泉の女神と水面下

「あ……っ」


 宝物を落としてしまった少年が、泉の中へ手を伸ばす。

 しかし当然ながら、底が深い泉だ、落下する宝物はどんどんと沈んでいってしまい……、肩まで手を伸ばしても指先は届いてくれなかった。


 ……死んだおばあちゃんがくれた大切なペンダントだったのに……っっ。


 赤い宝石がくっついた銀色のペンダントである。

 半分に開けるその中には、少年がまだ小さかった頃の姿と一緒に写っている、おばあちゃんの姿もある……。

 もちろん、同じ写真を持っているし、他にも写真はたくさんある。数ある中の一枚であり、写真はこの際、諦めてもいい……、水に濡れてしまった時点で諦めもつくというものだ。


 だがペンダントは違う。


 世界に一つだけの、

 おばあちゃんとの思い出が詰まった品だ……絶対に拾い上げないと……っっ!


 水面に顔を突っ込んで目を開ける。

 広がる水中……さらにその奥――、誰かいる……?


 神々しく輝く金色の髪……、大胆に背中を見せた女性だった……。そんな彼女が、遠目に見える横穴の中へ、なにかを叫んでいて――、


 ぶはあ!? と息が続かなくなった少年が水面に顔を戻す。


「……え、人がいた……?」


 そこまで広くはない泉である。

 近くで山菜採りの仕事をしていた少年は、周囲に人がいないことを知っていた。その後、泉に入った人もいなかったし……、つまり少年がくるよりも前に、女性は既に水中に潜っていたことになる……――となるとおかしい。

 呼吸は? 見たところ水中で酸素を取り込む手段があるようには見えなかった……。


 ずっと息を止めているのは現実的ではない。


 水中でも呼吸ができる人なのかな……? などと考えながら、水中で自由自在に行動できる彼女なら、落ちたペンダントを拾ってくれるかもしれない――。

 少年は充分な空気を吸ってから顔を水面に叩きつけるようにして突っ込み……、


 そこで、ばっちぃっっ!! と。


 女性と目が合った。



『ぶぼはあっっ!?!?』


『きゃっ!?』



 水を大量に飲んでしまった少年が、顔だけ水につけて溺れている……。


 冷静になれば顔を引き戻せばいいだけだが、パニックになってしまっている少年はそれすらもできずに、酸素を求めて水中で息を吸ってしまう……、当然、逆効果だ。

 多量に水を飲んでしまい、意識が遠のいていき……寸前で。


 水面に上がってきた女性が少年の両肩を支え、体を陸に押し戻した。


「がばっ、げほごほっっ!?!?」


「大丈夫ですか!? 深呼吸です、大丈夫、だいじょうぶ……ほら、酸素ありますよー」


 少年の背中を擦る女性が、何度も優しい言葉をかけてくれる。……おかげで落ち着いた少年の呼吸が安定していき、やっとまともに女性を見ることができた。


「あ、あなた、は…………?」


「――おほん、ちょっと手間取ってしまいましたが、やっと本題に入れますね――あなた、さきほど大切なものを泉に落としましたよね?」


 ぽかんとしてしまった少年は、女性に釘付けである。


 背中を大胆に見せていたのでちょっとだけ期待していたが、さすがに全裸ではなかったようだ……、綺麗な人なのでえっちな意味ではなく、芸術作品を見るような気持ちで彼女の裸体、今は隠れている部分に興味があった。

 しかし女性は前を隠していた。

 よくよく考えれば当たり前なのだが……ただ白く薄い布なので――しかし水中を通っても濡れてはいない……ので、透ける、ということはなさそうだった。


 ちくしょう、と心の中で吐き捨てる少年は、訝しむ女性の視線にはっとなり、


「は、はい! 落としました、宝物なんですっ!」


「ですよね、分かっていましたよ……、ここで質問です。

 あなたが落としたのはこちらの――金のペンダントですか?

 それともこっちの――銀のペンダントですか?」


 銀、ではあるのだが……、だが、少年が持っていたのは赤い宝石がついた銀色のペンダントである。彼女が持っている、宝石も含めて銀色のペンダント……ではない。


「いいえ、僕が落としたのは赤い宝石がついたペンダントです……、ですのでそのどちらでもありません。

 ……え、もしかして手元に金も銀もあるのに、僕の落としたペンダントだけ拾い損ねたってことですか……?」


 信じられない……、と呆れる少年。


 女性は、「え、違いますよ勘違いしないでください!」と少年の思い込みを否定した。


「あなたが落としたペンダントも、ほら! ここにあるじゃないですか!」


 女性が胸の隙間に手を突っ込み、

 ずるずる、と、チェーンを引っ張ってペンダントを取り出した。


 ……少年はなにも言わなかったが、ただ、『人の宝物をそこにいれるか?』とは思ったものだ。美女じゃなければ不快感が顔に出ていただろう……、ただ、加点にはならない。減点にはならないだけだ。


