6.

 目が覚めると、鉛にでもなったのかと思うくらい身体が重く、肺がつぶれてしまったのかと思うほどに息をするのが辛かった。内臓が捻じれるような苦痛もあった。

 ──何があったんだっけ。

 痛みに耐えようと奥歯を噛みしめながら、久遠は周囲に目をやる。どうやら病院にいるようだった。

 六年前の事故で入院したときのことを思い出した。数台の自転車が絡む大事故であったにも関わらず、救助された御山兄妹には大きな怪我はなかった。検査のため一日入院することになり、自分たちの身に何が起きたのか理解し切れなかった久遠と永久は、得体の知れない不安と恐怖に襲われた。ベッドは二つ用意されていたが、その日の夜は同じベッドで手をつないで眠ったことを覚えている。

 そんなことを思い出していると、久遠の右手を握りしめる何かがあることに気づいた。永久だった。久遠の手を掴んで、ベッドの端に遠慮がちに頭を乗せて眠りこけていた。綺麗な髪が絡まり合って鳥の巣のようになってしまっている。整えてやりたいが、身体を動かすと全身に痛みが走り、思わずウッと声が漏れる。

「気分はどうだい?」

 ベッドの周囲に巡らされたカーテンが動く。目だけで声の主を探そうとすると、あの神秘局の捜査員がこちらを覗き込んでいた。

 眼鏡をかけていなかった。大きな目が、じかに久遠の姿を捉えている。

 自分の身に何が起きているのか、どうなってしまうのか。聞きたいことは山ほどあった。なんで永久がここにいるのかも知りたい。しかし、口を開いたところで掠れた声しか出てこなかった。

「君が倒れたことを施設に報せに行ったら、お兄ちゃんのところに連れて行ってほしいと言われてね」

 永久の寝顔を眺めながら、弥は言った。

「妹ちゃんには魔術の才能がないようだけど、とっても頭がいいね。動揺していたけど、的確に状況を理解してくれたよ」

 確かに、永久は頭がいい。プログラマーである父親の影響で幼いころから情報技術に興味を持った永久は、両親が亡くなったあとも独学で腕を磨いてしまうほど知能が高かった。それゆえに、他人とは違う考え方や行動をしてしまうことがあり、周囲から浮いて孤立してしまっていた。才能で苦労しているのは彼女の同じだった。

「さて、君の身に起きたことについてだけど、簡単に言ってしまえば呪いだね」

 病床で苦しむ久遠に、弥は淡々と答える。

「あれは、ただ切断した死体を箱に詰めて棄ててあったわけじゃない。誰かが、何かしらの目的を持って作った呪物だったんだ。君は無謀にも、それに触れてしまったというわけだよ」

 どういう意味ですか? と久遠は訊き返そうとしたが、相変わらず声は出ない。

「とにかく、その症状は呪いによるものだ。幸い、影響は薄かったから、祓って、清めて、何日か安静にしていれば何とかなるよ。その間、重めのインフルエンザにかかったときみたいにシンドイだろうけど」

 どんまい、と弥は言い放つ。

 このときの久遠は、彼女の語る内容をあまり理解できていなかった。それだけ頭が考えることを拒絶していたのだろう。とりあえず、自分は呪われているのだということだけはなんとなく判った。影響は薄いらしいが、本当だろうか。

「とりあえず、今はしっかりと休むことだ」

 弥は手を伸ばすと、久遠の頭を撫でた。

 すると、自然と瞼が落ちてくる。おやすみ、という言葉が聞こえたような気がした。

 そのまま、久遠は眠りについた。

 それから三、四日は呪いの影響がなくなるまで碌に会話ができるような状態ではなかった。けれども、病院のベッドで何度目かの朝を迎えたとき、それまでの辛さが嘘だったかのように身体が軽くなっていた。しかし、そこから全快になるまでは、さらに時間がかかった。おかげでクリスマスも病院のベッドの上で過ごすことになった。

