【第5話】「お前のため」は自分のため
「そうです。もし本当に相手のためを思っているなら、決してキレたりしません」
「どういうことですか?」
「緒方さんは、上司からキレられたらどんな気持ちになりますか?」
「それは…落ち込みますかね。場合によっては、あとから腹が立ってくることもあります」
「そうですよね。人間は、怒りの感情をぶつけられると"萎縮する"か"反発する"かの2パターンの反応を示すことが多くなります。そうなると、相手の言葉を受け入れるというよりは、自己防衛の反応を示してしまうのです。怒られたときの感情ばかりが強烈に残ってしまい、相手はこちらが言っていることに対しての理解度が下がります」
たしかにそうだ。
怒りの感情をぶつけられたら、萎縮するか反発してしまって、すんなり言葉を受け止められない。
精神的に成熟している人であれば、相手の怒りの感情を受け流せるのかもしれないけど、自分には無理だ。
「だから、怒りの感情を表に出している時点で、相手のためにならないんですね。本当に相手のためを思っているなら、仮にイラッとしても、怒りの感情をグッと抑えて理性的に対話をする必要があります」
「たしかに、言われてみるとそう思います」
「でも、世の中には怒りを抑えることができない人もいます。そういう人は、散々怒鳴り散らしたあとに『言い過ぎた』と思うんでしょうね。バツが悪くなって『お前のため』という言葉を免罪符のように使うのです。本当は、怒りの感情をぶつけてスッキリしたかっただけなのに、です。だから私は、キレながら『お前のためを思って言ってる』なんて人は、基本的に信用しないようにしています」
心の底から「なるほど!」と思った。
すごく腑に落ちる話だ。
「私は、一緒に働く人を選べないというのが、サラリーマンの大きなリスクだと思っています。特に20代の伸び盛りのときに変な上司に当たったら最悪ですね。嫌な上司の対応方法は学べるかもしれませんが、知識やスキル面の習得には貢献してくれません。相当なデメリットと考えていいでしょうね。中には上司がどうであれ勝手に成長できるタイプもいますけど、多くはそうではありませんからね」
井口さんの言葉がグサグサ刺さってくる。
井口さんの言うことは、その通りだと思う。でも、なにか改善の手立てがあるわけでもない。
「この問題に対して、私はひとつだけ解決策があると思っています」
「本当ですか!?ぜひ教えていただきたいです!」
すごく気になった。この話を聞くために、この人に会いにきたのではないかと思うくらいだ。
「簡単ですよ。自分で稼げる力を身につけることです」
すごくシンプルな回答が飛んできた。
「自分で稼げるようになると『会社を辞めてもなんとかなる』という自信が出てきます。その自信が"心の余裕"にも繋がっていくわけですね。心に余裕があると、会社で嫌なことがあっても軽く受け流せます。稼げる力がつくと、自信と余裕が生まれるので、ミスが減ってパフォーマンスも向上します。稼ぐ力を磨くと、良いこと尽くめですよ」
なんて魅了的な話なのだろう。
自分も稼げる力が身につけば、会社で活躍できたり、課長をギャフンと言わせたり、収入が上がったり、周りからチヤホがされたり、女の子にモテたり……そんな未来が待ってたりするのだろうか。
もしそうなら、なんて素晴らしいんだろう。
しかし、井口さんはキッチリと釘を刺してきた。
「ただ、そんなに簡単な話ではありません。そもそも"稼ぐ力"とは一体なんなのか。緒方さんは分かりますか?」
「えっ……なんでしょう。全然分からないです」
「端的に言うと、稼ぐ力とは"商品やサービスを売る力"です。稼ぐためには、なにかしらの商品やサービスを販売し、その対価としてお金を受け取る必要があります。資本主義経済では"売り手"と"買い手"が存在します。買い手は、金銭を対価に商品を受け取れますが、手元のお金は減ります。逆に売り手は、商品を提供する対価として金銭を受け取れます。資本主義の構造上、稼ぐ力と売る力は直結しています。売る力がある人は、間違いなく稼げるようになっているわけです」
「あの……売る力って、要は営業ってことですよね。人に売り込みをかけるのは、正直苦手なのですが…」
正直、営業に対してあまり良いイメージがなかった。
押し売りして、無理やり人に買ってもらうイメージが強かった。
「たしかに営業といえば営業なんですけど、緒方さんがイメージしているものとは違うと思いますよ」
「どういうことですか?」
「そもそも日本人の多くは、営業・セールスというのを根本的に誤解してるんですよ」
「誤解…ですか」
どういうことだろう。
井口さんは、興味を持たせながら話をするのがとてもうまいと感じた。最初に会ったときの「なんか怪しい」という印象もすっかり忘れて、井口さんの話を興味津々で聞いていた。
こうして俺は、井口さんの話術にまんまとハマっていくのであった。
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