喫茶店ネビー

@hihihi012345

第1話

 炎天下に晒されたアスファルトが空気と混じり合い、陽炎がめらめらと揺らめいている。空は見渡す限り青く、遥か遠くでは入道雲がもくもくと綿飴のように、膨らんでは萎みを繰り返し、姿形をとどめることを知らない。

 駅と自宅の間にある古めかしい喫茶店。いつもこの店の横を通るたび、いつか暇があったら入ってみよう、入ってみようと思いつつも、機会を得られずにいた。しかしその未知の空間への期待に毎度心をわくわくさせるのも今日の今をもってついに終わりを告げてしまった。

 七月某日、時刻は十二時半頃。私はいよいよこの喫茶店へと足を踏み入れた。外装からして隠しきれないほどの古めかしさ故に、きっと中には、髪の毛の半分以上を白くしていて立派な口ひげを貯えたダンディーなマスターが居るのだろうと考えていたが、店の扉を開けると以外にも若いウエイターが男女一人ずつ立っていた。彼らは私の方を振り向き、女性の方が「お好きな席にどうぞ」と、私に店内を散策させることなく着席を促した。口ひげのマスターはここからは見られなかったが、代わりに中年の細身の女性が奥の方でコーヒーを挽いていた。

 外は今朝の雨と昼の陽とで、さながらサウナのような蒸し暑さだったのにも拘わらず、客はぽつぽつとまばらだった。題名は知らないがいつかどこかで聴いたことのあるクラシックピアノがゆったりと優雅に、店内の時間を遅らせていた。私は適当な壁際のテーブルに目をつけ、そこに腰を下ろした。

 何となく、入口の方を向く椅子に座ったのはちょっと失敗だったかもしれない。カウンターに待機するウエイターの一挙手一投足が意図せず目に入ってしまうのだ。かといって既に水をもらってしまっては改めて向かいの椅子に座り直すのもなんだか気が引けてしまい、結局、終始ウエイターの動きを目で追うことになってしまった。私はメニューに目を通して色々な種類のコーヒーの中からカフェオーレを頼み、注文を受けた若い女性ウエイターのカウンターへ戻っていく後ろ姿をまじまじと見るに至った。こうなったらもう、仕方がないのだ。

 しばらくすると客足が増えてきて、空席のほうが少なくなってきた。隣に座ったスーツの中年の男性が煙草を吸い始めたが、不思議と、私はその匂いに不快感はなく、むしろどことなく懐かしいような、趣深ささえ感じた。果たしてそういう匂いの銘柄だったのだろうか?

 店内を四方八方に歩き回るウエイターの姿こそが、この店の持つ娯楽の一つなのだろう。濃いデニールのタイツが引き締めているスレンダーな脚、スカートに似た膝上の丈の黒いショートパンツと白いシャツ、右耳を露出してアシンメトリーのショートヘア。およそ美人だと言えるだろう。「ご注文はお決まりですか?」「おまたせしました」と、透き通った声が聴こえるたび、私の耳までもが自然とそちらの方へ向いた。自ずとどのテーブルの誰が何を頼んだのか、覚えてしまうほどに。男性の方も男性の方で、高めの身長はスラッとしつつも体の厚みとのバランスが取れていて、欧米の血を引いているのだろうか、どことなくハーフを思わせる顔立ちもよく整っている。この店は選りすぐりのみを集めてでもいるのか。まあ間違いなく、たまたまそんな二人の揃う奇跡の日だったのだろうが、お陰で目と耳を保養できそうだ。鼻はその限りではない。

 日が傾き始め、客足が減ってきたところで、そろそろ私も店を出ることにした。カフェオーレ二杯で二時間少々を使うことが出来たのは、良いことと言えるだろうか?……そんなことは別にして、私はこの店がとても気に入った。再びここへ来よう。また今日のあの子が居てくれると幸運だが、何はともあれ次はカウンターの方を向かないように座ろう。


 あの喫茶店はネビーという名前である。そしてその名前の前には珈琲専門店という枕詞を冠している。珈琲専門店ネビー。この名前からして予想される通り、おそらくは個人の経営する他に店舗のない店である。しかもオープンしてから長い。私がここにすみ始めた頃には既にあったはずなので、少なく見積もっても十数年は続いていることになる。こんなに寂れた地域なのに。すぐ向かいに国道があることが長寿の秘訣なのだろうか。きっとそれも因子の一つだろう。もっとも、駐車場は狭い上に店と隣接していないのだが。

