第37話 ソーシャルディスタンス

 なつめの調子が良くなるまで寝室で休ませた。

 熱中症は、正しく対処すれば絶対に死ぬことのないので、大事には至らなかった。

「おにぃ、なにかジュース買って?」

「なんで俺が……」

 今はバイトに向かっている最中。昨日喧嘩したのがまるで嘘かのように、二人が横に並んで歩いている。

「財布を家に置いてきちゃったから」

「買い物についてきたんじゃないの……?」

 先程、なつめがバッグの中身をかき分けていたが、財布を探していたようだ。

「まあまあ、後日何かお返しするから!」

「いや、いらない。義妹いもうとに貸しを作りたくないし。素直に奢られろ」

「では奢られておきます」

 近くの自動販売機でぶどうジュースを買い、それをなつめに渡した。

「私が炭酸飲めないの、知ってたんだ」

「そりゃあ、一緒に暮らしてれば分かるわ。母さんが買ってくるの無炭酸系ばっかだったし」

 浩太朗がよく飲むのは、コーラやジンジャーエールなどの炭酸系なのだが、なつめが炭酸が嫌いなのを知っていたので、炭酸が入っていないものを選んだ。

「おにぃはなんで、そういうどうでもいいものには敏感なの」

 ペットボトルのフタを開けながら、皮肉混じりの言葉を吐いた。

「何年も同じ家で暮らしてたからだろ」

「ふーん。まっ、どうでもいいけど」

 なつめはペットボトルに口をつけ、浩太朗はその様子を見つめていた。

 浩太朗の視線を感じたのか、なつめは浩太朗にジュースを差し出した。

「どうした?もしかしてまずかった?」

 浩太朗は、ただなつめのジュースを飲んでいる姿がかわいくて見ていただけなので、別にジュースが飲みたいというわけではなかった。

「飲みたいんじゃないの?」

「そんなこと思ってないけど、くれるんなら飲むよ。前から気になってたやつだし」

 なつめからジュースを受け取ると、そのまま一口飲んだ。

「案外美味しいな。……なにその顔」

 何かに気づいたような顔をしているなつめ。口に手を当てて、ペットボトルを見ている。

「おにぃは気にしないタイプ……?」

「気にするって何に」

「あーもうっ!この鈍感め!」

 なつめは浩太朗からペットボトルを奪い取り、もう一度ジュースを飲んだ。そして、フタを閉めると、ペットボトルの先で浩太朗のことをつついた。

「いい?今おにぃがやったのは間接キス!すこしは気にしてよ!」

 なつめに言われてようやく気がつき、浩太朗は顔を赤くする。

「ごめん、昔よくしてたから、その癖で。……でも、龍谷とみくは男女でも平気でやってるぞ?」

 小中学生の時なんて、そんなことに配慮なんかしていないので、蓮斗の水筒や飲みかけのペットボトルをもらったりしていた。

「あの人たちは恋人同士だからいいの!」

「でも俺ら家族じゃん」

「ふざけて言ってるのか真面目に言ってるのかどっち!?私の口がついたものに、おにぃの口がつくってのは、私とおにぃがキスしてんのとほとんど同じなの!おにぃは私にキスできるの!?」

