夜の訪れ⑥

 ◆


 あら?とシルファは声をあげた。

 本来居るべき者が居なかったからだ。

 グランツやアニーも当然それに気付く。


「ロッドがいませんね」


 シルファが呟く。


 ロッドはロナリア邸の門番だ。

 市井より登用した青年で、門番に採用される程度には真面目な筈だった。

 少なくとも、彼を登用して数年、ロッドが職務を放棄してサボったりした事はない。


 ふと横をみるとアニーが目を細めて屋敷の方角に顔を向けていた。


「アニー、どうしましたか?」

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「いえ…なんだか、お屋敷のほうで複数の気配を感じた気がするのです。…グランツ?貴方はどう?何か感じない?」


 アニーの言葉にグランツもやや険しい表情で屋敷を見遣るが、ややあって首を横にふった。


「すまないが……」


 気配の察知、危機への備え。そういった面では3人の中でアニーが最も長ける。


 と言うのもアニーは西域の大国、レグナム西域帝国の元斥候兵という経歴を持つからだ。

 彼女は優秀な斥候兵として功を挙げてきたが、ある時好色な貴族に見初められてしまう。


 その貴族はお世辞にも女癖が良いとは言えず、それでいて独占欲も人並み以上。

 困ったアニーは若い身空で貴族のカキタレとなるつもりはなかったので逃げてきたという寸法だった。


 逃げに逃げて東域はアリクス王国までたどり着いた彼女は冒険者稼業をしていた所、シルファにスカウトされて今に至る。


 彼女の実力ならば貴族の護衛などより実入りの良い仕事が選べたはずだが、同じく護衛のグランツと親しくなり、また、シルファ自身もアニーの雇い主兼女友達というような関係となったため現在の所は職を変えるつもりはないようだ。


 それは兎も角として、アニーの危機感知能力についてはシルファも信任が厚い所ではある。

 そんなアニーが違和感を覚えたのならばやはり油断は出来ない、とシルファは気を引き締めた。


「何があっても対応出来るように心構えをしておきましょう」


 シルファの言葉にグランツとアニーは頷いた。



 ――アニーの言葉のせいじゃないですが、確かに…屋敷がまるで…いや、考え過ぎでしょうか


 空気に吞まれたか、慣れ親しんできたロナリア邸が違うナニカの様に見える。シルファはそんな厭な想像を頭を振って打ち消した。


 ◆


「出迎えの者がいないのも妙だな」


 と、グランツ。

 アニーとシルファもそれに同意した。


 シルファ・ロナリアはロナリア家の三女であり、長女と次女は他家へと嫁いでいる。

 この二人の姉はある意味でロナリア家がロナリア家たる所以を体現している様な性格で、率直に言ってしまうと使用人達からは畏れられていた。


 だがシルファは二人の姉とは違い、少なくとも表面上は優しく、柔和であり、下の者に居丈高に出る事はなく…一言で言えば人気があった。


 まあ実の所、シルファのそういう人当たりの良い面というのはあくまでも一面に過ぎず、彼女もロナリア魂の様なモノを十全に継承してはいるのだが。


 ともあれそんな彼女であるからして、出迎え1つないというのは実に奇妙な話だった。


「お父様は具合が悪いと今朝仰っていて、使用人達は一時的に帰した…との事だったんですけれど…まさか1人残らず帰したのでしょうか?それに、帰したといっても遠方に実家がある者もおりますし…」


 シルファの言も最もだ。

 だが次のグランツの言葉で不審は急速に不穏へと舵を切った。


「あれは…血か?葡萄酒じゃなさそうだな」


 グランツの指差す方向を見ると、床には赤い液体が広がっていた。


 厭な話だがシルファもグランツもアニーも、血などは冒険者稼業をやっている内に見慣れてしまっている。

 血を赤いインクだとか葡萄酒だとかと間違える事はまずない。


「…血の痕はあちらへ続いています。あちらは…お父様の、書斎」


 この時点でシルファの脳裏には様々な変事のパターンがいくつも閃いていた。


 ――暗殺者でしょうか?


 だが、とシルファは思う。


(お父様を…オドネイ・ロナリア伯爵を殺害できる暗殺者など早々居るはずもありません。では、あの血は暗殺者のもの…?)


