11 浸蝕する水


 捕まれば、終い。亀甲竹きっこうちくの林を駆け、『亡き虹鱒ニジマスの半妖の兄妹きょうだいの民家』を目指す。私達の裾風と荒い息を追うのは、小さく嗤う竜口 冴たつぐち さえ。ヒタヒタと染みるのは、妖艶な媚態の声が刺す冷や汗か、支えるわたるの脇腹の傷の血か。冴に纏わりつく、洗朱あらいしゅの背鰭の『人魚』のくらい眼窩を覗いてはいけない。


 翔星かいせい伊月 弥禄いづき みろくとの拮抗する戦いの隙に、俊敏な冴を阻む事が出来なかった。『妖狩人ら』の到着を期待し、この年になって隠れ鬼をせねばならないとは。


「ふふっ、私が『鬼』なの?……咲雪さゆき


 迫る気配に、 千本格子の玄関戸を引いて中に飛び込み、鍵を閉めた。 最悪だ。数寄屋造りの硝子戸廊下が、隠処こもりどを半減させる。渉と一室へ逃れて障子を閉めた私は、違棚に飾られた『兄妹が微笑む写真』を一瞥した。地袋の小さな戸棚から、薬箱の中の包帯とガーゼを見つけ出し、床の間に隠れれば影は障子に映らない。指先の震えを殺し、渉の傷口を圧迫止血しながらけもの耳を研ぎ澄ます。あかが染みる嫌な甘い香に、熔岩の如き心臓が破裂しそうだ。


「咲雪……ごめんな」


 土気色のかんばせなのに、渉は私の頬に触れて苦く微笑した。倦怠感をつれた無力さが、眼底に刺さりゆく。泣いたって無駄だ。わたしは奪うのみで、生力しょうりょくを与える事は出来ない……。


「血が滲む……喋っちゃ駄目。冴に『人魚』も得体が知れないのに」


「……咲雪には『人魚』が見えてるのか?」


 思わず、渉が見開いた蒼黒そうこく鵲眼しゃくがんを覗いてしまった。『慿く』としか言いようがない比喩であるが……あの漂う妖は、『人』には見えないのか。


 ピチャ、ビチャ……とな水滴らせる足音をけもの耳が聞いた。海から殃禍おうかが這い上がったような気配に尾が逆立つも、息を殺す。

  

「咲雪が……怖い物……知りたいわ。教えてくれたら、私のも教えてあげる。のは嫌でしょ? 」 

 

 障子に映る影は、やはり女のそれのみ。返事もしてないのに、障子戸と畳の境目から『得体知れぬ水』が染み始める。全く、余計なお世話だ。


「ねぇ、よく考えて。私は貴方達を事が出来るの。彼の傷……早く塞がないと不味いんじゃない? 」


 最早、私達が居る床板だけが海上の船のよう。障子越しの影が。痺れを切らした私が白銀の薙刀なぎなたを顕現すれば、、畳上の海から『人魚』がでた。洗朱の鰭条きじょうを、たてがみのように靡かせる。水飛沫つれた紫黒色しこくしょくの長髪を、螺旋に人魚の背骨から垣間見れば、瑞鳳眼ずいほうがん光らせた冴は恍惚と笑みを寄越す。どちらがバケモノなのか、分からないではないか。隠れ鬼は、もう終い。


あなたが私達を追い詰めたくせに、治癒士ヒーラー気取り? 」


 畳上の海に踏み込むのは、本能が忌諱きいした。白銀の薙刀の間合いを生かし、冴へ振るう! やはり、人魚は刃に透ける。嘲笑うように人魚の髑髏しゃれこうべがカタカタと鳴れば、がらんどうの口内から冴の双刀が薙刀を弾く! ……人魚の幻のせいで、非常にやりずらい。


 舌打ちした私が、花緑青はなろくしょうの陽炎を顕現しようとした瞬間。ドクン、と心臓が私を串刺しにした!渦を巻く汗線が、妖力の半溶融はんようゆうに痛みを叫ぶ!針の山に気付かずに足を踏み外したように、浮遊感に散瞳さんどうした私は落花へ。内なる奈落が分裂し集合体恐怖症トライフォビアに捻れる暗転。胎の子の存在を強烈に意識しながら、花緑青色に焼かれた私は横倒れになる! 渉の叫びと、見下ろす冴の眼閃が遠い気がした。

 