 近所にこんなに居心地の良い喫茶店があるなんて、寝耳に水だった。どうしてもっと早くに中を確かめなかったのだろう。珈琲専門店を謳うだけあってコーヒーも美味しい。私の粗雑な舌にはいまいち分からないが、きっとそうに違いない。十何年も続けられているのだから。

 店内の雰囲気は特別に素晴らしい。ヨーロッパのアンティーク風の様相の、橙色がかった光を放つ照明。簡易に装飾できる壁紙やその模様などではなく、本物のレンガで組まれた内壁。年季は入っているが小綺麗な茶色いテーブルと椅子。この店自体が掘り出し物の骨董品のような心地だ。ナポリタンも実に良い。私は休憩のつもりでいつもここに来るので、そう何度も食べた訳じゃないが、来る度に今日は頼もうかと悩むくらいには美味しいのだ。

 こういった趣のある喫茶店は、見つけようと思って探して、どれだけ見つけられるだろう。私の知らないだけで、もしかしたら世の大半の喫茶店はこのような様相を呈しているのかもしれない。だとすると私の得た感慨深さというものの、なんて滑稽なことだろう。しかし、私はそれでも構わない。誰がなんと言おうが思おうが、ネビーは私の中に生じた一種のオアシスで、唯一の行きつけの喫茶店で、私の数少ない憩いの空間であることに変わりないのだから。せいぜい大海を知るまで、この井の中を楽しもうと思う。もし私が、私の想像した通りの滑稽さをはらんでいて、後になってそれを自覚したとしても、滑稽なら笑えるはずで、笑えるのなら越したことはないだろう。つまり今にも未来にも、私には愉快な心持ちしかないのだ。


 秋も盛りになり、日中にうようよと踊っていたアスファルトも流石に疲れてしまったようで、一日を通して過ごしやすくなった今ではすっかりしんとしてしまった。過ごしやすい気候になったのはとても素晴らしいことなのだが、当然うまい話には裏もあるわけで、私は今、台風で雨風が吹き荒む中、例によってネビーに足を運んでいた。何も特別このために外に出たわけじゃない。ネビーにいて特別な何かをするわけでももちろんない。ちと野暮用があってその帰りがけという次第だ。

 言わずもがな、店内は昼過ぎにも拘わらずほとんどすっからかんだった。居るのは、何度も来る内にすっかり見慣れてしまった口ひげもない白髪でもない五十代後半くらいのマスターと、珍しく例の女性ウエイター、店の奥の隅にあるテーブル席には顔の輪郭にぼさぼさの無精髭をたんまり生やした小汚いじいさんだけだった。

 時間が経つにつれ外が激しくなっていくことは知っていたが、私は呑気にも、普段は絶対に座るはずのない店の真ん中の席を選び取り、浴槽に浸かる時のようにゆっくりと腰を下ろした。すぐにウエイターが水をトレーに乗せてきて、「ごゆっくりどうぞ」という言葉に私は、あたかもこの店の知り合いであるかのような、横柄な態度で軽く手を上げて謝辞を示した。私は彼女を、初めてネビーを来た時を含めて数回しか見かけたことがないが、はっきりと個人として認識していた。しかしよくよく考えると、いや少しでも考えれば、いちウエイターの彼女が私個人を記憶しているなどあるはずはなく、私に一瞥いちべつをくれることもなく、何らいつもと変わりのないお辞儀と後ろ姿を残してカウンターへと引き返していった。

 ネビーに初めて来てからはや数ヶ月、幾度となく訪れてきていて、一つ気がついたことがある。来客の殆どが喫煙者なのだ。昨今の喫煙者への強い逆風が、席で紙巻き煙草を吸えるというそれはそれは強烈な蜜の匂いを遠くまで飛ばし、それを嗅ぎつけた者共が飢えを凌ぐように集まってくるのである。電子タバコは吸えても、紙巻き煙草を認める店は今ではほぼ失ってしまった。ましてやそれを認めている喫茶店など、一体どれだけ生き残っているだろう?その証拠に、私の見た限りではここの客の八割は紙巻きを吸っている。電子タバコを取り出す者は一度も見たことがない。電子よりもむしろ非喫煙者のほうが多いのではないかと思う。

 私は、今はまだ、その有毒で匂いのしつこい煙を趣の一つだと感じられているが、果たして店がこれを禁止するか、私が副流煙に辟易するか、どちらが先になるかなんて、まことくだらない議論ではないだろうか?私はおもむろにズボンの右ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

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