03 憧れ


 憧れのまま、何時か訪れる出会いを待ちきれずに……一度だけ千里に会いに行った事がある。伊月家から逃げ出すのは初めてだった。後で弥禄に見つかってしまったら、どんな残酷な目に合わされるか分からない。本当に一生伊月家から出る事が出来なくなるかもしれない。だけどそれでも……同じ時間を生きる千里に会ってみたかった。

 

 初めて出る外の世界は未来視とは違い、自分の肌で、耳で、口で、鼻で……そして鬼の右目で、現実に感じる感覚は新鮮で真新しい輝きに満ちていた。世間知らず故に、何度も道を間違えてとんでもない詐欺に合わされそうになったが……何とか桂花宮家に辿り着く事が出来た。だが、門に立った途端、愕然とした。当たり前ながら、千里は自分の事を知らない。突然知らない少年……しかも、恐ろしい風貌の自分が尋ねてきたら、怯えてしまうだろう。右目を覆ってしまうと完全に前が見えなくなってしまうから、前髪で面紗の様に隠す事しか出来ない。それに、一体何を話せば良いのか。


「桂花宮家にご用ですか? 」


「は!? 」


 聞き覚えのある声に、思わずおかしな声を出してしまった。門の前で確かに怪しく逡巡していたとは思う。混乱する脳内の中……待ち望んでいた少女がそこに居た。肩まで整えられた、絹のような鶯色の髪。逡巡する杏眼は、秋暁しゅうぎょうの空に輝く明星の様な金色。小さな桜色の唇は紡ぐ言葉を待つ様に僅かに開かれていた。夢にまで見た千里が、そこに居た。想像していたよりも小さな彼女は、十三歳の自分より四歳年下だった事を思い出した。ランドセルを背負っているから、小学校からの帰りなのか。


「その……僕、いや、私は……」


 混乱して千里に返す事が出来なかった。彼女の後から、送りの車を降りた白銀の髪の少年もやって来る。智太郎だった。このままでは完全に怪しい人だ……! しかも正体がバレたら伊月家にこのまま送り返されてしまう! だが、頭は真っ白どころか、慣れた痛みを右目から広げ始めた。未来視の副作用だ。


「大丈夫ですか!? 」


 思わずしゃがみ込んだ私の背中を千里は撫でる。こんな時だと言うのに、柔らかな温もりを纏う掌が嬉しいと思ってしまう。


「何だそいつは……」


 智太郎が訝しんだ声を出す。道理だろう。帰ってきたら、門の前で知らない人物が蹲っているのだから。


「馬鹿! 体調が悪いみたいだから、とりあえず中で休んで貰わないとでしょ」


 千里は張りのある声で付き人達に命じ、私を桂花宮家の一室で横にさせた。全く面目ないというか……私は小さく布団の中で縮こまった。


「もし良ければ少々お手を」


 千里が微笑を浮かべ、自分に手を差し伸べる。恐らく生力で状態を回復させてくれようとしているのだろうが、醜い私の手を触らせてはいけない……!


「だ、駄目です! 穢れてしまう」


「あれ……? よく見たら子供……? 」


 千里が驚いた様に瞬きする。まさか色素の抜けた髪のせいで、老人と勘違いしていたらしい。体格とか身長とかじゃ……分からなかったみたいだ。小さくショックを受ける。だが、千里は再び微笑し首を横に振る。


「穢れてなんかいませんよ。妖の呪いを受けているのですか? だけど、私なら触れても大丈夫ですから」


 そう言うと、千里は私の手を取ってしまう。穢れてないという言葉に心が溶かされていく。柔らかな掌に右眼の痛みが解けていく様。頭痛が止み雑音ノイズが消えた。こんなこと初めてだ……他の人に触れてもこんな事は起こらなかったのに。彼女の力のせいなのか、それとも……。流れ込む穏やかな熱の奔流は、彼女には若葉色に見えている事を知っている。身体が温かい……鬼の魔眼に植え付けられていた影が照らされて消える。だが、右眼に奔流が届こうとした時、慌てて力を押し返した。最早、呪いでは無い事を知られてはならない!

 

 ピリッと静電気の様に、生力と妖力が弾け、千里は瞠目して再び瞬きをする。自らの顔から血の気が失せるのを感じる。ああ……千里に危害を加えてしまった! 折角その手に触れ、治してもらったのに! 後悔の念に唇を噛むが、他に手段は思い付かなかった。


「何処かの擬似妖力術式の家門の方だったのですね。……御免なさい、無遠慮に治してしまって」


「いえ! 黙っていた私が悪いのです! 本当に申し訳ございません……治して頂きありがとうございます」


 私は布団から慌てて起き上がり、頭を下げる。だが、千里は私の肩を押して寝かせる。その小さなかんばせが近くにあり、心臓が爆発してしまいそうに鼓動を始める。鶯色の睫毛が羽ばたく金の瞳も……桜色の唇も、手の届く距離で実在しているのが信じられない。鶯色の髪筋が胸元に掠め、息が止まる。


「まだ起き上がってはいけません! 身体を休ませなくては」


 そこではた、と視線がしっかりと絡んでいる事に気がつく。千里は自分の、深緋に輝く鬼の魔眼を見てしまった!


「……貴方」


「御免なさい御免なさい御免なさい!! 醜いですよね、忘れてください!! 」


 私は片手で良いのに、両目を塞ぐ。ああ、やっぱり左目も濁っていたからこれで良いんだ。でもこれだと、千里の顔が見えない。だけどどちらにしろ母の様に蔑まれるなら、見ない方がいい。背筋を雪女に撫でられた様な後悔が伝う。やっぱり、会いに来なければ良かった。こうなるのが分かっていた筈なのに、千里にまで否定されてしまったら……外の世界すら絶望に覆われてしまう。


「醜くなんか無いですよ。もしかして半妖ですか? 大丈夫です、他の者には言いませんから。」


 その言葉に私は両目を覆うのをめる。千里は肩に触れた手を離すと、悪戯に微笑して人差し指を唇に寄せた。笑みは心を貫いて……両目がじわりと熱くなった。母さんに拒絶さればけものと呼ばれて以来……醜い自分を檻に閉じ込めてきた。だが千里は檻を、陽だまりで溶かしてくれた。頬を濡らす暖かな涙に、まだこの両目は泣く事が出来たのだと理解した。


「……まだ痛むのですね」


「痛みは、もう無いのです。千里が治してくれたから」


 千里はきょとんと可愛らしく目を丸くする。この口が余計な事を……! 名前を知っていたら変ではないか! だが、千里は詮索する事無く頷く。家門の力の根源に対する詮索をしないのと同様に、流してくれた。


「もう痛みが無くて良かった」


「はい、お陰様で! ……電話を後程お借りしても宜しいでしょうか? 」


 小さくなりながら見つめると、千里は了承してくれる。そろそろ伊月家は慌ただしく自分を探している事だろう。兄さんに相談すれば何とかなるだろうか……。

 

 結局、兄さんが迎えの者と共に来てくれた。酷く叱られたが、自分を心配する故だと思うと頬が緩んでしまった。千里含め桂花宮家の人達には、伊月家の者だとは何とかバレずに済んだ様だ。帰りの車の中、後部座席から車窓を振り返る。車窓の向こう、続く景色は桂花宮家から離れていってしまう。

 

 再会は何時の日になるのか。千里は自分の事を覚えていないかもしれない。だけど再び出逢えたのなら、その時は今度こそ、凛々しい自分で居ようと誓ったのだ。

 


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