蒼いウソ

ラビットリップ

第1話 三歳児は嘘を付けない

どうしても忘れられない、一つの冬景色がある。

 それは私がまだ三歳だった二月末、雪の頃に目にした光景だ。八畳の座敷の隅には、祖母が小さく背中を丸めて座っている。そこには既に、母と私の床が並べられてあり、床の間には雛人形も飾られていた。生後七か月の妹は、ベビーベッドで静かに寝息を立てていたように記憶している。

「私は、あんたの箪笥なんぞ開けとらん。楓ちゃんが嘘ついとるんや。」

「三歳の子が嘘つきますか?」

「ほやけど、私は開けとらんのや。だからこうやってわざわざ、こっちの家まで来て、あんたと話に来たんや。電話やと、話にならんと思って。」

「子どもも寝かさんといかんし、夜遅いんで、またにして下さい。」

「私が箪笥を開けて、中身を見てないこと、信じて欲しいんやて。」

「信じられますか。いい加減にしてください!」

「私は、開けとらんのや。」

私は毛布から顔を覗かせながら、母と祖母のやりとりをじっと聞いていた。その後、いくつかのやりとりを繰り返した後、父が車で祖母を祖父宅へ連れて帰った。

 この話は、いつ収束したのか定かではないが、この後しばらくの間、祖父と祖母に会うことは許されなかった。


私がもの心ついてから程なく、母はこの話を折に触れて、よく話したがった。母は“お義母さんのことを今でも赦していないのよ”という意思を、自分自身で毎回確認しながら話していたように思う。

「楓が三歳の頃はよく雪が降ったんよ。屋根に梯子で上って、屋根の雪下ろしをせんなんならんくらいにね。」

後に『五九豪雪』と名付けられた昭和五九年二月上旬。日本海側を中心に強い寒気が入り、市内でも連日大雪に見舞われ、通勤、通学にと大変な思いをしたのだという。

屋根に一m以上の雪が積もり、このままでは家が潰されるという状況になり、週末、屋根の雪下ろしをすることになった。その際、祖父と祖母も応援に駆け付けた。そして父と母と祖父で屋根の雪下ろしをすることになり、三歳の私と生後七か月の妹の面倒は祖母が見ることになった。

三人でどのように過ごしていたのか、全く記憶にない。妹は、おそらくずっと寝ていただろう。では私はと祖母は何をしていたのか。それが全く思い出せないのだ。

しかし、なんとなく予想はつく。

昔からお転婆で有名だった私だ。それに三歳児が室内でじっとしていられるわけがない。きっと走り回って、祖母を随分と困らせていたのではないか。

事件は雪下ろしの作業後、起こった。祖父母が帰宅し、母が夕飯の支度をしていた時、私がふいに、

「お婆ちゃんが、ママの箪笥の中を見とったよ。」

と言ったというのである。

結婚当初から祖父母との折り合いがあまり良くなかった母は、私のその一言で半狂乱状態になり、夕飯を作る手を止め、祖父宅に電話をかけた。

「楓ちゃんから聞いたんですけど、私が屋根に上がっていた頃、勝手に箪笥を開けて中を見たんですか?」

電話の向こうの祖母は、一体何の話だ、という反応だったという。祖母のプラスティックな反応に不信感を抱いた母は、電話口できつく問い詰め続けた。このままでは話にならないと思った祖母は、電話を一旦切り、タクシーで家に駆け付けたのだという。

「あの人は昔からすぐに嘘つくげんて。結婚前からそうや。この家には借金がないって言うとったんに、結局数百万、残っとったしね。結婚してからも、パパが払い続けとってんよ。お見合いの際に、住んでもらう新居の家は、借金は完済しとるって、そればっかり言うとったんにね。あの人の言うことは信じられんげん。それに三歳の子が嘘つけるかいね。」

母はこの話をする時、必ず『三歳児は嘘を付けない』という持論を展開した。この件について、何十回目かの箪笥事件の話題に付き合った後日、私は母の持論の信憑性を確認すべく、学校の図書館で調べた。その時見た書物には、

「子どもは二歳半頃から嘘をつくようになります。これより幼い頃は、空想や願望を話すことはあっても、嘘をついているという意識はないことが殆どです。三歳頃になると自分の言っていることが現実とは異なっていることや、嘘をつく目的を意識できるようになります。違う見方をすると知能が発達しているということです。」

と書かれていた。その後も何冊かの本を手に取ったが、やはり、『子どもは三歳くらいになると、親の気を引きたいために、嘘を付くようになる。』と書かれてあった。

 母は、三歳の娘が嘘を付いているかどうか、そんなことはどうでもよかったのではないか、と私は考えた。ただ『三歳児は嘘を付けない』という独りよがりな持論を展開することで、何が何でも、祖母を犯人に仕立てたかっただけのかもしれない。箪笥事件や家の借金以外にも、母には、亭主の親族に対して、思うところが山のようにあったのだろう。それくらい母と祖母の間には、深い河が絶え間なく、滔々と流れ続けていたのだ。

 だが当事者である私は申し訳ないくらい薄情で、祖母が箪笥を開けたことも、私が母親にそう言ったことも全く覚えていなかった。ただ座敷の片隅で、小さく祖母が座っている景色だけ、いつまでも忘れることができなかった。

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