2018年:森久志
高校教師 森久志の結婚 前編
もともと今日は出先から直帰だった啓司に合わせ早めに仕事を片付け、駅で待ち合わせて向こうの家に泊まる予定だった。週の半分はお互いの家を行き来する半同棲のような状態がここ数年ずっと続いている。
付き合いもそろそろ十年になり、俺も初老の歳を越え昔のような情熱的な逢瀬も少なくなったが、それでも向かい合って飯を食い笑い合い時に喧嘩し、仲直りに抱き合って眠る平凡な生活に不満などなかった。
ところがどっこい。
急な生徒指導が入りその間待ってもらっていた、普段は
いつかこの安寧が終わる日が来るとは思っていたが、あまりに急すぎて心構えもなにもありゃしない。
図らずも十年前のあの日を思い出した。啓司が今にも泣きそうな声で電話を掛けてきたあの日のこと。放っておけば死んでしまいそうなあいつを介抱して、ついでにあわよくば食っちまおうと思っていたあの日。
山田に殺されたいと言ったあいつに、俺の出来心はズタズタに萎えた。
そこまでかよ。それほどまでに山田が好きだったのかよ。
そう思ったら腹の底から気持ちが折れた。愛されすぎて彼女まで寝取られちまうほどのただの普通の男、そんな奴に誰が勝てようか。
それなのにふた晩寝たら、あいつの方から誘いをかけてきた。今でも当時のやりとりを鮮明に思い出せる。啓司はツーサイズ小さいピチピチの俺の部屋着を着て、狭い部屋の窮屈なベッドから、小テストの採点をする俺の横顔を見ていた。そんな時に不意に耳に届いた言葉。
『先生って彼氏いないの?』
向こうに誘うつもりはなかったのかもしれない、単純に世間話で口にしただけかもしれない。だがその瞬間、萎えて折れた重傷の俺の闘志と×××に火がついた。
おう。受けて立ってやろうじゃん。
お前に俺が抱けんの? 昨日までノンケに十数年越しの失恋をしてゾンビのようだった奴が、歳上の冴えないガチゲイ相手にできるの?
そう思って始めた啓司とのセックスは過去一、二に良かった。×××も過去一デカかった。率直に言って最高でくっそイキまくった。イキまくってるところに耳元ではじめて久志さんと名前を呼ばれて、快感が背骨を駆け上がって頭で弾けていった。最後の方は記憶が飛び飛びで、ちょっと失神とかしてたかもしんない。
だから逆に、俺は冷静になれた。このテクニシャンのデカ××色男に溺れてはいけないと、トんだ頭に警告音が鳴ったわけ。
なにせ今まで女しか経験のない男が失恋のヤケとはいえ、
だから、こいつは今まで山田だけを特別扱いをして、自分が真性のゲイだってことに自覚がなかっただけなんじゃないか?
啓司は俺を好きだと言ったけれど、それは俺自身に何か特別な感情があるわけでなく、初めて抱く男の身体に夢中になって情欲と恋愛感情を混同しているだけなんだろう?
山田への執着や吉川への罪悪感、抱えた秘密の重荷を俺がほんの少し肩代わりしてやったから懐いてきただけ。そう、それだけなんだ。
きっと俺がただの冴えないホモだって気づいたら、すぐにも目が醒める。
啓司はたしかに
対する俺が冴えないのはどうしようもないことだ。
しばらくいい夢を見させてもらってもしいつか捨てられても、かつての啓司の彼女たちのようになったとしても、また次の日からゲイ専マッチングアプリで相手を探してたまに独り身の体を慰めるいつもの日々が帰ってくるだけのこと。時折お前とのセックスを思い出して物足りなさを覚えるかもしれないけれど、たかがそれだけのこと。
大きな背中にしがみつきたくなる手をどうにか握り込み自分に言い聞かせた、その後の一週間はすごかった。
後にも先にもあれほどただれた一週間はなかった。名付けるなら陳腐に、めくるめく愛欲の一週間。
仕事から戻ってくればすぐに裸になりヤリまくった。玄関で、キッチンで、バスルームで。狭い1Kのそこかしこにマーキングされた。あ、さすがにベランダではしてないか。
新品のジェルと買ってきたばかりのラージサイズのゴム一ダースはあっという間に無くなって、最後の方はお互いイッてもなにも出なくなった。啓司も二十代だったとはいえよくもまあ毎日勃ち続けたもんだ。俺もあいつもヤりすぎて、途中からどっかの配線がおかしくなってたんじゃないかな。
ともあれその一週間で、俺は完全に啓司専用のバリネコに身体が作り替えられちまった。もはやあの時のセックスでは、俺の心は子供の頃なりたかった女の子にすらなっていた気がする。
それでも当時はまだ、山田が帰ってきたら解放してやろう、こいつの好きにさせようと心の奥で思っていたんだ。
でも。今更啓司を手放せない。
一週間なら諦められた。それが十年だぞ。
どうせすぐ捨てられるさと観念して一週間、一ヶ月、一年が過ぎ、とうとう十年経っても啓司はいまだ変わらず可愛い好きだ愛してると囁き、夜な夜な冴えないホモだった十年前よりもさらに劣化したはずの俺を抱き続ける。
そんなことをされてみろ。どんだけおれがズブズブにあいつにハマっちまったと思ってんだ。
気がつけば首から下は沼に浸かって窒息寸前、警告音なんてクソ食らえだ。もう俺は身体だけじゃなく、心もすべて啓司なしでは生きていけない。
俺と付き合いだしてからも、啓司が密かに山田の行方を調べていたのを俺は知っていた。というか別に失踪したわけでもなんでもないのだから、本人が黙っていても周囲に聞いていけばいずれわかることだ。現に俺の耳にも、山田が大阪に転勤したことは早い段階で伝わってきていた。「佐田岡にも同じことを聞かれましたよ」というおまけ付きで。
けれど俺たちはお互いにその話題に触れなかった。啓司は俺が好きだと言った手前、後ろめたさがあったのかもしれない。俺の方はと言えば、啓司にどんどんのめり込むにつれ、山田の存在が恐ろしくなっていったのだ。
すぐにでも捨てられるかと思った俺を十年間も啓司に結びつけ続けているのは、他でもない山田だ。啓司の胸の奥深くに隠し留めた秘密を俺が知っている、それが二人を共犯者にしたんだ。
山田に全てを告白し、秘密が秘密でなくなったら俺はどうなる。それでも啓司は俺を好きだと言ってくれるだろうか? 俺を抱いてくれるだろうか?
わからない。
なら頼むから山田よこのまま一生啓司の前に顔を出さないでいてくれよ、そう願い続けて十年が経ち、とうとうヤツは現れた。
俺はこの上ない笑顔で、啓司を山田のもとに送り出してしまった。
十年も付き合ってんだぞ、もう俺のもんだ! 今頃のこのこ現れたお前なんかに返すかよ!
とは言えなかった。
啓司がどれだけ山田を好きだったか知っていたから。あの日山田に殺されたいと言ったあいつの、慈しむようなこの上なく優しい顔を思い出しちゃったからさ。
『生きてりゃそのうち会えるから』
あ〜あ、俺が言った通りになっちまった。
おかげで俺の思考はぐっちゃぐちゃ。でもでもでもの繰り返し。
手を振って啓司を送り出した帰り道、一歩踏み出すごとに俺の足は不安と焦りで重くなっていった。
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