 久遠の入院中、永久は弥のところで世話になっていた。始めは兄から離れることを渋っていたが、いつの間にか弥と打ち解けていて、ベッドから起き上がれるようになった久遠はその様子を見て、目を丸くした。

 弥は毎日、病室を訪れた。そして、一方的に話をして帰っていく。

 慣れないながらも、永久が家事の手伝いをしていること。

 神秘局が、久遠のことを研修生として迎え入れてくれること。

 施設にはすでに話を通してあり、手続きや荷物の運び出しは済んでいること。

 ──などなど。

 魔術機関が魔術師の育成が保護を行っていることは知っていたが、あまりにも至れり尽くせりで恐縮してしまう。だが、その一方で自分がこんな扱いを受けてよいものかと気後れしてしまった。



「あの、ずっと気になってたことがあるんですけど……」

 退院の前日、久遠は弥に訊いてみた。

 明後日には新たな年を迎える。入院中にニュースを見ていた限りでは、事件に進展はないらしい。正式に公表されているわけではないが、事件が発覚した当時、久遠と同じように十数人の捜査員が現場で倒れたという。

「オレが倒れる前に、言ってましたよね。厄介なモノに憑かれてるって。──それって、呪いのことじゃないですよね?」

 そう訊くと、弥は愉しげに目を細めた。

「どうして、そう思うんだい?」

「呪いは憑くとは言いませんよね?」

 根拠は乏しい。けれども、あの言い方には久遠はずっと違和感があった。

「ボクが見込んだだけのことはありそうだ」

「見込んだって、オレ何もしてないっすけど……」

「こっちには目があるもんでね」

 弥は目元を指差しながら自慢げに言った。ちなみに、今日はあの黒縁の眼鏡をかけていた。伊達眼鏡で、普段はそれで魔眼の効果を抑えているのだという。

「永久ちゃんからも聞いてるよ。お母さんからもらった魔術書を参考に、独学で魔術の練習をしていたそうじゃないか」

 なかなかできることじゃないよ、と弥は称賛する。だが、久遠はそれを素直に受け取ることができなかった。

「君があの箱を見つける前に、何かおかしいと思ったことはないかい?」

「おかしいこと?」

「君はなぜ、あの場所に足を運んだのかな? 君自身の意思かい?」

 久遠は首を横に振った。ひどく気分が落ち込み、途方もない虚無感に襲われていて、気づいたときにはすでにあの場所にたどり着いていた。

「君は現場を訪れる前から、精神的に参っていた。君の胸の裡には隙ができていたんだよ。そこを善くないモノに突かれてしまったんだ。魔が差したとか、通りモノに当たるとか言うだろう」

 弥が胸元を指差してくるので、久遠は思わず自分の胸に手を当てた。トクトクと小さな鼓動を感じる。

「その善くないモノって、何ですか?」

「いわゆる鬼と呼ばれるものだね。邪鬼や悪鬼の類。節分のときに豆を撒いて祓うやつ」

 少々説明が雑な気もするが、あの場所で鬼と言われると納得できてしまうような気がいた。

「あの箱の影響で、現場一帯には善くないモノが集まってしまっていたんだ。通常はそういう場所に人は寄り付かない。本能的に避ける傾向があるからね。だから、住宅街であるにも関わらず、あの日あの場所には人気がなかった。けど、そこに君が現れた。胸の裡の隙を善くないモノに突かれて、いわゆる心神喪失状態の君がね。善くないモノには善くないモノを引き寄せる性質がある。そのせいで、あんな気味の悪い箱に、躊躇うことなく触れてしまったというわけさ」

