第5話「恋敵」

 公園の多目的トイレの小さな窓からは、遥か彼方の夕焼けが燃えているのが見えていた。


 外では十七時を知らせる「新世界より」の第二楽章がオルゴール調で流れていた。それを合図に、子供たちが「帰ろう、帰ろう」と言い合っているのが聞こえる。


 ざわざわと鳥たちが群れて飛び交うのも聞こえ、人も生き物もそれぞれの暮らしを営んでいるのだと実感した。


 俺は改めて目の前の男に向き合い、何発目かわからない拳を叩きつけた。


 硬い顔面を殴ると、ぐにゃりとした嫌な感触だけが残る。それがあまりにも不快で、俺は何度も相手を殴打した。


 男は力なく声を漏らし、胃液ばかりの臭い嘔吐をする。


 俺の拳についた血は、一部がすでに乾き始めていた。もう一度相手の頬を殴ると新たな湿った血がまとわりつく。


 殴った拍子に拳が相手の歯に当たったらしく、指の付け根が切れた。


 この男に対して、何もかも腹が立つ。


 俺は左手で髪の毛を掴み、顔面から床に叩きつけた。


「お前が……お前がののたんを騙したから」


 俺は恨みの全てをぶつけた。


 愛するののたんを騙してたぶらかしたこの男に、わからせてやらねばならないのだ。


「ぼくは真面目に……真面目にののかと交際を……」


「黙れ! 黙れ!」


 聞きたくない言葉を発したのが気に食わない。


 左手で髪を掴んだまま、顔面に膝蹴りを喰らわせた。


 ごふ、と血を吐く。


 折れた前歯がねっとりとした粘液と共に床に流れた。


「俺は、ポチっと☆ガールズがデビューした時からののたんを応援していたんだ」


 あれはもう七年も前。


 就活が上手くいかなくて人生を諦めかけていた時に友人に連れていかれた地下劇場。


 ポチっと☆ガールズの初ステージだった。


 そこで、歌も踊りもたどたどしいののたんに出会った。


 決して容姿が端麗でもない。特別スタイルが良いわけでもない。


 だけど、誰よりも頑張っている彼女が一番輝いていた。


 俺はすぐにファンクラブに入ったし、CDやグッズが発売されればすぐに買った。


 彼女を応援する資金が必要だった俺は、もう一度就活に集中することができた。


 なんとか採用をもらった俺は、ポチっと☆ガールズの握手会でののたんに報告した。


――よく頑張りましたね、お仕事がんばってね。


 ののたんは俺の目を見て、優しく微笑みながらそう言ってくれた。


 あの時の彼女の手が、どれほど温かくて優しさに溢れていたものか。


 純粋で優しさに満ちていた彼女の、その優しさにこいつは付け込んだに違いない。


 彼女の仇は、俺が討つ。


「おい、お前。どうやってののたんを騙したんだ」


「騙したわけじゃない……」


「俳優だからって、いい気になってたんだろ」


「違う、そうじゃない……こんなことして、ののかが悲しむと思わないのか」


「うるせえ!」


 自分でも何が何だかわからなかった。


 とにかく、気が済まなかった。


 だから俺は、こいつを気が済むまで殴ることしかできなかった。


 俳優の溝口恭介が公園でジョギング中に何者かに襲われたとなれば、大ニュースになるだろうか。


 俺は、きっと警察に追われる。


 だけど、それでののたんを救えるなら、それでいい。


 ののたんと溝口恭介の熱愛が発覚した直後だから、暴徒化したファンによるものだと思われる可能性だってある。


 そんな一般のファンと俺を一緒にしないでほしい。


 俺はポチっと☆ガールズが発足したばかりの頃からずっと応援してきた。


 握手会やファンクラブの交流イベントのたびにののたんは俺を覚えていてくれた。


 俺の就職を彼女が喜んでくれたし、俺の仕事を応援してくれた。


 俺が抱えた不安を打ち明けると、彼女は励ましてくれた。


 だから、俺は、彼女を救い出す。


 連打の末、仕上げの一撃をかますと溝口の目線が定まらなくなった。ぶつぶつと何かを唱えているので、意識はまだあるらしい。


 このまま溝口を捨てて去ろうと思ったところで、誰かが扉をノックする。


 俺は拳を拭い、溝口を壁に寄りかからせてから扉を開けた。


 扉の向こうには使用待ちの列ができており、先頭の男がゆっくりと室内へ入って来た。


 入れ替わるように、俺は外に出る。


 先ほどまでの赤々とした夕日はもうなくて、代わりに深い闇が頭上を覆っていた。吹き抜ける風は冷たく、秋の深まりを感じざるを得ない。


 溝口にとって、長い夜は始まったばかりのようだ。


 扉が閉まった後、中からは「お前か、ののたんをたぶらかした男は」という声が聞こえていた。

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