第35話

「つまり、あなた方は富地米村の奇病について狂牛病の線を疑っているわけですか?」


 講義の予鈴を耳にした結芽が慌ただしく去った後、大地から話のあらましを聴いた律は、念を押すようにそう問いかけた。ついでに大地に紅茶を所望しながら。


 大地は苦笑いしながらも、全員分の茶を入れるべく瞬間湯沸かし器をしっかりと洗った後にスイッチを入れた。


 使用前にわざわざ洗浄したのは秀一郎を慮ってのことだ。潔癖な彼は煮沸済みとはいえ使い残しの湯を酷く嫌う。十分程度でもだ。そのため秀一郎の茶を入れるときには他の者に供する時よりも、より複雑な行程が必要となる。


 手洗いを行い、湯沸かし器を内装外装共に洗い、カップも洗う。その上でカップに熱湯を注いでカップを暖めた後に熱湯を捨て、そこに初めてコーヒーが投入されるのだ。


 勿論そのカップも特別だ。万が一にも間違って他の者が使用することが無いようにと、秀一郎はかなり特徴的な形状のカップを持ち込んでいた。


 他の者は部に備え付けのカップを使っているし、そこまで手順を気にしない。大雑把な大地などは多少汚れていても気にしないし、湯をそのまま注いで終わりだ。温度すら気にしない。温くても、薄くてもだ。


 律も以前まではそうだった。しかし、大地や結芽が秀一郎のために手を尽くしているのを見て感化されたのか、自らも秀一郎と同じ扱いをしてほしいと宣うようになった。


 大地は余計な手間が掛かる事をやや面倒に思いつつも、仕方なく受け入れることにした。受け入れざるをえなかった。以前、面倒だからとこっそり手抜きをした際に、律がふてくされて大変な思いをしたからだ。しかも、そのたった一度の過ちが律の心に深い猜疑心を植え付けてしまったらしく、最近では大地の側に立ち手元を監視するまでになっていた。そこまでするなら自分で淹れてくれと思いつつ、大地は今日も無言で粛々と給茶に勤しむ。


 その殊勝な態度が功を奏したのか、監視していた律は満足そうに頷くと悠々とした動作で席に着き、忙しい大地に代わって秀一郎の返事を促す。


「どうなのですか、駒井君」

「症状が酷似していることから何らかの関連があるかもしれない」

「ですが狂牛病が発見されたのは、ほんの二十年前ですよね? 年数だけ鑑みても富地米村の奇病とは四百年の開きがあります。関連は薄いのでは? それに、そもそもの話として、その時代の片田舎で牛を食する文化が根付いているのはおかしいです。その時代の我が国には食肉文化は存在しなかったはずです」

「いや、それがそうでもなかったらしいんだ」


 秀一郎の前にコーヒーとフレッシュを、律の前には結芽の持ち込んだチョコチップクッキーを数枚並べながら、大地がそう口を挟む。クッキーが開封される音を耳ざとく聞き付けていた律は、予想通りの展開にふっと表情を緩めるが、すぐに表情を引き締め大地の話の真偽を問う。


「そうなのですか? 古来より仏教では戒律で肉食を禁じていると聞きました。加えて、江戸時代には生類憐れみの令もありました。近代に至るまで獣肉食は行われていなかったのが通説では?」

「建前上はな」


 どこか含みのある大地の言葉に、律が首を傾げる。


「あまり大っぴらには出来なかったけど、実は結構食していたらしいぞ。それも考えてみれば当然の話だけどな。日本で一般大衆が食うに困らなくなったのは近代の話だ。まぁ日本だけでなく、そもそも人類の歴史が空腹との戦いだしな。つまり、だ。そんな時代に野生動物を見かけて食わない訳がないよな。俺でも食べる」

「理屈は分かります。ですが実際に禁ずる法が存在した以上、見つかれば当然罰則も科せられたのでは?」

「かもしれないな。だがそれなら


 大地は意味ありげな含み笑いをしながら、そう言い切る。


 秀一郎には大地の意味不明な発言の意図が掴めているのだろうか、ただただ面倒そうに二人を見つめて舌打ちした後にノートパソコンに向き合う。


「肉を食べているのに食べなければいい? 謎掛けか何かですか?」

「まぁそれに近いかもな。苦肉の策ってやつだ。肉だけに」

「大地君、前から言おうと思っていましたが、あなたが偶に口にするそういった類の冗談は本当につまらないですよ。それより早く続きを」

「あ、あぁ……すまん」


 律の辛辣な物言いに、大地は酷く悄気る。しかし、先が気になる律が微かに苛立ち始めているような雰囲気を察知してすぐに口を開く。


「要はだな、植物を食べればいいんだ。柏、牡丹、紅葉、桜。その辺りのをな」

「植物……ですか? ……なるほど、隠語ですか。鶏に、猪、鹿に馬ですね」

「そうだ、そういった体で獣肉食は受け入れられてきたんだ。『僕たちが食べているのは植物や花ですよ、肉? 肉なんて食べてませんよ?』ってな具合だな。もしくは『滋養や健康増進のために、薬として仕方なく、あくまでも仕方なく食しています』みたいなスタンスだ。実際、薬として肉が将軍に献上された例もある。まぁ労働力として有用性が高い馬や牛はレアだったみたいだけどな」


 大地のおどけたような語り口に、根が生真面目な律は呆れ果てたような態度を浮かべる。


「そのような屁理屈が良く通りましたね」

「ふふ。歴史の資料でも獣肉を隠れてこっそり食べるシーンとか結構あるし、それがバレて怒られたりするエピソードも少なくないんだ」


 友人の悪戯を密告する子供のように、しししと戯けたような笑みを浮かべた大地が情報を補足する。


「然も有りなんです。ですが、やはりそれなりに締め付けは厳しかったのですね。日本で近代まで肉食文化が根付かなかったのも納得です」

「そうだ。全国的に一般化したのはずっと後だな。海外との貿易が再開して近代化が始まった頃だよ。だから中世の日本人は小さかったのかもな。古代から仏教伝来以前は普通に肉を食べていたし、実際にその頃の平均身長は中世より高かったらしい」

「おい、無駄話はそこまでにしておけ。論点がズレてきているぞ。狂牛病と富地米村の症状は確かに似ているが、今回の場合は十中八九別物だろう。佐田の言った通り、江戸時代の片田舎の、このエリアでだけ牛肉食をしているというのはどう考えても現実的ではない。狂牛病に囚われるな。その周辺情報から何か得られないかを探れ」


 業を煮やした秀一郎が、豆知識を話して気持ちよくなっていた大地に冷水を浴びせるかのように苦言を呈する。


「悪い。つい夢中になった」

「夢中になると周囲が見えなくなるのは大地君の悪い癖です」


 ここ数十分でトカゲの尻尾切りを二度も身を以て体験した大地は苦笑いをする。しかし、実際に否定できない事実ではあるので反論はしなかった。


 三人はそのままインターネット上での情報検索に勤しむ。静かな室内には秀一郎のタイプ音と、律がクッキーを齧る軽快な音だけが響いていた。

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