「あら、可哀想。彼は瀕死……咲雪もだったものね。感情の手綱たづなが外れ、妖力たいおん支配コントロールを見誤った? 」


 鴉を呼べば、この局面を打破出来るだろう。だが、原初の妖との決定的な繋がりを明かしてしまう事になる。擬似妖力由来術式家門かれらの思う壷だ。渉が得物を構える音がした……もうそんな事も言っていられないか。


「ふふ……あなたは瀕死なのに、無理しないで。音で妖を麻痺させるあなた三節棍さんせつこんは、咲雪の前じゃ振るえない。私達の眼前に存在する『妖』は、咲雪だけなのだから」


 冴が床の間に膝を付けば、波打ち際になる。忌まわしむべき水は、助けを求めようとした。渉も、きっと同じ。ひんやりした心地よさが、不快。妖力たいおんを鎮火されて……何も考えられなくなる。私を膝上に乗せた、冴以外。ぼんやりと波の集光模様コースティクスが掛かる視界に、慈愛の微笑が流れ込む。

  

「咲雪が助けを乞うべきは、この私。よく視て。貴方の一部に成る女の感情いろを」


【海の蝸牛かたつむりは、透明な泡を吐く。桔梗ききょう色の朝顔貝あさがおがいは、洗朱の血潮にけむる】 ……嫌悪混じりの諦念が、高鳴る『浸蝕欲』に流れ着いた。


「冴は……? 」


 絵本の『おはなし』を、母にねだるようだった。あぁ……わたしと一緒に『おはなし』を聞いた、紅音あかねは『人魚』の御伽噺が好きだったっけ。

 

「昔、孤独な『人魚』の妖が居たの。己を満たす為に人を喰らう彼の暴食を、誰も止めることが出来なかった。だけどね、彼はある少女に出会い、究極を告げられたの。『貴方が孤独なのは相互の『愛』を知らないから。互いを食べ尽くして、し合えば……『愛』に満たされるでしょう』、と。彼らの融合は血脈に受け継がれて、今も続いているわ。不老不死と伝承されてきた『人魚』の肉を、寿命が短い人が全て喰らうには長い年月が必要だから。、私達竜口家たつぐちけは……妖と人、互いへの『浸蝕』こそが、『究極の愛』と説く一族よ。下賎な妖が大好きな弥禄みろくさんしか、知らないけどね」


 冴と共に、がらんどうな『人魚』の眼窩が私を覗く。あれは、私が死よりも恐れていたくらい奈落だ。


「咲雪が視ているのは、私の血の中の『人魚』。私には『妖』の魂が無い代わりに……『人魚』が住んでいるの。妖狩人ひととしての擬似妖力由来術式の根源であり、妖としての唯一の魂である彼の本体は、竜口家わたしたち水槽アクアリウムの中。『シン』の術式は、貴方達に、意思ある水にできる。かれの傷口を塞ぐ血になってあげれるし、咲雪の妖力たいおんを内から冷やしてあげれる」


 赤が透明に滲むような唇で微笑した冴は、私を抱き起こす。冷たさに隠された、生ぬるい体温だな。私を自らの頸動脈へ近づけるわたしの左腕を刀のきっさきで引っ掻く。彼女には牙が無いから、さっと遠い痛みが伝う血を欲する。

 

「私……本当は奥手で。『浸蝕』するにしても……知らない人も妖も、怖いじゃない? けど……私を【感情視】で覗いた咲雪になら、食べられてもいいと思ってた」


 乳飲み子のように牙を剥いて、応えた。冴の血は、奇妙な味がした。甘かったり、急に苦さが滲んだり。波が押し寄せたり引いたりするように……『人』と『妖』の境界線が、常に変動している。だからこそ妖狩人の中で、『人』として生きてこれたのか。


 冴が私の左腕の傷を這い、『私の意思』が奪われる痛みと『冴の意思』の味が染みゆく中……胎の内から小さな足が蹴る! 可愛らしいかかとが、私の脳裏に白い閃光をつれて抵抗を目覚めさせた!


「秋陽が……私達を待っているのに、『私』が消える訳にはいかないの! 渉を解放して! 」


「残念……もう少し咲雪を食べていたかったわ」


 嗤う冴を突き飛ばせば、畳上の海へ後宙バックステップした彼女は悠々と自らのあかい舌先をなぞる。薙刀を再び構えた私に、醒めた冴は首を横に振る。


「『隠世』の在り処も視えなくて、少々足りないけど……弥禄みろくさんに抜け駆けして、咲雪の一部を『浸蝕』できたから満足。……もう、時間切れタイムリミットだし」


 無感動な冴が右手でくうを切れば、『人魚』と海の幻は水飛沫に弾けて消える! 民家を踏み荒らす者達の気配に我に返れば、怒気纏う男に障子が開かれた!

