復讐者

もり ひろ

第1話「湖底より」

 地方のビジネスホテルらしさに溢れた宿だった。


 チェックインを済ませてから乗り込んだエレベーターは、じっとりと湿っぽい空気を詰め込んで扉を閉じる。ほんの三つ上の階に上がるだけなのに、唸り声を挙げる。乱暴に吊り上げられると、内部の空気が揺れたように感じた。


 汗ばんだうなじに、かすかな風を感じたのだ。


 俺は階の表示ランプをじっと睨んだ。数字のランプが入れ替わるように点いては消えていく。


 背後の鏡は、乗った瞬間から見ていない。歪んでおり、水面のように波打っていた。見ていると酔ってしまいそうだった。


 四階のランプが灯り、エレベーターは急ブレーキをかけ、音を立てながら扉が開いた。

 手にしたカギの番号を見て、壁の案内を目で辿る。エレベーターを降りて、まっすぐ行った突き当りらしい。


 俺はエレベーターを背に歩き始める。エレベーター同様、廊下もじっとりと湿気を帯びており、歩いているだけなのに汗が滲む。


 そうして、突き当りの部屋に入り込んだ時、エレベーターの扉が閉じるのが見えた。


   ◇


 室内は強烈に冷房が効いていた。天井近くの壁に開いた穴から、冷気が容赦なく吐き出される。ちょっと寒すぎると思い、設定温度を上げたら急に温くて生臭い空気を噴き出した。


 余計に汗をかくことになったので冷房には再び冷たい空気を吐き出させ、シャワーを浴びようと思う。


 ユニットバスの鏡も歪んでいた。水面に水滴を落としたように波立った鏡を見ていると、そこへ吸い込まれるような錯覚に陥る。俺は早く頭から熱いシャワーを浴びて、全身を洗い流したかった。


 裸になってユニットバスのカーテンを閉じると、嫌に窮屈に感じた。狭くて、息苦しさを覚える。換気扇が吸い込む空気によって、シャワーカーテンはひらりとこちらへ迫って来るので、余計に居心地が悪く思えた。


 シャワーからはいつまでたってもお湯が出ない。ぬるま湯が垂れるだけで、俺をいらいらさせた。どれだけ熱く設定しようとも、水はぬるいままだった。


 腹が立って、俺はシャワーヘッドを壁に叩きつけた。鈍い音を響かせたのはシャワーヘッドではなく、俺の手だった。


 それがまた俺の気に障った。シャワーヘッドを力任せに叩きつけた。どこへ飛ぶかもわからず飛ばしたそれは、鏡にぶつかり表面のガラスを粉々に撒き散らす。

 急に面倒になって気持ちが萎んでいった。


 冷静になり、タオルを使ってガラス片を端に追いやった。踏んでしまわぬように、バスルームを出るための道を確保して、シャワーから出た。


   ◇


 ひどく疲れていた。


 肉体が疲れていたのはもちろんのこと、頭というかこころが疲れていた。気持ちがすり減っているのがわかっていた。


 早く寝てしまいたいのに、ベッドで寝がえりを打つばかりだった。


 どうしても、バスルームから聞こえる水滴の音が耳障りだった。


 シャワーを叩きつけた際に、何か不具合を生じさせてしまったらしく、今になって後悔した。鏡のこともフロントに伝えなければならないと思うと、気持ちがさらに落ち込んでいく。


 幾時間も寝返りを打ち続け、一滴、一滴と墜ちる水滴を数えているうちに意識が遠のいた。


 ようやく眠りに墜ちたのも束の間で、頬に落ちて来たぬるい水滴に起こされた。


 浮遊していた意識が再び重さを持った時、ヘドロのような臭いが鼻を刺激した。田んぼの水を抜いた時のような濃い生臭さにえずいた。


 身体がぐっしょりと濡れている。濡れた身体を、冷房の風が容赦なく冷やす。熱が奪われていく。身体の芯まで凍えそうになる。


 あまりの寒さに起き上がろうとしたところ、自分の身体が動かないことに気が付いた。


 ずっしりとした重さが、俺の身体にのしかかった。どれだけ身体を動かそうとしても、指一本動かせず、その重さを振り払うことはできなかった。


 そして、俺の身体を拘束している何かが、俺の首に手をかけた。


 硬くて、ひどく冷たい。


 両側から包み込むように触れたそれが人間の手であることは容易にわかった。


 首の側部をそれぞれ撫でていた両手が俺の喉元へ這って、二つが重なった。


 急に、両手に力が入った。俺の腹部にのしかかっていた重さの全てが、俺の喉元に集まった。


 咄嗟のことに俺は大きく息を吸い込もうとしたが、叶わなかった。細く絞られた空気がわずかに届くだけで、引き笑いのような嫌な音が耳障りだった。


 ようやく目を開くと、女と目が合った。黒い髪から水滴を垂らし、衣服は濡れて身体に張り付いている。


 彼女は、ここに絶対にいるはずのない女だった。


 俺の目を見下ろした彼女の手に、一層の力がこもった。頭の血流が止まる。強烈な頭痛に襲われる。目玉が飛び出しそうだと感じる。苦しさで、胃液がせり上がって食道が焼けるように痛い。せり上がった胃液を、飲み戻すことも、吐き出すこともできない苦しさ。喉が嫌な音を立てた。


 俺は、嫌でも死を悟るほかなかった。


 そのまま、俺の意識は消え失せた。


   ◇


 翌朝、俺は目を覚ました。


 嫌な夢だった。てっきり、俺は本当に彼女に殺されたのかと思った。寝間着は搾れるのではないかというほどに水気を含んでいた。俺の中にある意識や、俺の手に残った感触が嫌な夢を見させたらしい。


 なのだけれど、枕元のシーツにびっしりとこびりついた濡れた黒髪が夢ではないのだと語りかけてくる。


 チェックアウトを済ませると、俺はそのまま警察所へ出頭した。恋人の首を絞めて殺した後、錘を付けてダム湖に沈めたと告白した。


 俺の言った通りに警察がダム湖を調べると、俺が恋人を沈めた時に使ったコンクリートブロックやロープが湖底から出てきたという。


 しかし、彼女の遺体はまだ見つかっていない。

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