つきにはなるものの。

 彼女は幽霊、とでもいうべきものらしい。それも、記憶喪失で、本人いわく葉鉢神社から動けない。年齢どころか、なぜここにいるのか、生きているのか死んでいるのか、名前や育った場所すら覚えていないのだという。

 彼女を「レイコ」と名付けたのは数則だ。ゆうれいだからレイコ。ユウコでは、数則の苗字である結城と響きが似ていて痒かった。だからレイコだ。なんの捻りもない。


 彼女と会ったのは、夏期講習が始まってから一週間後。

 夕暮れ時の帰り道。常ならぬ事態に試みた、やや無謀な近道のせいだった。


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