情報に埋もれた心

 それは本当に突然のことだった。

「なんだ!」

 心地よい眠りを妨げる騒音が部屋に鳴り響く。いや、これは目覚まし時計の音じゃない。俺は目覚まし時計や携帯のアラームを普段は利用しない。それじゃあこの騒音の正体は何か。

 俺はベッドから少し離れた机の上に置かれている携帯を睨みつけた。しばらく待っても鳴り止まない。残念ながらメールじゃないらしい、誰かが電話をかけてきているようだ。

 しかしいったいどこの誰だ。こんな朝早くにこの俺に電話をしてくるような暇なやつは。空閑だったら次に会ったときぶん殴ってやる。

 しぶしぶベッドから身を乗り出し携帯に手を伸ばすが、あとほんの1、2センチが届かない。ゆっくりと体を前へ前へとずらしていく。やっと届いたと思ったところでバランスを崩し、咄嗟に頭を守ろうと丸まったのはいいが勢いに乗って一回転して背中から落ちた。腰辺りが机に激突しベッドとの間に挟まるような状態に。しかも、そこへ今の衝撃で机から落下した携帯が頭にヒット。もう踏んだり蹴ったりだった。

「痛っ」

 痛みに耐えながら携帯を拾い上げ画面を確認した。そこに表示されていたのはもちろん言うべきか、例の女の名だった。

「はぁ……なんだよ、こんな早朝に」

 しばらく待ってみたが、どうも切れそうになかったので仕方なく応答した。

「……はい」

「遅い!どんだけ待たせんのよ!こういうのはっ……」

 なんて大声だ。まるで目の前でクラッカーでも鳴らされたかのような衝撃を耳に受け、キーンと耳鳴りが鳴っている。

 驚いたのと、とにかく耳を守ろうという防衛本能が働き俺は後先考えずに電話を切ってしまった。するとすぐにまた河守からかかってきた。きっと相当に怒っているだろう。

 俺は携帯を極力遠ざけ右二の腕と左手のひらで耳を塞ぎつつ再び電話に出た。

「切ったわね!!」

 それから俺は早朝に電話をかけてきた上、馬鹿みたいに大声の非常識な奴に礼儀云々を説教された。

 礼儀知らずはどっちだよと腹の中では思いつつも、さっさと連絡してきた訳を訊きたかったので適当に何度か謝りその場をやり過ごした。

「それで、ご用はなんでしょうか?」

「大したことないわよ。ただ神尾との会話は逐一私に報告しなさいってだけ。一言一句全てと言いたいところだけど、あんたじゃ無理よね……間違いなく。とにかくそういう訳だから。あ、報告はメールでね。それじゃ」

 内容は大したことないという言葉通り本当にそれだけだった。しかも言うだけ言って河守は一方的に電話を切り、反論も返事もするスキがなかった。

 しかし、それだけならメールや学校で会ったときにでも伝えてくれればいいものを。朝の静かなひとときをよくも。

「はあ……」

 思い立ったが即行動というわけか。周りのことはお構いなし……いや、構ってられない。それだけあいつにとってこの話は重要なんだろうな。

「だとしてもなあ」

 俺はブルーな気持ちで床から起き上がった。時計を見ればまだ4時、窓の外はまだまだ暗い。このまま動かないでいればなんの音もしない時間だ。

 本当になんて時間に電話してきているんだ。まだ耳鳴りが鳴っているし、ぶつけた頭も痛い。一日の始まりだぞ、なんて不運な。




 今日はまたどうしたものか、雨でも振りそうな空模様だった。珍しく太陽が雲の向こうに隠れている。そのお陰で晴れの日よりはずっと気温は低く過ごしやすい。それでも汗をかかない訳では無かったが。

