07 秋暁の空

 

 あれからどれくらいの日が過ぎたのか、分からない。ただ、道行く草原で繁茂する植物の中、懸命に丸葉と蔦で掻き分け、天色の朝顔が覗いているから……同じ季節なのだとだけ理解した。

 

 雪の命をこの手に掛けて以来……己穂には会っていない。己穂は人であるのか、妖であるのか……それすら、私は知るのが恐ろしい。私が雪の命を奪い、妖達に屋敷の狩人達を殲滅するように命じた事を、知っている頃だろうか。己穂が知れば……私を殺しに来るだろう、と愚かにもようやく気づいた。彼女の大切な人をこの手で奪っておいて、己穂の隣に立ちたいと願うなど……烏滸おこがましいにも程がある。

 

 己穂が私の命を終わらせてくれるのならば……それも悪くない。彼女ならば、私を殺せるかもしれない。半不死の運命さだめを背負わされ、永い時を生きてきた。人間であった時も力など望んだ事は無かったのに、妖になった事でより一層力に縛られた。望まぬ運命さだめに振り回されるのは……もう疲れた。己穂の望みが私の命なら、喜んで叶えよう。


「……見つけた」


 私の心を強く引く、澄んだ声がした。その凛としたかんばせに浮かぶ感情を知りたく無いのに……私は振り返らずにはいられない。

 

 己穂は妖では無く、まだ人だった。金の髪を高く結い上げた彼女は、白い長着に紅の袴を土で汚しながらも、その気高さは潰えない。耐えるように己穂の美麗な眉は下げられ……私を捉えた、極光を纏う金の瞳が潤んでいく。ほんのり色付いた頬に、月長石のような涙が流れる。桜色の唇は震えていた。私は何時かのように、その涙を止めたくなる。だが彼女の手から白い刀が滑り落ちた音で、我に返る。


「もう、私がした事を知っているだろう……。刀を手放してはいけない」


 だが、己穂は私にそれ以上を言わせなかった。私の事を、その白いかいなで抱き締めたから。柔らかな身体から伝わる体温に、私は息が止まる。金糸の髪から、淡い香りがする。


「まだ、言わないで欲しい。……私から最後の大切な人を奪わないで」


 己穂の言葉で、私は彼女に想われていた事を知る。雪が言った事は、本当だったのだ。だからこそ、この心臓は雪の言葉が刺さったまま痛み続ける。

 

 己穂はそのまま、肩を震わせて泣いていた。彼女はたった一人で、ずっと私を探していたのだと理解すると、甘やかな痺れに胸は満たされた。私は翼で包み込み、小さな背を抱かずにはいられなかった。かいなの中の己穂は、傍で感じていたよりもずっと頼りない。己穂も、望まぬ運命さだめをその身に背負わされ続けていた。


「己穂は……私が憎くないのか。私は雪や大切な人間達を殺して、己穂を妖にしようとしたのに」


「私は、人で在りたい。憎しみに負けたら……私は妖になる。だから私は、貴方の事を憎まない。けれど、やっぱり……許す事は出来ない」


 己穂は自分自身と戦ってきたのだ。愛と憎しみの狭間……人と妖の狭間に立ち続けていた。それは孤独な戦いで、同時に彼女の強さが無くては出来ない戦いだ。


「私は……貴方の事を愛してる。これは、自分に言い聞かせてる訳じゃないの。私は、貴方の優しさに惹かれてた。曖昧な気持ちが怖くて、目を背けていただけ」


 私は己穂の言葉に、全てが……救われたような気がした。比呂馬に信じていた愛情を裏切られ、憎悪に身を焼かれ……信じられる者など居なかった。自らも比呂馬のように、己穂を憎悪に染めてしまうところだった。けれど、後悔するには何もかも遅すぎた。失った過去は取り戻せないのだから。


「私も、己穂を愛している。この心臓が憎悪を与えようとも、この気持ちだけは変わらないと誓う。私は、君だけを想い続けよう」


 私は、頬に伝う温かさを自覚する。永い時に涙すら枯れ果てたと思っていたのに、まだ泣く事が許されていたのだと打ち震えた。

 

 私達は自然に口付けを交わしていた。私が望んでいたのは、己穂の想いだった。満たされた甘やかな切望は、私だけでは無く己穂も抱いていたのだと、弾ける直前まで、秘められていた柘榴のような熱で知る。

 

 だが、吐息は離れていく。このまま共にいることが出来ないのは、お互いよく分かっていた。私達は人と妖の戦いの渦、その物なのだから。始めた戦いは、終焉まで責任を取らねばならない。私達の手は、既に血で染まっている。


「私は貴方に死んで欲しくない……私を殺してくれる? 」


 伝わる己穂の鼓動が、私の心臓を呪縛する。消えてしまいそうな己穂の小さな身体ごと、繋ぎ止めるように抱いた!


