禁句

七迦寧巴

第1話 プロローグ

 私の母と伯母は一歳違いの姉妹で、小さい頃からとても仲が良かったそうだ。結婚した伯母は江ノ島周辺で暮らし、その翌年に結婚した母は横浜に居を構えたので、夫を交えた付き合いは非常に親密だったらしい。

 やがて、七月に生まれた伯母の息子は拓海たくみと名付けられ、翌年の三月、桜の開花と共に生まれた私は花音かのんと名付けられた。


 物心ついたときから拓海はいつも傍に居た。遊び疲れて昼寝の時間、私たちはぎゅっと抱き合うようにして眠る。記憶にすらない赤子の頃から、こうして私たちは一緒に居たのだと、拓海の肌のぬくもりを感じながら思う。安心して眠れるひとときだった。


 四、五歳になると、先に生まれた拓海はお兄ちゃん面をするようになった。八ヶ月の誕生の差は子供の頃はとても大きい。私は体が小さく、すぐに風邪を引いてしまう。それに対して拓海は少しだけポッチャリとした体型で、すこぶる元気。風邪など引いたことがない。


「花音はもっと食べないと丈夫になれないぞ」

「ちゃんと外で遊んでるのか? 今度の休みはうちに来いよ」

 そんなふうに私を誘い、伯母の家に遊びに行ったときは、必ずと言っていいほど海に連れ出された。

 毎日のように海で遊んでいる拓海は泳ぎがとても上手だ。まるで魚のように気持ちよさそうに波と戯れている姿は海の使いのようで神秘的ですらある。私は鼻に海水が入ると痛いので、泳ぐのはあまり好きではない。それでも拓海が泳いでいる姿を見るのは楽しかったし、一生懸命泳ぎを教えてくれる拓海が頼もしく感じていた。


 私たちが小学校に入学する年、父の転勤で長野県に引っ越すことになった。拓海とずっと兄妹のように過ごしてきた私にとって、それは自分の体が半分に裂かれたような気分だった。


 引っ越しの数日前、私は伯母の家に泊まりに行った。伯母も娘が遠くに行ってしまうようで寂しいと、悲しい顔をしていた。拓海は終始無言で、もっと寂しがってくれると思っていた私は肩透かしを食らったような気分で切なかった。


 その夜は拓海と同じ部屋で寝た。豆電球の灯りのなか、隣の布団で寝ている拓海が「花音、起きてる?」と声を掛けてきた。私が拓海の方に体をむけると、二重の大きな瞳が私を見ていた。目が合うと、拓海は微笑んだ。


「長野にはどうやって行くのかはまだ分からないけど、オレね、冬休みには遊びに行くから。スキーしような。冬はスキーで、夏は海。だから夏休みは花音がこっちに来いよ」

 拓海はそう言うと私に小指を差し出す。その小指に自分の小指を絡めた。

「うん、約束ね」

「約束」

 指切りをしたあと、手を繋いで私たちは眠った。



 その約束通り、夏休みになると私と母は伯母の家に遊びに行き、一週間くらい滞在した。同様に冬には拓海が伯母と一緒に遊びに来て、やはり一週間くらい滞在していく。小学三年から拓海はサーフィンを始め、夏休みには腕前を披露してくれた。冬のスキーは私の方が雪に慣れているはずなのに、運動神経の良い拓海の方が上手に滑ってしまう。ターンしきれず雪の中に突っ込んで転ぶ私の姿を見て、そんな花音が可愛いと、拓海が屈託のない笑顔で言うので、小馬鹿にされているようで余計に悔しかった。


 夏と冬に行き来する習慣は、小学校卒業まで続いた。中学生になると、拓海は部活動が忙しくなり、私も塾に通う日が増えたので遊びに行くことはなくなった。しかし、伯母はたまに一人で遊びに来たし、母も伯母のところに遊びに行っていたので、この姉妹の交流は変わらず続いていたようだ。伯母が来たときに拓海の近況を聞くのは楽しかった。


 そんな生活が変わる日が来た。私は高校三年生になっていた。春からは東京にある大学に進学するので、卒業後は一人暮らしをする。

 伯母のところに遊びに行きやすいように、住むところはなるべく横浜方面に近い場所を選んだ。困ったことがあったら伯母さまを頼りなさい、と母は笑って言う。もちろん私もそのつもりだ。