 今日は通学路であの小さな太陽は見かけなかった。先週のことを考えれば珍しいことだ。あいつを見かけたのは5日間のうち4日という高確率なのだから。

 俺は空を見上げ思った。ありはしないと頭では否定しつつも、まさか連動しているのではないか、と。

 学校の門が見えてきた頃、突然に雨が振り始めた。まさにバケツをひっくり返したような激しい雨だった。

「あー!やっぱり今日はついてない!」

 俺は打ち付ける雨の音の中に微かに人の声が混じっているのに気がついた。それは後ろから聞こえてくる。振り向こうとしたがそれよりも早く俺を追い越して行った。

「遅刻するー!」

 黒髪の女子生徒がそう叫びながら恐ろしい速さで追い抜いて行った。こんな早朝で遅刻だと言うということは部活でもやっているんだろう。

 俺はその声にどこか聞き覚えがあった気がしたがどうも誰とも一致しない。似た声の別人だっただけなのか。

 駐輪場に自転車を停め昇降口まで走った。傘をさすべきだろうが既に濡れているのと面倒なのとで、そうはしなかった。

 昇降口へ入るとさっきの黒髪の女子生徒ではなく、男子生徒が二年生用下駄箱の先に立っていた。こちらに気づいたその男子生徒はわざとらしい笑顔を浮かべて手を振ってきた。

「やあ!おはよう榊君!」

 これは呪いか、それとも……。

「何の用だよ」

「まあまあ、そう嫌な顔しないでくれよ」

 神尾依都。河守からこいつについて探るよう言いつけられている。ひとまずのところ神尾が花柳を気にする理由を。さて、直接訊いて素直に答えてくれるだろうか。

「あんたに訊きたいことがある」

「おや、何かな?」

「どうして花柳を気にかけるんだ?」

 思うところはあるものの、俺なんかに手段は思いつきやしないのだ。手を尽くすのもいいが……。

「……まあ、そうだよね」

 笑顔は崩さないが目つきが変わった。

「どう切り出そうか迷っていたんだけど、君から訊いてくれるなんて手間が省けたよ」

「それで、どうなんだ?」

「簡単さ。ボクも彼女の現状をどうにかしたいと思う人間の一人ってことだよ」

 神尾はオカルト研究部もとい情報室の一員として入部当初から生徒の情報を集めてきたのだという。

 2年の頃、入学してきた新入生を調べたとき花柳を初めて知った。そのときは、ただのおとなしくて弱気な女子生徒ぐらいにしか思っていなかったらしい。

「調べたことも、外見情報とかどんな部活に入ったかとか、それくらいだったね」

 花柳は当時、友達もそこそこいるし部員との仲も悪くない。クラスメイトにも恵まれ、常に明るい教室にはイジメなんて存在しなかった。特に大きな問題はなく順調な学校生活を送っていた。

 しかし、ある夏の日に彼女の所属する演劇部で事件が起きた。

「詳しいことはボクから言うのは控えるけど、その結果として部員たちは次々に退部、最終的に演劇部は廃部となってしまったんだ」

「その事件の原因って……」

「彼女だけのせいでは無いにしても、そうなった理由の一つではあるね」

 彼女はその事件で多くのものを失った。信頼、居場所、立場、そして親友。失うだけで済めばまだ良かったと神尾は言った。

「榊君も気づいてると思うけど、彼女はイジメを受けている」

 それは罵倒されたり暴力を振るわれたりするような分かりやすいものじゃなく、無視されるというのだった。

 誰も彼女を見ていない。見ようとしない。それは元演劇部員だけにとどまらず、事情を知らないクラスメイトたちも彼女の声に耳を貸さない。話しかけない。

 どんな舞台に上がってもスポットライトは花柳を照らさなくなった。明後日の方向を向いて彼女の足元はもうずっと真っ暗だ。

「どうして無関係な人からも?」

「元演劇部員の人たちがそうしてるのさ。方法は様々、悪い噂を流したり彼女と仲良くしようとする人をイジメたりね」

「そんな……」

「花柳さんがあの日から今日まで、まともに話をしたのは教師や家族を除けば君くらいなものなんだよ」

 無視される。それは別に腕にアザができたり膝を擦りむいたり頭にたんこぶができたりする訳じゃない。でも涙が出てくる。身体は痛くなくても心は痛いんだ。

 そんなだったらまだ殴られたり文句言われたりする方が俺はいい。だって、それならやり返せるから。不格好でも会話ができるってことだから。でも無視は、それをやられたら何もできなくなるから、俺は無視が嫌いだ。

「榊君、花柳さんのことを頼んだよ。この問題はボクには難しすぎるんだ」

「え?」

「ボクは君ならどうにかできる気がするんだよ。何か困った事があったら言ってくれ。喜んで力を貸すよ!」

「はぁ……?」

 神尾は連絡先を記した紙切れを俺に渡した。

「気をつけて、君はまだ彼女達に見つかっていないだけなんだ」

 彼女達というのはおそらく元演劇部員だろう。気をつけてたってどうすればいいんだか。ただ、例え見つかって俺がイジメられるようなことがあったとしても……。

「それじゃ!」

 神尾はその場を後にした。

 未だにハッキリとした理由は自分の中に無い。でも、やりたいことはハッキリしてる。無理かもしれないし、失敗してもっと悪い方向に転がるかもしれない。だからってここで投げ出したりはしない。

 あまり自信はないし、いいアイデアだってあるわけじゃない。だけどきっと、失敗しても後悔はしない。

「ん?」

 何か、何かすごく引っ掛かるな……。




 俺は河守にさっきのことをメールで報告していた。そしてそのついでに神尾の電話番号とメールアドレスを登録した。

 携帯をポケットにしまおうとしたときそれが震えた。画面には新着メール1件と表示されていた。送り主はもちろん河守だった。

「はやっ」

 誰もいない教室に俺の独り言が響く。思ったより大きな声が出たので一応、本当に誰もいないか確認した。間違いなく教室には俺だけだ。

 河守からのメールには、逃げられたわねと書かれていた。

『どういう意味だ?』

『あいつはあんたに質問の答えを言ってないのよ。いい?あたしが知りたいのはあいつが花柳さんを気にする理由、気持ちなの。悪いけど、あの子の背景なんて正直どうでもいいわ』