 オドネイ・ロナリア伯は謀に長けると言われるが、それは惰弱を意味しない。


 貴族はなぜ貴族足りうるかと言うと、それは血統が由緒正しいからだとか歴史のある家柄だとか、それもまた無視できない要素ではあるのだが、一番はやはり“強い”からなのだ。


 定期的に人類滅亡の危機に直面するこのイム大陸の人類国家で貴族業をやっていくにはとかく強くなければ勤まらない。


 ちなみにこのアリクス王国でもっとも強い貴族は当然当代のアリクス国王である。


 話は戻るが、ロナリア伯もまた伯爵位に相応しい実力を有している。


 分かりやすくいえばオドネイ・ロナリアが本気になれば、ロナリア伯爵邸などは30分以内に解体して更地に出来る程度には強い。


 従ってシルファはこの時点ではオドネイが暗殺者の凶刃にかかったなどとは全く思っていなかった。


 ◆


 オドネイの書斎は薄暗く、魔力灯はおろかランプもついていない。


 くちゃりくちゃりと音がする。


 窓から差し込む月光の青褪めた光だけが差し込んでいた。


 くちゃりくちゃりと音がする。


 オドネイと思しき人影が執務机に座っている。

 仕事をしているのだろうか?

 こんな暗い部屋で?


 くちゃりくちゃりと音がする。


 いや、机の上には書類らしきものはない。

 代わりに棒のようなものや、丸い球のようなものが置かれている。


 くちゃりくちゃりと音がする。


 ・

 ・

 ・


「お父様…?」


 シルファがおそるおそる尋ねるが、心のどこかでは“嗚呼、もはや取り返しが付かない変事が起きたのだ”と分かってはいた。


 グランツ、アニーは既に臨戦態勢に入っている。

 彼等の戦闘経験及び生存本能は肌を刺す殺気の質を敏感に感じ取り、この殺気の放射元が自身を殺めるに余りあるナニカであると察知していた。


「お父様、灯りをつけますよ…?暗い中では目を悪くしてしまいます…」


 シルファが入口近くに立ててある燭台に火を灯した。それなりに値がある燭台で、西域の魔導都市エル・カーラで工房を構える高名な魔導技師が作成したものである。


 魔力を流す事で触媒が加熱、そして光明術式が起動するが、ただ明るいだけではなく光の拡散度が重視されているため、多少広い部屋でも柔らかな光が部屋全体へ行き渡る。


 淡い魔術光が部屋へと広がり、シルファ達は見た。男の死体を貪るオドネイ・ロナリアの姿を。


 ◆


「かああ、かみ、が伸びるんだね、なぁぜって、えいよ、栄養がぁ豊富、で」


「あああああしるふあ、むすめ、ヴぉおおおくの」


「きぃみはどんな、あじが、するのか……」


 ――君はどんな味がするのかな


 顔をあげたオドネイの両の眼は、シルファが朝見た時と同じく黄色く濁っている。


 呆気にとられた3人を、黄色い両の眼が嘗め回すように見つめた。


(ま、まさか!)


 シルファはある事に思い至り、咄嗟に目を伏せた。


 そんなシルファをオドネイは粘着質な笑みを浮かべながら眺め、右手の中指に嵌った指輪の淡い青色の宝石に指を這わせた。


 ◆


 グランツの瞳が見開かれ、唖然とするシルファの首根っこを掴み、後ろへ引き寄せる。

 アニーは所持していた投げナイフをオドネイに投擲をした。


「逃げるぞ!」


 グランツは短く叫び、シルファの手を繋いで走り出した。

 アニーも後背に続き駆け出す。


 続く破砕音。

 乾燥した木を力任せに叩き壊す音だ。

 何かが激しく衝突した音。


 音の後にはたちまち冷たい空気が流れ込み、廊下の端々を凍てつかせた。


 閉鎖空間で氷術師とやりあうのは非常に不味い。

 冷気が拡散しない為だ。

 勿論考え無しに使えば術者本人にも累が及ぶが、その辺を考慮しないオドネイではないだろう。


 シルファは半ば茫然自失の状態だが、それでも脚は動いている。

 精神的にショックを受けてはいても命の危機とあらば身体は動くあたり、シルファの冒険者、いや、戦闘者としての才は決して凡庸なものではないと言える。


 長い廊下を3人は駆け、しかし彼等を追う足音は加速度的に近付いてきていた。


 身体能力向上に回す魔力の量が違う。

 このままならば数秒後には追いつかれるだろう。

 そうなれば……


 グランツはシルファとアニーを抱き寄せ


「窓を破る!飛び降りるぞ!つかまってろ!」


 二人を抱きかかえて、飛び降りた。

 3階程度の高さだが問題はない。


 夜の暗がりに紛れたいんだがな、とグランツは内心ごちる。

 月明かりが思った以上に明るかった為だ。


 グランツには夜空を飾る蒼白の宝石が、まるで自分達を監視する大きな目玉のように思えてならない。


 ◆


 修練場を出たクロウは大きく夜気を吸い込んだ。

 そして月をまぶしそうに見上げ、ロナリア伯の屋敷はどちらだったかなと少し悩むも


 腰に佩くコーリングがリンと鳴る。

 そして、ああ、と何かを感得したクロウは然程急いだ様子もなくその場を歩き去って行った。

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