第6話 ほんの六秒では足りない
エルはその日の二時頃にやってきた。丸十一日ぶりの懐かしい顔が戸をくぐってきた瞬間、アンリは飛び跳ねるように立ち上がって彼を出迎えた。
「やあ、アンリ。相変わらず鐘の音が美しいな」
「今日もよい響きだったね、エル」
何もせずに並ぶと、アンリの頭はエルの胸の真ん中辺りにくる。だからエルは少しかがんで、アンリは目一杯背伸びをして、それでようやく目線を合わせるのだ。
「すっごい久しぶりな感じがする」
「俺も。予定より早く帰ってきたのにな」
そう言ってアンリを見つめるエルの笑顔はホイップクリームのようにふわふわだ。アンリはしばらく見つめ合い、それで彼が失われなかったことをようやく実感して、胸を撫で下ろした。――六秒以上見つめ合えるってことは完璧に両想いね、とサダなら言っていたところだが。
「キヌの具合は?」
「ああ、平気だよ。命に別状はないし、一週間も休めば冒険に復帰できるって」
「それならよかった。入院中は暇してるだろうな。そうだ、今度お見舞いにカードゲームでも持っていってあげよう」
「お、いい案だな、それ! キヌには遊びが足りないと常々思っていたんだ」
「それエルが遊びたいだけでしょ」
「あっはは、ばれたか」
「えー、おっほん」
スティーユが二人の顔の真下に座って、わざとらしく咳払いをした。二人の視線が同時に下を向いて、しかし額はぎりぎりのところで触れ合わない。
「座って話したらどうだね、お二人さん。その体勢じゃあお互い疲れるだろう」
「あ、そうだね。ごめん気が付かなくって」
「こっちこそ。それ使っていいのか」
「もちろん、どうぞ」
アンリがカウンターの裏から引きずり出そうとしたスツールを、エルがひょいと持ち上げた。カウンターを挟んで向かい合うように座れば、高さの差はほぼ変わらないが、少なくとも足腰は痛まないだろう。
まったく世話の焼ける二人だ、とスティーユは心の中で嘆息してから背を向けた。
「それじゃあ、ボクは散歩に行ってくるから。どうぞごゆっくり」
「行ってらっしゃーい」
「行ってらっしゃい」
二人に見送られて扉をくぐったスティーユは、《雑貨屋》の看板の前でふと立ち止まる。
「……ま、誰だって野暮なことはしたくないよな」
尻尾で器用に看板を折り畳むと、裏向きにして壁に立てかけ、走り去っていった。
臨時休業させられた雑貨屋は、紅茶と焼き菓子の香りに満たされて、甘く色づいている。――お菓子と紅茶がなくたって同じ空気になっただろうがね、とスティーユなら言うところだが。
「それで、今回の冒険はどうだったの」
アンリに促されて、エルは頬張っていたお菓子を勢いよく飲み込んだ。
「聞いてくれ、君のオススメがすごく役立ったんだ! あれがなかったら死んでたかもしれない」
「嘘、そんなに?」
「そんなに、だ。まずサダのリボンは、赤色に反応するモンスターに完璧な囮になってくれて、捕まりかけたところを間一髪で逃れられたんだ。あれに捕まっていたら、サダの羽はボロボロにされてたと思う」
「え、こわ……」
「それから、俺の鏡。三日目だったかな、休息を取ろうってときにこう、なんとなく持ったんだよ。そうしたらそこに、背後に潜んでたモンスターが映ってたんだ。潜伏が上手な奴でさ、全然気が付かなくって、そのまま休んでいたらやられていたかもしれない」
「気付けてよかった」
「本当に。アンリのおかげだよ」
微笑みが深くなって、紫色の瞳がとろんと溶ける。つられるようにしてアンリの頬も緩む。
「モンスターって本当にいろんなやつがいるんだね」
「それはもう。だいぶ分かってきたけどな」
「一番怖かったのってどんなやつ?」
「うーん……途中で力尽きた冒険者の死体とか荷物とかに取り憑いて襲ってくるタイプのやつは、今でもけっこう怖いな。擬態が上手だから、ギリギリまで気付けないんだ」
まるでホラーゲームじゃないか。アンリは身震いしたのを誤魔化すようにティーカップを持ち上げた。
「そういうのってどうやって知るの?」
「囮を投げ込むのが一番だな。相手によって反応する物が違うから面倒なんだけど、ああ、それで思い出した。カボチャの種がすごく予想外なところで役立ってさ――」
気になっていたカボチャの話だ、と心を弾ませた、まさにそのときだった。
ふいに視界がかすみ、エルの声が遠のいた。アンリは目をぱちぱちさせた。何だろう、これ。どうしてこんなに眠いのだろう。
異変に気が付いたエルが顔を覗き込んでくる。
「アンリ?」
「ん……」
アンリはぎゅっと顔を歪めた。言葉が上手く出なかった。意思に反して頭が揺れる。まぶたを開けていられない。
(どうして? 昨日は絶対夜更かししてないし、今はこんなに楽しいのに……)
「どうしたんだ、アンリ。アンリ!」
その声に応えることも出来なかった。まるで落とし穴にはまったかのように、アンリはすとんと眠りに落ちた。
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