「私には、己穂を殺す事なんて出来ない。 大切な人達の為に、己穂は復讐を果たすべきだ! 」


「そんなの、無理だよ。私は憎しみを捨てると決めた。……だけどこの戦いは私達の罪だから、二人で責任を取ろうか。……賭けをしよう」


 己穂はそう言うと、私から腕を離して手を繋ぐ。彼女は吸い込まれるような蒼穹を背に、潤んだ金の双眸に覚悟を宿す。


「負けた方が、勝った方の願いを聞くの。これなら二人の内、どちらかは生き残れる」


「……それで、己穂が生きてくれるのであれば」


 お互いの事を生かしたいと思う私達にとって、戦いに勝利する事は相手の命を繋ぐ事。負ける事は決して許されない。己穂は痛みを呑み込んだように、微笑する。


「今の私は妖にも近いから、貴方のように半不死になりかけている。……長い戦いになると思う。私が、妖になる前に終わらせよう。私は最期まで人で在りたい」


 愛と憎悪の狭間で彷徨う己穂は、人よりも妖に近いところで揺らいでいる。だがそんな不安定な状態が、長く続くとは思えない。己穂が自分自身に負けて妖になる瞬間……彼女は自害する気なのだ。息さえ奪われた私は、永久凍土に罪を凍らされたように、魂が、身体が、冷えていく……。

 

 私の贖罪しょくざいは己穂には既に意味は無い。己穂に生きて欲しいと願うならば、私は彼女に勝利し、妖になる事を受け入れさせるしか無い。これ以上己穂の魂を、憎悪の焔に堕とす事は許されない。


「……共に、生きてはくれないのか」


 凍りついた肺で僅かな空気を喘ぐように問う私に、己穂の繋いだ手から答えの代わりに力が籠る。己穂は長い睫毛でゆっくりと瞬く。己穂は救われたように、朝露を弾いた一輪の花が綻ぶような微笑を、凛とした美しいかんばせに浮かべる。だが、極光を纏う金の双眸は、痛みを隠そうと細められた。


「私は信じてくれた者達を、もう裏切れない。私達が生まれついて与えられた運命さだめなんて無ければ、きっと一緒に生きていけた」


 生力の視界を与えられ、憎悪と共に妖となる運命さだめが無ければ……己穂の言う通り、共に生きれただろうか。だが、その運命さだめが無ければ、私達は出逢う事すら無かった……。私は血が滲む程、唇を噛んだ。



 季節は秋へと移ろい、植物達が繁茂する鮮やかな草原の中、青すすきが銀の芒に変化していく。やがて、黄金の尾花を咲かせる。


 ――私達は戦いを繰り返した。


 己穂の告げた通り、半不死に近い彼女はすぐに傷が癒える。それは同じく半不死である私も同じ。ゆっくりと、しかし確実に……私達の力は衰えていった。


 秋暁しゅうぎょうの空。すっと広げた翼のように薄い巻雲けんうんが、澄み切った高い紅掛空べにかけぞらから金色を戴いている。空と繋がっているかのように何処までも広がるすすきの草原も、薄黄色の花を満開に咲かせた金木犀の木も、金の中に薄紅を滲ませた暁光ぎょうこうに染まっていた。頬を撫でるように柔らかな風が、暁光に染まる全てを靡かせる。


 ――落ちるはずの無い稲妻が、秋暁を引き裂いた!


 稲妻は己穂が空へと高く捧げる白い刀へと雷鳴と共に降臨し、私の立つ大地を烈震する。

 己穂の生力を化した金の稲妻が、全ての影を消し去った一瞬。眼前に迫る鋭い風を、肌は喰らう! 刃の一閃を黒い焔の刀で受け、高い金属音が散る。秋暁を映し出す刃の向こう、凛としたかんばせが祈るように青ざめていた。交わった刀同士はお互いを押し返し、私達は疾走する。


 私は悲痛の化身のように叫び、己穂の金の髪筋を追うように黒い焔の刀で一閃を振るう! 振り向いた己穂が刃に纏う金の稲妻は透き通る双眸と共に、私を真っ直ぐに射る!


 だが、金の稲妻は私の心臓を貫く事無く……私の黒い焔の一閃は、ほのかに唇を緩める己穂の心臓を貫いていた。私は崩れ落ちる己穂を抱き止める。 彼女の命が、温かい鮮血となり私を濡らす事に耐えられず、私は現実を凌駕するように秋暁を慟哭で切り裂いた!


「何故……避けなかった! 」


「もう、避ける力なんて残って無かった……」


 瞼を痙攣させた己穂が微笑する。愁傷しゅうしょうの痛みが、私を貫く。私は、伝える言葉すら痛みに奪われた。己穂が私の涙を掬うと、その指先は暁光の金に輝き……桜色の唇が言葉を紡ぐ。


「どうか妖と人の対立を終わらせて欲しい。……もう、貴方が殺すのは、私という『人』で最後にしてくれる? 」


「必ず果たすと、約束する」


 己穂は満足したように、極光を纏う金の双眸を細める。己穂が自分の意思で瞼を閉じようとしているのだと、私は胸の内を喰らい尽くす虚無感と共に逃避する。


「人と妖が愛し合い、血肉を奪わなくても生きられたら……良かった」


 己穂の双眸はもう輝く事は無い。代わりに秋暁の金を吸い込んだ己穂の涙は最期の言葉と共に、私と紅掛空へ……最期の生命いのちを分け与えるように強く輝いた!


「せめて、人に戻る事が出来れば……己穂と共に逝けたのに」


 私は、共に逝く事は出来なかった。

 眠る己穂へ、それでも私の想いを捧ぐ。


――往く道は永くとも、己穂との約束を果たす為に、この生命いのちが果てるまで歩き続ける。


 己穂の涙が輝いた空を見上げると、薄黄色の花吹雪で満たされた世界へ変わる。甘い香りと共にふわりと舞い上がる、金の四弁花を視線で追うと、金木犀の木が聳えていた。金を纏う己穂の魂の化身のように在る存在に、私は歩む未来を誓ったのだった。





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