 卒業式が終わった一週間後に引っ越し。新居には伯母と拓海が手伝いに来てくれた。

 久しぶりに会った拓海は背も伸びて、引き締まった体つきになっていた。少しぽっちゃり気味だった面影は何処にもない。黒髪に二重の大きな瞳は変わらなかったが、顔もすっきりとしていた。てきぱきと荷物を運び、テレビやDVDの設置、インターネットの設定も難なくこなしてくれる。


「こういうの苦手だから助かったー」とキーボードを打つ拓海の指先を見ながら言うと、

「困ったことがあったらすぐに言いな」と、得意げに答える。

「拓海、春から電気系の専門学校なんだよね」

「そ。地図見たらさ、花音のこの家からそんなに離れてないんだ。飲み会で遅くなった日は泊めてくれよな」

「えー、どうしようかなあ」

「未成年が飲み会だなんて何言ってるの。ほら花音、さっさと片付けなさい」


 伯母がハンガーに服を掛けながら急かしたので、私は慌ててそれを受け取るとクローゼットに片付け始めた。夕方には部屋もすっかり片付き、私は二人と一緒に伯母の家に帰った。帰宅した伯父は「すっかり綺麗なお嬢さんになったな」と目を細め、優しい笑顔を見せながら、また近くに住むことになった私を歓迎してくれた。


 二週間ほど伯母の家で過ごすことにしたので、その間は二階の伯母の部屋を使わせて貰うことになった。この部屋で昼間、伯母はアパレルメーカーから依頼された洋服を作っている。部屋には数体のマネキンやトルソーがあり、仕上がった服や作りかけの服が着せられていた。

「これ、ちょっと着てみて。どんな感じか見せて」

 伯母が明るいグレーのスーツを私の前に出してきた。入学式用のスーツは伯母にお願いしていたのだ。とても肌触りの良い素材で、袖を通すと丁度良い具合に体にフィットする。スカートも広がりすぎないAラインで可愛らしい。伯母は澄んだブルーの布と、桜色の布を私の胸元にあて、色味をチェックする。


「花音は色白だからスカイブルーのほうが顔が映えるね。そしたらブラウスはこっちの色で作るね」

「楽しみだな。伯母さまありがとう」

「可愛い姪っ子のためだからね。頑張っちゃうよ」

 伯母がガッツポーズをしたその姿が妙に可笑しくて笑っていると、階段を上がってくる足音が聞こえ、

「楽しそうじゃん。花音、風呂あいたぞ。入ってこいよ」と言いながら拓海が部屋のドアを開けた。

「お。スーツ姿。それ入学式に着るやつ?」

「うん。似合うでしょ?」

「似合ってる。さすがスーツはちょっと大人っぽく見えるな」

「だって女子大生だもん」

「花音のスーツは作るのに、オレのスーツは作ってくれないんだぜ」

「え? そうなの?」

 私が伯母を見ると、ブラウス用の布を片付けながら

「作っていて楽しいのは女の子の服だもの。男物の服は仕事だけでじゅうぶんよ」と澄まし顔で言う。

「私、女の子で良かったぁ」

「花音の服はもっと作ってあげるからね。拓海は自分の服はバイトして買いなさい。もうお小遣いも卒業だからね」

「へいへい。分かりましたよ」

 拓海は口を尖らせて、隣の部屋に入っていった。


 入浴を済ませて部屋に戻るとき、隣の部屋から拓海の声が聞こえていた。誰かと電話をしているようだ。布団の中で雑誌を読んでいると、しばらくして部屋のドアがノックされ、拓海が顔を出した。

「起きてる?」

「うん、どうしたの?」

「明日さ、高校の時の友達と城ヶ島までドライブに行くんだ。花音も行こうよ」

「いいのかな。迷惑じゃない?」

「全然。今日からイトコが来てるって言ったら誘ってこいってさ。オレ以外にヤローが二人。気さくなヤツらだから大丈夫だよ」

「うん。じゃあ行きたい」

「オッケー。朝早く出るから、ちゃんと起きろよ」


 もしもこのドライブがなければ、智行ともゆきくんと出会うことはなかっただろうか。いや、この日に出会わなくても、いずれ拓海は私たちを引き合わせただろう。そして同じ状況になっていたに違いない。

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