  

尾白おじろ 隆元りゅうげん様。御子息は『感情視ノ白魔』に惑わされておりますが……ご無事でいらっしゃいます」


 微笑する冴がうやうやしくこうべを垂れれば、擬似妖力術式家門をも嫌う、潔癖な五十路いそじの男は鼻で笑う。わたしを、隆元は強烈な眼光で睨んだ。その背後には、嗤う伊月 弥禄いづき みろくと、苦々しく唇を噛む翔星かいせいの姿。事態に、一瞬で血の気が引いた。


「やはり『感情視ノ白魔』が、『得物エモノ』を狙う『首謀者』の配下か! 我が尾白家の『白虎びゃっこ三節棍さんせつこん』に渉まで付け狙うとは! 」


「やめろ、隆元! 咲雪にはっ……」 


 翔星の咆哮にも止まらない! 怒り狂う隆元に怯んだ私は、首を掴まれ足が浮き、薙刀を落としてしまう! 息と血流が完全に止められ首の骨が軋み、意識遠のく私の背後から、隆元の眼前にきっさきが向けられた! 蒼黒の鵲眼しゃくがん鋭光えいこう宿し、渉は目覚めていた!


「離せ! 咲雪の胎にはアンタの孫がいる! 」 

 

「なんと……穢らわしい……バケモノと尾白家が血を交えていたとは……。やはり、バケモノに惑わされたおまえは正気ではない」 


 隆元のかんばせは青ざめていく。緩んでいく剛腕から解放され、私を抱き留めた渉に安堵するも……事態は劣勢だ。擬似妖力由来術式家門の口車に、な隆元が乗せられていることは間違いないのに……私達が正しいと証明できるすべは、自らの口しか無いなんて。


「頭を冷やせ、隆元。……どちらが正気か、問われる羽目になろうとはな」


「申し訳ございません……私としたことが……」

 

 少々疲れた様子で現れたのは、妖狩人のおさたる桂花宮 正治けいかみや しょうじこうべを垂れた隆元に、ぞんざいに手を払い礼をやめさせる。私達の希望はまだ潰えていない!


正治ちちうえ翔星わたし達は渉との連絡が途絶えた上に、渉と共に出立した妖狩人が負傷し帰還した事実を受け、急ぎ加勢に参ったのです! 渉が腹を負傷したのは、伊月 弥禄の『ばく』の術式に操られた虎の妖の鉤爪によるもの! 私達は加勢に見せかけた、擬似妖力由来術式家門の二名の襲来に耐えていたのです! 現に、彼らは桂花宮家からのめいを受けずに出立したはず! 咲雪を狙うやからこそ、伊月 弥禄、竜口 冴の二名に違いありません!」


 翔星に鋭い鷹眼ようがんで睨まれた弥禄は、深淵のまなこで見下す。


「戯言ですな。竹林の妖を封印していた『ばく』の術式が何者かに破られたからこそ、この度の任務を献上したのが弥禄われらだ。めいを受けずとも、加勢に出立するのは道理。翔星殿かいせいどのこそ、めいは受けたのですか? 桂花宮家当主の管理下にある『感情視ノ白魔』を竹林へ追従させるなど、孕んだ女妖めあやかしに妄言を注ぎ込まれたとしか思えません。加勢に来た仲間である我々へ、し刃を向けたのが、そのあかし。翔星殿は『感情視ノ白魔』の価値を重んじておられるようですが……あるじが決定した妖を強奪すれば、家門の取り潰しに繋がる事は周知の事実。我々は、自らの命の方が惜しい。『縛』の術式が妖を操るものであれば……桂花宮家から逃亡し、尾白家御子息から『秘ノ得物』を遂に強奪せんと行動した『感情視ノ白魔』を真っ先に傀儡くぐつにし、『首謀者』を吐かせていたでしょう。……だが事実、不可能だった」


 双方の眼光を前に、思案する正治は無精髭をさすった。

 