「物理的にキスが不可能なんてことある?いだっ!待って、みぞおちは聞いてない……」

 鈍感すぎるのか無知なのか知らないが、何を言っても分からなそうだったので、力一杯に浩太朗のみぞおちを殴った。

 みぞおちを殴られた浩太朗は、痛みでその場に立ち尽くす。

「物理的だったら私でも出来るわ!」

「……じゃあ飲みかけのペットボトルくらい飲んでも何の問題もなくね?」

「精神的な問題に決まってるでしょう!?」

「精神的な問題?」

「おにぃには関係ない!」

 立ち止まっている浩太朗のことを置いて歩き始めた。拗ねているのが後ろ姿だけで分かる。

「なつめ!待てって!」

 顔を顰めながら、みぞおちを抑えて、お構いなしに歩いていくなつめのことをゆっくりと追いかける。

「おにぃじゃあね!またお店で!」

 ついには、右手を挙げて後ろに向かって振り、駆け足で浩太朗との距離を離し始めた。

「クソっ、後で覚えてろよ……!」

 裏口から店に入ると、楽しそうに話しているなつめとめぐの姿があった。

「あっ、おにぃ。間に合ったんだ」

 殴ったことをすっぽかしているなつめに腹が立ち、口元がぴくつく。

「……一発殴らせろ」

 腹の底から出た声は、いつもよりも低く、怒りが込められていた。

 拳を握ったままなつめに近づいていく。

「こ、こうくん……?」

 浩太朗が怒っているのを初めて見ためぐは、本当になつめのことを殴るのではないかと勘違いをして、その場でおろおろしている。

「あはは、ごめんごめん!お詫びにお腹さすってあげるよ!」

「いらない。次殴ったらマジで許さねえからな」

「私は悪くないもーん。鈍感なおにぃが悪いんだしー!」

「この、アマ……!」

「きゃー!こわーい!」

 左手が勝手に動き、なつめの胸ぐらを掴んでいた。右手の拳がなつめの腹を貫かないよう、理性でぶん殴りたい気持ちを沈める。

 てっきり昨日の続きが始まるのかと思い、ひやひやしながら二人のやり取りを見ていためぐ。

「ちょっ、こうくん!喧嘩はやめて!」

 巻き添いを喰らわないように、二人から距離をとっているが、しっかり喧嘩を止めようとする気はあったようで、浩太朗を言葉で制止しようとする。

「殴ったりしませんよ、1割は冗談なんで」

「そうですよー!私が言ってるのは10割が誠ですけど、おにぃのは10割演技ですから!」

 なつめのその言葉に、さらに怒りを募らせた浩太朗は、胸ぐらを掴んでいる左手に力が入っていく。

「俺が殴らないとでも思ってんか?」

「はい嘘!どうせ私のことなんか殴れないくせに!いいよ?遠慮なく殴ってもらって。さっきおにぃのお腹に一発殴ったから、おにぃも一回ならいいよ」

「しれっと数を減らすな。2回だろ2回」

「どうしたの?そんなこと言ってないで、早く殴ったら?」

 なつめは、小悪魔的な笑みを浮かべて、浩太朗のことを煽る。

 許可はもらっているので、殴れることには殴れるのだが、なぜか阻まれる。手を下したら、義兄として終わる気がしたのだ。

「やっぱ私のこと殴れないんだー!ざぁこざぁ……ふぎゃあ!」

「ガチで殴ってやろうか?2度とそんな冗談が言えなくなるくらいにな!」

 なつめの頬を右手で引っ張る。彼女の頬は思ったよりも柔らく、顔が横に大きく広がった。

「ははっ、面白い顔」

「やめへ(やめて)!ひっはらないれ(引っ張らないで)!」

 蹴ったり叩いたりして抵抗しようとするが、なつめの力では浩太朗の力を押し返すことはできない。

 二人が意味のない攻防を続けている中、めぐは唖然とした様子で見ていた。

「あ、あれ……?二人はいつのまに仲直りしたの?てっきり、今日は二人とも無言で、めちゃめちゃに気まずい空気を私に提供してくれるのかと思ってたんだけど……」

 なつめから手を放し、乱れた服を整えてから、今日起きたことを手短に説明した。

「……ってなわけで、そんときは喧嘩どころじゃなかったんですよ」

「そうだったんだ……私、昨日の夜、心配しすぎてあんまり寝れなかったんだよー!よかったぁー」

 いつも仲が良い浩太朗となつめが、突然言い合いを始めたと思ったら、喧嘩にまで発展してしまった。

 心配しないわけがない。

「でもおにぃ、喧嘩する前より仲は深まったよね?」

 なつめは、浩太朗の腕にしがみつくと、ニコッと笑って見せた。

「まあ、そうかもな……」

 無性に恥ずかしいが、それは認めざるをえないだろう。

 それとは別に、なつめとの距離が近いことが気がかりだ。

「あっ、もしかして照れてる?」

「ちょっ、なつめ近い……!」

(いい匂いするし、腕に胸が当たってるし……!)

 さらに距離を縮めてこようとするなつめを退けようとするが、なぜか思うように体が動かない。

 

「これくらい兄妹ならとーぜん!だよね?」


 

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