「これで合っていますか?」

「はい、そのペンダントは、僕のものです」


「ふふ、正直者のあなたには、この金と銀のペンダントも差し上げましょう――」

「盗品じゃないですよね?」


 ぶふっっ!? と噴き出した女性に、『怪しい……』と疑惑の目を向ける少年。

 態度こそ怪しいが、盗品なんかではない。

 そんなことを聞かれたのが初めてなので、不意を突かれただけだったようだ。


「そんなことを気にするとは……あはは、しっかりした子ですねえ……」


「知らない人から物を貰っちゃいけません、って教えられているので」


 じー、と少年が女性を見つめ続け、


「おねーさんも、あまり気安く人に話しかけない方がいいですよ。美女だから問題になっていませんけど、これが中の下の顔だったら叫ばれて、人を呼ばれて捕まりますよ。

 泉の中に住んでいるなら、たぶん、水を全部抜かれて、強制連行です。……あまり危ないことはしない方がいいと思います。

 ペンダントを拾ってくれたのは嬉しいですし、感謝をしますけど、目的が分からないとこっちも怖いので……」


 ボランティア?


 自己満足の趣味? ……だとしても。


 こっちが納得するような、便宜上の理由を立てておくべきだ。


「僕になにか、見返りを求めてくれた方が安心するのですけど……」


「そ、そういうつもりで活動しているわけではないのですけどねえ……」


 じゃあどういうつもりで? と問われたら……、

 ううん、なんでだろう? と首を傾げてしまう女性だった。


「先代がしていたから……でしょうね」

「ふーん」


「あ、今あなた、『自分』がない人だなあ、って思いましたよね!?」


 先代がやっていたから続けているだけの人に、やりたいことや趣味があるとは思えなかった。


 だけど……、


「いいんじゃない? そういう理由でも」


 先代が続けていたことを維持するために活動をするのも、立派な動機になるだろう。


 きっと彼女は、この『仕事』よりも『先代』のことが好きなのだろう。

 だから続けられる。人が嫌いで仕事が嫌なら、とっくのとうに辞めているだろうから。


「ありがとうございます。今度はペンダント、落とさないように気を付けます」


「……はーい。気を付けてね、少年」


 自身の宝物であるペンダントを含め、

 貰った金と銀のペンダントも大事に抱えて、泉から立ち去る少年だった。




 その小さな後ろ姿を見届けた後、女性はゆっくりと泉の水面下へ戻っていく。


 住居にもなっている横穴へ戻った女性が、水上に顔を出して、


「ただいま」

「おう、どうだった? 正直者だったか?」


「うん、優しそう……? な、子供だったよ」


 なんで『?』をつける? と思ったが、

 女性が多大な信頼を寄せている青年は、そこを掘り下げるつもりはなかった。


 それよりも、だ。


「今回もやっぱり時間がかかっちまったな……あのなあ、お前の仕事柄、必要だとは思うが、やるならきちんと在庫管理をしておけ。

 落とした品物を見てすぐにそれと同一のものを探すのは骨が折れるんだ。

 簡単に検索できるように並べておくべきだろ……しかも金と銀、二種類も用意しなくちゃいけないのがまたしんどいしよ……っ」


「ごめんね、いつも苦労ばっかりかけちゃって」


「まあ、この泉の噂を広めたのは俺だしな……。まさか町の掲示板に軽く呟いただけで、人が殺到するとは思わねえし……。

 正直に答えれば金と銀が貰えるから……、ノーリスクで商品を仕入れることができるって言うんで、人が集まるのも考えりゃ分かったことなのによ……」


 ここが店なら、人が殺到するのは喜ばしいことだが……、ボランティアである。


 落としたものを拾ったからと言って、彼女がお金を取っているわけではないのだ……それどころか、金と銀もあげてしまっている……損しかしていない。


 だけど辞めたくないのは、彼女の師匠が続けていたからだ。


 伝統的なことなのだろうか?


 途切れさせることは……したくないと彼女なら言うだろう。


「……山のように積み重なってるこれは、ちゃんと並べた方がいい。

 スペースにも限りがあるから、やっぱでけえ棚があった方が便利だよなあ……」


「あ、今、どぼんっ、って音がした」


「また泉に物を落としたやつがいんのかよお!?」


 次から次へとやってくる落とし物にうんざりしている時間もなかった。


 彼女が落とし物を拾ってくる……それは『腕時計』だった。


「これ――同じやつの金と銀!」


「どこのブランドだ!? 腕時計なんて違いが分かりにくいもんを――あーもうっ、整理整頓を普段からしておけよぉッッ!!」


「ご、ごめんなさぁいっ!!」



 怠惰な泉の女神さまは、今日も青年に頼りきりだった。

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