第33話

「あなたたちは一体何を考えているのですか? 私には全く理解できません」


 フランチャイズの牛丼店から部室に戻るや否や、律は憤慨して地団駄を踏んでいた。律の怒りは大地と秀一郎、及びその二人のメニューに向けられていた。


 出がけにメニューを訊ねられた秀一郎は、『何でも良いから適当に選んで来い』と言い放ち大地を困らせた。悩んだ大地は、恒常的に在るサッパリメニューと期間限定のコッテリメニューの両極端を選択した。秀一郎の好みが分からなかったので、正反対の商品を選んで半分ずつにしようと考えたのだ。


 しかし、そのどちらもがオーソドックスな牛丼ではなかった。牛肉ですらなかった。その事実が律の逆鱗に触れてしまったらしい。


「牛丼屋さんに行ったのに何故牛丼を頼まないのですか。天の邪鬼な駒井君ならいざ知らず、大地君がそんなことをするなんて。私が券売機で奮闘している隙に、あなたは一体何をしているのですか。正気ですか?」


 突然の理不尽な恫喝に、大地と秀一郎は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で呆けている。


「大地君、あなたの選択は牛丼を冒涜しています。恥ずかしくはないのですか?」

「冒涜って……。ちょっと待ってくれ、佐田。それは言い過ぎだ。これ美味いんだぞ。というか佐田はそもそも食べたこと自体無いんだろ? 食べずに批判するなんて良くないぞ」


 衝撃からいち早く立ち直った大地は、慌ただしく袋から容器を取り出すと、蓋を開けて、中身を強調するように律へ向けて捧げ持つ。


 鼻先で漂う食欲をそそる匂いに嗅覚が著しく刺激され、律の喉が鳴る。しかし今までの強い物言いもあり、素直になれずに首ごと動かし無理矢理に目を背ける。


「……いいえ、食べなくても分かります。私の選んだ特盛り牛丼が一番に決まっています。あなたたちの色物メニューなんて美味しい訳が……」

「まぁまぁそう言うなって。試しに食べてみろ。な? 絶対美味いから」

「いえ、結構です。そもそも何ですか、それは。ネギ塩豚カルビ丼はまだ分かります。納得は出来ませんが理解は出来ます。しかし、そっちのそれは……聞いたことも無い単語です。鶏肉とニンニクはともかく、ホワイトソースとご飯が合う訳がありません」


 相変わらず律はツンとすました顔で口を尖らせており、非難は止む気配が無い。


「まぁまぁまぁまぁ、いいからいいから。ほら、口を開けろ。あーんだ」

「私は今話をして……」


 律が苛立ち口を大きく開いたその瞬間。大地は即座に律の口内にネギ塩豚カルビ丼を放り込む。


 その暴挙にムッとした表情を浮かべている律は、瞬間驚いたようにハッとすると、無言で咀嚼に集中しだす。表情を見るに反応は悪くない。常人に比べて感情表現は乏しいものの、大地にとっては既に見慣れつつある顔だ。険のあった表情も緩みつつあることは一目瞭然であった。しかし陥落に至る程ではない、もう一手必要だ。


