第2話 聡子
智が骨折をしたと聞いたのは、大学四年、夏の終わりのことだった。
そのころのあたしは完全に全ての目標を見失っていた。
何をしていいのか、何をしたいのか全くわからず、ただ怠惰に卒業を待つだけの状態だった。
いやそもそも目標なんて初めからなかった。
あると思い込んで、四年間ピアノに打ち込んでいたけど、思えば四年間自分を騙していたようなものだ。
音大に入るまではその目標はあたしにとって揺るぎのないものだった。
でもその目標が単なる独りよがりな夢だと分かったのは、音大に入って半年くらいたった頃だった。
あとは四年間自分を騙し続け、合同卒業リサイタルが終わって、目が覚めたような気持ちで、学食でカレーを食べている時だった。
その時のあたしは気分が滅入っていて、とても誰かと話をする気にもなれず、うつむいてカレーを食べていた。
誰かが前に座ったのはわかったけれど、誰とも話したくなかったので、気づかないふりをして黙々とカレーを食べていた。
「オイ、おーい、無視するな」
その声にあたしは仕方なく顔を上げた。
そこには聡子が今まさに鯖味噌定食に箸をつけようとしているときだった。
「ああ」と我ながら気のない返事をした。
「なんだそれほど落ち込んでいない?」聡子は鯖の切身を、これでもかというくらいの大きさで口に入れながら言った。
「よくこの状態を見て、そんな事が言えるね」
「そお、なんか紗羅は落ち込んでいると言うより、不機嫌そうに見えるけど」
今度はご飯のかたまりを口の入れた。
聡子は聡子なりに元気付けようとしているんだとは思った。
そういう配慮は出来る娘だ。
仕方なくあたしは受け答えをする。
「ああ、そう言えば聡子、就職決まったんだって、よかったね」
「ありがとう」と聡子は更に大きく鯖を口に入れた。
「紗羅は、飯田に帰るんだっけ」と即座に答えたことにより、あたしは口に入れた鯖はどこに行ったんだろうと思った。
「うん、お父さん倒れたから」
「でも大事には至らなかったんでしょ」
「うん、でも、もう無理は、効かないらしいから」
「そうなんだ、でも紗羅はいい線いっていたと思ったけれど」これだけあたしと話しながらなのに、聡子の鯖味噌定食はなくなりかけている。
まるで魔法のようだ。
聡子は配慮は出来るが、遠慮がない。
まだ学校に入りたての時、初めて聡子と話をした時も遠慮というものがなかった。
「結構顔黒いよね日サロ」とあたしは、この学食で尋ねられた。
失礼な物言いだが、思ったほど腹は立たなかった。
もっと酷いことも言われてきた。
日サロというくらいだから聡子も悪気ない。
と後になって分かるのだが。
「地黒なのよ」とあたしは答えた
「あっごめーん」
と、いたって軽く言ってくる。
本当に悪気は無いのだ。
あたしは、自分の名前が嫌いだった。
せめてもの救いは、サラという名前が漢字であること、これがサラとカタカナだったら、余計に日本人と思われない。
この間もバイト先のイタリア料理屋で、お客さんから、「日本人?」と聞かれた。
最近はもう気にならなくなったが、そういうことはよく言われた。
そのたびに
「日本人ですよ」と当たり前のように答える。
完璧なネイテブの発音なので、大抵は失礼なことを聞いたかなと口ごもる。
仕方がないのでそういう時は、笑顔で、「ハーフなんです」と答える。
すると口ごもった雰囲気が急に和む。
最近確立した営業スタイルだった。
あたしの国籍は日本だ。
お父さんは日本人だが、お母さんはフィリピン人でハーフなのだ。
母親似と言うことなのか、少し顔が黒く、彫りが深い。
生まれは信州飯田。
普通はこういう風貌は田舎では目立つが、どういうわけだか外国人が多い土地柄で、あたしの顔もさほどに違和感がある感じでも無かった。
なぜ外国人が多いのかといえば、これはあたしの勝手な想像なんだけれど、田舎なので、車がないと生きていけない、車は一家に1台ではなく、1人一台と言う土地柄のせいか、新車ディーラーもそうだけれど中古車屋さんが多く、割とそこを経営しているのが外国の人だったりする。
また大企業の下請けの部品メーカーなんかも多く、そこで働いている外国の人も多い。
大学4年になって、さて進路はどうする、となった時、音楽で生きてゆくという選択肢は消えていたから、あたしは本気で就活しなければならなかったのに、あたしは本気になれなかった。
音楽で挫折したから、就職を本気で考えなければならないのに、音楽の挫折で就職活動に身が入らないとすれば、本末転倒と言わざる追えないんだけれど、そんな時、父と電話で話しているときに、ボソッとそっちに帰ろうかな、なんて口走った。
口走ってから、怒られるかなと思ったら、やたら乗り気になっしまい。
あれよあれよという間に飯田に帰ることになってしまった。
すっかり鯖味噌定食を食べ終わり、聡子はそのバキュームカーのようなかきこみ具合が嘘のように、丁寧にナプキンで口を拭くと思い出したように顔を上げてあたしの顔を見た。
「あっそうだ。智、骨折したらしいよ」どうやらそのことを言う事が目的だった、というのがわかったのはもう少しあとのことだった。
「えっ。そうなの、どこを」
「あっ、足だから。サックス吹くには問題ないらしいよ」
「ああ、そうなんだ」とあたしはあからさまに安心したような表情をした。
当然その表情を聡子が見逃すはずもなく。
「行ってきたら」と言った。
「いや、あたしは、もう関係ないし」と言ってあたしはソッポを向いた。
それが強がりだと言うことは聡子にはお見通しで、でも聡子の凄いところはその辺のところを追求したりはしない。
ただ聡子は微笑みながらあたしを見つめていた。
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