 言われてみれば確かに、結局神尾は何も……。花柳の現状を変えたいなんて答えじゃない。そこにあいつの感情はないんだ。

 それっぽい言い回しで俺は騙されたのか。

『俺はどうすればいい?』

『やることは同じよ。あの子をああも気にする理由を探って。他にあいつは何か言ってなかった?あいつの気持ちか考えがすこしでも出たような言葉。なんでもいいわ』

 そう言われても、何かあっただろうか?神尾の言葉の中にちょっとでもあいつ自身が分かるもの……。

 ひとつ、あるとすればたぶんこれだ。しかし感情とかよりはそうした理由、そうせざるを得ない何かがその言葉に隠れてる気がするだけだ。

『花柳の問題のことを難しすぎると言ってた。どういう意味なのか俺には分からないが。他には思いつかないな、何かヒントになりそうか?』

 返信がさっきよりも遅かった。きっと何か考えてるんだろう。

『それ、案外いい質問かもしれないわね。難しすぎるとはどういう意味か……うん。ぱっと思いつく理由は3つね。まず単純に問題を解決する手段が思いつかないから。次に彼女達の存在ね。要はイジメられるのを恐れてるってこと。最後に表舞台に名を残したくないから』

 最後以外の理由は、まあ理解はできる。でもあいつがそうするだろうかと考えると違う気がした。もし本当にただの傍観者になる気だったら俺に声をかけてなかっただろうからだ。

『あたし的に一番可能性があるのは最後のやつね。あいつは目立つのを極端に嫌う傾向にあるから。いつもみんなから一歩引いたところを歩いてる、そんな奴なのよ。神尾は』

『それで、俺は次にどうしたらいい?』

『決まってるでしょ!あいつがこの問題を難しすぎるって言った理由をあんたなりに探りなさい!』

『なあ、シンプルに俺から神尾がおまえを避ける理由を訊くんじゃダメなのか?』

『あんたバカ?そんなことしたってあいつは正直に話さないわよ。今回ので分かったでしょ!』

 酷い言いようだが確かにそうだ。さっきみたいな落ちになるのはちょっと考えれば分かることだ。けど、他に方法ったって俺には思いつかないが。

『具体的にはどうすればいい?』

『そこは自分で考えてどうにかしなさい』

 河守のやつ、なんて投げやりな。

『天才同士ならより賢い方が勝つわ。でも、天才とバカなら勝敗は分からないでしょ?』

 何となくそれは理解できる。より賢いやつは相手の動きを予想してうまく立ち回るが、次に何を仕出かすか分からないような危険人物には手が出せないってことだ。

 確かに俺はあの二人と比べたらダメかもしれないが、そうハッキリとおまえはバカだと言われると傷つく。

「はぁ……」

「ほう、学校でメールとはあまり感心しないな」

「へ?」

 声のした後ろへ振り返ると俺の肩越しに携帯を覗き込んでいた標と頭をぶつけた。ゴンッという低い音と共に強い衝撃と痛みを額に感じた。

「いつつ……榊、急に振り向くな」

「おまえこそ無言で人のメール覗き見てんなよ」

 互いに額を手で抑え痛みに耐えていた。

「ところで、おまえにしては来るの早くないか?」

「あ、ああ、今日は日直だからな」

 学級日誌を見せてそう言った。日直は普段より早めに学校へ来て担任から日誌を受け取る決まりになっている。

 正直、なぜ早めに来るよう言われるかは俺には分からない。来たって別に何かする訳ではないのに。

「メールの相手、前に話していた新入部員か?」

「え?見えてなかったのか?」

「何をしてるか見ていただけだからな。内容までは」

「そうか……。いや、違う奴だよ」

 そう言えば新入部員か。花柳のこと部に誘おうと思ったが控えた方が良いかもしれないな。元演劇部員共が月城や標を標的にしたら悪いし、それにもし自分が原因だと知ったら花柳も嫌な思いをするだろうし。

「榊、どうしたんだ?」

「なんで?」

「君に似合わず眉間にシワが寄っていたぞ。何か悩み事か?」

「俺、そんな顔してたか?」

 標に相談すればいい案が出るかもしれないが河守の件もあるし、事をあまり大きくしたくない気持ちもある。今のところはひとりで頑張ってみるか。

「まあちょっと色々あるが、とりあえずは大丈夫だ」

「そうか、無理するなよ。何かあったらなんでも言ってくれ。私にできることならなんでも協力しよう」

「おう、ありがとう」

 さて、まず先に片付けるべきは花柳だな。友達を欲しがるあいつにどうしてやるべきか。部への勧誘にしても人を紹介するにしても、彼女達の動きが分からなくっちゃなぁ。

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