「だ……」


 再び口を大きく開いて、おそらくは大地の名前を呼びかけようとしていたであろう律の口内に、大地は再び供物を放り込む。今度は鶏肉のガーリックソース煮込みの方を。


 すぐに律は目を瞑る。


 律は視覚を遮断することで、残りの五感にリソースを多く振り分け、口内から得られる情報を最大化しようと試みているのだろう。大地はそう推測した。


「勝ったな……」

「……」


 律と大地の寸劇のようなやりとりを鼻白んだ表情で眺めていた秀一郎は、これ見よがしに盛大に溜息を吐く。しかし、すぐに気を取り直して大地に声を掛ける。


「おい、大室。佐田の餌付けは後にして、さっさと取り分けろ。僕の分はお前等の箸が触れてない部分だ。ちゃんと未使用の箸で取り分けろ、いいな?」

「あぁ、分かっている。盗賊が動き出す前に急いで取り分けよう。じゃないと、根こそぎ持って行かれるぞ。手伝ってくれ。おい駒井、席はもう少し佐田から離しておけ」


 二人が慌てて取り分け終えた頃に、律の目がカッと見開かれる。その目は明らかに物欲しそうで、池に住まう大物の鯉のような貪欲さで二人を見つめ、次の一口を所望していた。


 しかし、大地も秀一郎もその視線に気付かないふりをする。


「「いただきます」」


 大地と秀一郎の声が重なった。拒絶の意志を伴った二人のその声は、律の手が届かない遥か遠く離れた位置からもたらされた。






「私が浅はかでした。初心者にもかかわらず知ったような口をきいてしまい、誠に申し訳ありませんでした」


 律はマナー本のお手本の様に綺麗な角度の最敬礼で大地に謝罪をする。


「分かってくれたなら良いんだ。頭を上げてくれ。日本の外食産業の企業努力をしっかり認識してくれれば、それだけで十分だ」

「大室、僕にはお前の立ち位置が分からない。お前は関係者か何かか?」


 秀一郎が怪訝な面持ちで問いかけると、大地は誇らしげに肯定する。


「まぁ昔少しな。バイトしてたんだ」

「そうでしたか。そうとは知らず申し訳ないです。まさに汗顔の至りです」

「いや、そこまで畏まらないでくれ。得意顔を浮かべた俺の方が恥ずかしくなる。別に俺の功績じゃないしな。全てはあの店の企業努力の賜だ」

「ええ、大変美味でした。敬服しました」


 こぼれんばかりの笑みを浮かべながら満足げにそう語る律の口元には、ホワイトソースとゴマが付いていた。


 食事中、律は自身の特盛り牛丼を怒濤の勢いで平らげつつも、時折大地と秀一郎――の持つ容器――をちらちらと切なそうに見つめていた。


 秀一郎はその視線を全く意に介さずに食事を進めていたが、優柔不断な大地には無視することは不可能であった。律が大地の方をより高頻度で眺めていたという理由も大きい。律は理解していた。秀一郎と大地、どちらがより与しやすい存在であるかを。


 その後、律の視線に根負けした大地は、まだ半分は残っている自らの器を差し出し、残り少ない律の牛丼とシェアする運びになった。


 しかし大地とてただ奪われるだけの弱者ではない。律を揶揄う機会を注意深く窺っていたのだ。そして早速その機会を活かすべく、大地は指で自らの口元を指差し、律の口元の付着物の存在を示唆する。


 それを目にした律はハッとした後に、慌てて鞄をまさぐり手鏡を取り出す。しかし、ソースを舌で舐め取るべきか悩み、少しだけ動きを止めて逡巡する。最終的には、人前である事を考慮してか、泣く泣くサッと拭い去った。


 その一連の流れを愉快げに眺めていた大地の視線に気が付くと、律はスッと硬い表情に戻り苦言を呈する。


「大地君。レディの口元をそのように熱烈な視線で見つめてはいけません。えっちですね」

「ふふ。レディか。そうだな、気をつけるよ」


 口元にソースを付けていた律の口からという単語が出た事で、大地は思わず吹き出してしまう。文字通り、どの口がそれを言うんだと言い掛けて慌てて口を噤む。


 しかし、大地の表情から全てを察した律がムッとした表情を浮かべる。


「あぁっと……いや違うんだ。今のは別に笑ったわけじゃなくて。な、駒井?」


 慌てた大地は視線で秀一郎に助けを求める。


 律からは死角になっているが秀一郎も後ろで鼻で笑っていた。大地からはそれが見えていた。つまり共犯者だ。助けてくれるに違いない。それを肯定するかのように秀一郎は俄かに立ち上がると、大地を見て重々しく頷く。やはり秀一郎は頼りになる。そう考えていた大地の想いはあっさりと裏切られた。


「僕は食後の歯磨きをしてくる」


 秀一郎はそう言い残すと、足早に入り口に向かい無慈悲にドアを閉めて立ち去る。閉まる瞬間に見えた秀一郎の口の端は急角度で吊り上がっていた。


「駒井、そんな……」

「そんな?」

「……そんな事より、その……そうだ。佐田は三つのうち、どれが一番好みだった?」


 大地の無理のある話題転換に律は呆れの表情を浮かべる。しかし施しを受けた件もある。今回は大目に見るかと律は矛先を納めると、大地の話題に乗ることにする。


「それは非常に難しい質問ですね。全て美味しかったです。しかし、そうですね……強いて選ぶのならですが、私はネギ塩豚カルビ丼が一番好みです」

「それは意外だな。佐田は牛丼を選ぶかと思ってた」


 律が話題に乗ってくれた事にホッとしつつ、返ってきた意外な答えに大地は首を傾げる。


「私もそのつもりでした。しかし、さっぱり飽きの来ない味付けが思いの外気に入りました。常食とするなら一番です。意外性も加味しました」

「意外性? 豚丼なんて今日日珍しい物でもないだろう」

「食べ慣れている大室君には、そう感じるかもしれませんね。しかし不思議には思いませんか? 日本には牛丼やカツ丼があり、その歴史は長いです。一方で豚丼はそれらに比べて知名度は高くありません。一体何故でしょう」


 律が突然もたらした奇妙な話題に大地は困惑して首を傾げる。しかし、確かに一理あるかもしれないと思い至る。


「言われてみればそうだな。同じくらいの知名度があって然るべきだよな。極論を言えば、牛を豚に変えるだけで成り立つんだし。実際には調理法やら品種やらを吟味する必要があるんだろうけど」

「そうです。勿論我々が知らないだけで郷土料理や家庭料理として存在はしていたはずです。ですが、それにしてもおかしい。本来なら牛丼と並び立つくらいのポテンシャルを秘めているはずなのに、一体何故なのでしょう」


 律は腕を組み、おとがいを左親指と人差し指で揉みながら考え込む。


 姿勢良く、怜悧な佇まいの律は大変格好良く、大地も思わず見とれてしまう程であった。考えている内容が食べ物の事でさえなければ、危うく律に夢中になっていたかもしれない。


 そんな大地の目を覚ますかのように、激しい勢いでドアが乱暴に開かれた。そこには得意げな顔で立つ結芽と、その結芽に腕を掴まれ不服そうな表情を浮かべている秀一郎の姿があった。


「ふっふっふ、話は聞かせてもらったよ。フードの事なら私に任せて」

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