20、あなたといたい
やや傾き始めた陽光が、晴れ空に淡い色合いを足した頃、「フラネル」の裏木戸はゆっくり開き、侃は出てきました。
きょろきょろ辺りを見回しますが、おれんじの姿はありません。
なんとなく教会をぐるりとまわり、斜面の端へと足を延ばしました。
確信があったわけではありませんでした。
しかし最初からそこで待ち合わせをしていたかのように、おれんじは一本の木を見上げて立っていました。
「シュロの木です」
侃を視界の端でとらえ、唐突におれんじはそう切り出します。
その唐突さこそがおれんじの話し方で、それが懐かしく嬉しいものだということを久しぶりに侃は思い出しました。
おれんじが見上げている樹は姿も名前も覚えのあるものでしたが、その名前と姿が頭の中で一致したのは侃にとって初めてでした。
「シュロの木……ですか。これが?」
「はい、耐寒性に優れているので、日本でも広い地域で育つヤシの仲間なんです。大昔も大昔に日本にやってきた……もう在来種に成った、かつての外来種です」
おれんじは、侃が従前生をどうしてきたのかも聞こうとせず、しばらくシュロの木について滔々と話していました。
「――そういうわけで、そもそもは越冬できない種だったんですけど、小温暖期以降の気候が最適だったみたいで、今は日本のどこでも見られるようになってしまって」
「渡良瀬さん」
「はい、動物のフンで種が運ばれるので、思わぬところに野良の木が生えることが」
「渡良瀬さん」
「はい、なんでしょう」
「これ、お返しします」
と侃がカードを渡しても、おれんじはその情報を再生し、確認しようとはしませんでした。
まだシュロの木について話そうとするおれんじを軽く手で制し、侃は、一つ話を始めることにしました。
おそらくは一番最初に言わなければいけないはずだった話を。
「僕と母には、血のつながりがありません……当然ですけど」
それは侃が裏口に入る前におれんじがしたのと同様に、唐突な切り口でした。それが二人の間の作法であるかのように。
「5年前に死んだ父もです。3年前に死んだ飼い猫のハクマイもです。僕たちは血のつながりがない家族でした。でも、家族でした」
静かにおれんじが頷きました。瞳は揺らぐことなく侃を見据えていました。
「僕は……自分と血のつながりがある人間のことを知りません。生物学的な父や母のことを、です。知りたいと思ったこともありません。関係のない人だと思っています。僕の人生にとって、ことごとく、完全に、関係のない人たちなんです。僕の本当の家族は今の母と死んでしまった父とハクマイで、そのほかにあり得ません。僕とつながりがあるのはその人たちだけなんです。それだけのはずなんです」
侃はシュロの木を軽く触りながら続けます。もう教会から歓声は聞こえてこなくなりました。きっと夜の婚礼に向けての片付けと準備が始まったのでしょう。
「でも、16歳の時に僕に届いた従前生には父や母の従前生との関係は一切書かれていませんでした」
風がシュロの葉を揺らし、他の木々よりも少し掠れたような音を立てます。しゅかしゅかというその音は、そこにシュロがあるのだと言われなければ他の木々の葉がすれる音となんら変わりません。それでも、侃にはもうシュロの音が聞こえてしまいます。一度、他と違うことに気が付くと、それは際立ちます。
「父はドイツで育った期間の方が長かったので動物の従前生でした。江戸時代中期に日本に輸入された狩猟犬です。母は同じく江戸時代の按摩でした。ハクマイは猫なので前世はありません。どれも僕の……オレゴン生まれの運送屋とはかかわりがない従前生でした。僕はすぐに気が付きました、何かの手違いでこんな従前生が発行されたのだと。考えられるのは、僕の生物学的な親のどちらかの情報が反映されてしまっている可能性です。大いにあり得そうな誤りです。彼らは、僕には関係のない人たちなんです。僕が1歳の時から一切かかわってないんです。僕の従前生の生成にも、僕の人生にも影響するわけがないんです。問い合わせても従前生の決定にかかわる情報の内訳は当然教えて貰えませんでしたけど、僕はそうに違いないと……思いました。いまも、思っています。僕の従前生は本当の父母ではなく、見ず知らずの男女に結びついてしまっている、と」
侃は、そう口にすればそうなるとでも言わんばかりの口調で、いつも彼がそのことについて話すときの、いつも通りの口調で、彼が信じる事実を一言一言確かめるように話しました。
おれんじはその通りだとも違うとも、正しいとも誤っているとも言わず、ただシュロの木を撫でる侃の手の横に、そっと自分の手を置きました。
「あの歌を……渡良瀬さんからリクエストされたとき、戸惑いました。いや戸惑ったというより、混乱しました。なぜよりにもよってその歌なのか。施設にいるとき歌ってたんです。どこで覚えたのかもわからない。だけどなぜかずっと、あそこで暮らしている間、胸のうちにあの歌が流れているようで、それであの歌をいつも口ずさんでました。最初から最後まで完璧に歌えるんですが、施設で習った覚えもありません。施設に来る前から……覚えていたのか……わからなかったので、僕はあれを神様からもらった歌だと吹聴するようになりました。なんでそんな風に言ったのかはわかりません。でも、あの時の僕の持ち物は、僕だけのものは、あの歌だけだったから、だから、そんな風に特別に思いたかったのかも。でも、それも嫌になって、そのうちあの歌を口ずさむこと自体やめました」
「……従前生のことを信じていないというのは、ご両親のことがあるから?」
「ええ、そうです。信じていなかった、というより、単純に誤りが生じていると思いました。システムのミスです」
「正したいと、思ったんですね」
「正されるべきだと思いました……正されるべきでしょう?」
「その結果が、望むものである確証がなくても?」
おれんじはそう言ってちらりと自分のホロカードに一瞥をくれてから、それをバッグにしまいました。
「正しい従前生にあなたの大事なものが一つも入っていない可能性については、考えました?」
侃は一度考えこみ、何か、言葉にならない言葉を口にして、それからもう一度、考え込みました。
おれんじはそんな侃にゆっくりと向き直ります。
「わたしは、それでもいいと思ったんですよ、森野坂さん。わたしの従前生……わたしと重なるいつかの誰かの物語より、目の前のあなたの方がわたしにとっては確かで、大切だと思えたから。だからどんな風に変わっても、変えられても、問題ない」
「それは……でも、とても……傲慢な気がします」
「わたしが? あなたが?」
「……どちらも、です。僕に自分の前世を委ねるあなたも、僕の望む過去のためにあなたのか僕のか、前世を変えようとする僕も」
「二人とも傲慢ならつり合いが取れませんか」
「でも傲慢同士ならいずれ破局するでしょう」
「じゃあ、そう……傲慢じゃない恋愛なんて有り得ますか?」
そう言って、おれんじは笑います、くすくすと言葉遊びを楽しんでいるように。実際、言葉遊びではないか、と侃は気が付きます。
おれんじも侃も、すでに心のうちは決まっていました。
「あなたの過去にわたしがいてもいなくても」
「はい」
「あなたの未来に私がいられないとしても」
「はい」
「わたしはいま、あなたといたい」
シュロの木から離れた侃の手が、おれんじの手に重なります。
「僕も」
教会の鐘が鳴ります。
今日の日が暮れて、また明日が始まります。
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