「ふむ……。命知らずな弥禄みろくらが任務を献上した時点から、咲雪を捕縛する罠を仕掛けていたようにも聞こえるが……『秘ノ得物』を狙う『首謀者』の配下である本性をあらわした咲雪に、翔星かいせいらがたぶらかされていたようにも聞こえるな。正気かどうかはともかく、翔星おまえ達四人の仲が良好なのは知っている。……先に、結論を言わせてもらう」


 正治は己の白金の太刀のこじりを畳に打ち付け、杖太刀にて妖狩人らに向かい合う。

  

「物的証拠が無い正治わたしは誰も殺す気が無い。新嫁しんか。疑わしきは罰せず。術式、家門に通じる『秘匿』を認めた妖狩人われわれの討論など、そもそも公平では無いのだ。明るみになっただけに罰を与えよう」


 新嫁とは『秋陽あきひ』の事。あの子が? 僅かな疑問さえ、大きく開眼した正治が覇気と共に纏った金の稲妻により、煌々とかき消される!

 

めいを受けずに、独断専行! 出立の報告を怠ったのは、双方同じ。緊急時という言い訳が通じるなら、このような事態にはならなかっただろう。妖狩人同士の戦闘を行ったのも遺憾。各自、悔い改めよ! ……しかし、私の支配下にある咲雪を解放し独断専行した翔星を考えれば、妖の管理含め、桂花宮家われらに落ち度があったことも、また事実。よって……伊月 弥禄いづき みろく竜口 冴たつぐち さえ桂花宮 翔星けいかみや かいせい、三名に、『蠢魚シミ踊子おどりこ』妖百討伐の任を命ずる!『感情視ノ白魔』、埜上 咲雪のがみ さゆき! 咲雪への疑念は、管理者たる我々が追求させてもらう。……番外編だ。人の妖、得物に手を出すやからは、『罪の隠匿』が明るみになり次第……私手ずから殺してやる。己の尾を晒せば、死に時と思え!」


 偉大なる咆哮にビリビリと全身が打ち震わされる中、まなこが凍りついた私は……『陽への憧れ』を母親殺しの贖罪で、脆い硝子のように破壊された気がした。だがわたしへ向けられた妖狩人家門当主らの疑念が晴れない以上、切り捨てられないだけ寛大な処置なのかもしれない。檻が存在するのは、から守る為でもあるということか。

  

 に微笑し、正治へと踏み出した冴に悪態をつきたくなった。弥勒の言った臆病さなんて、欠片も無いじゃない。

 

「お言葉ながら、正治様。尾白家御子息の腹部の包帯は、負傷を装う偽物ダミーです。おおよそ、『感情視ノ白魔』が交渉材料に使おうとしたのでしょうが……臆病ですね。


「それはっ……! 」 


(( いいの、咲雪? 正直に話せば、渉の傷口が開くけど ))


  目が合ったが脳内に響く。『シン』の術式が渉にもたらしたのは治癒では無く、傷口の掌握しょうあくか! いずれにしろ、! 冴の意思に『浸蝕』された結果、私は身体と意思の一部を支配されていた!


「解け、尾白 渉」


 正治に命ぜられ、静かに解かれた包帯の下……渉の腹には。翔星は呆然と瞬いた。唇を噛んで俯く渉も、私と同じく


「言い逃れはしない、か。弥禄らの言い分からすれば、渉は被害者の側面もあるが……どうしたものか」


 正治の隣で、隆元は渉を見下ろす。まるで一縷の望みが絶たれたように、眼差しは凍えていった。


「正気で無い者に問うだけ無駄です、正治様。バケモノと血を交えたおまえは最早、我が息子にあらず。どこへなりとも、野垂れ死ぬがいい」


「はっ……願ったり叶ったりだね……クソ親父。勝手に俺を妖狩人に、石ころのように捨てて……さぞ満足だろう!! 」


 何も答えない隆元を、暗く嘲る渉に……私は睫毛を伏せた。渉の望み通りでも……私と出会わなければ、親子の絆は断たれなかった。隆元がきびすを返せば、彼らは後へ続く。『尾白 隆元』という光を嘲る伊月 弥禄と竜口 冴は、睨むすべしか持たない私達を一笑する。

   

(( じゃあね、咲雪。ゆっくり……また ))


 彼女に憑く……誰も見えない『人魚』が洗朱の尾鰭を翻せば、釣り針から逃れて『わたし』を喰らったさかなは、呼応するように自らの黒羽織を翻す。私達に、洗朱の裏を垣間見せた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る