 確かに、普通はあんなモノに触ろうとは思わないだろう。わずかな理性が頭の隅っこで警鐘を鳴らしていたにも関わらず、それに従わなかった説明がつくと久遠は納得する。

「呪いと一緒に憑いていたモノも祓っておいたけど、胸の裡の隙のほうはまだ油断できない。一度、鬼をはらんでしまうと面倒なことになるからね」

 さっきから言っている胸の裡の隙とは、何なのだろうか。久遠が胸に当てたままの手は、変わらず鼓動と体温を感じている。

「──どうして、助けてくれたんですか?」

 質問ついでにもう一つだけ、と久遠は口を開いた。

「助けられたと思っているのかい?」

 弥は言った。その言葉の意味が判らず、久遠は控えめに首を傾げた。

 すると、先ほどまでとは打って変わって、なんだかつまらなそうにしている彼女の表情が目に入った。よく笑う人だと思っていたから、久遠はぎょっとした。

「そうだね。君からしてみれば、ボクのやったことは君にとっては救いだったのかもしれない。けど、ボクは別に君を助けたつもりはないよ。ただ面白そうだと思った。それだけだよ」

「おもしろそうって……」

 胸元の入院着をくしゃりと握りしめながら、久遠は唾を飲み込んだ。

「認識の問題だよ。君が助けられたと思うのなら、それが君にとっての真実だ。けど、ボクにとっては結果であって、目的や事実ではない。ただ、それだけのことさ」

 そもそも真実はひとつとは限らない、と彼女は続ける。

「真実とは、あくまでも主観なんだよ。人によって、物事の見方や考え方は異なる。だから一つの事象に対して様々な意見が出てくる。でもね、誰が、どうやって、なぜそうしなければならなかったのか──それらを知ることで、なにが物事の本質であるか理解することができる」

 この人は何を言っているのだろうか。

 なぜ、こんな話をしているのだろうか。

 何か反応しなければと思いつつ久遠は口を開いたが、後に続く言葉が出てこなかった。そんな彼を見て、弥は悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。

「本質って、なんだと思う?」

 久遠は答えられなかった。まず、質問の意味が判らない。なぜ、そんなことを自分に問いかけてくるのかも理解できなかった。

 ぽかん、としている久遠の顔を見て、弥は愉しそうだった。

 久遠は熟考する。

 本質とは、物事を成り立たせるために必要な性質のことである。しかし、そんなことは訊いてきた本人も承知しているはず。わざわざ訊ねてきたということは何かしらの意図があるのではないか。

 そう思って頭を悩ませていると、そんな久遠の顔を指差しながら弥が言う。

「そんな恐い顔をするな、少年」

 いつの間にか自分の顔が強張っていることに気づく。指摘されたことがなんだか恥ずかしくて、久遠は誤魔化すように伸ばしっぱなしになっている襟足に手を伸ばす。

「難しく考えなくていいんだ。頭に浮かんだことを言ってごらん」

 なんだか試されているような気がした。それでいて、単におちょくられているだけなのではないかと訝しむ。

「だからって、急にそんなこと訊かれても……」

「まあ、そうだよね。本質とは何か、なんていきなり哲学的なことを問われても、すぐには答えられないだろう」

「哲学の話なんですか?」

 そう訊ねながらも、こちらが質問する側だったはずが、いつの間にか立場が逆になっていることに久遠は気づく。

「いや、神秘の話だよ」

 弥は答えた。「本質とは、神秘なんだ」

「……どういう意味ですか?」

 久遠はもう一度訊き返す。

「正しい在り方なんてない、ということだよ。神秘とはそこにあるだけで、触れる者の認識や解釈によって善にも悪にもなる。本質もまた然り。不変的だと思われがちだけど、経験と選択によって形作られるそれは、いかようにも移り変わるモノなんだ。君の本質だってそうだ。自ら望むなら、その通りに歩めばいい。そうでなければ、流れに身を任せるでもいい。ただし、どちらにしても責任を取るのは自分自身なんだ」

 それを聞いて、久遠は口元を歪めた。この才能は生まれつきで、自分が望んで手にしたものではない。それでも、責任を取らなければならないというのだろうか。

 神秘も、奇跡も、決して万能ではないというのに──

「だったら、一体何のために魔術はあるんですか?」

 膝の上に置いていた両手に力が入る。「人類のより良い発展のためなんて言ってるけど、国や地域によって魔術の捉え方には大きな差があるじゃないですか」

「科学と魔術では、得られる結果が異なるからね」

 弥は語る。「高度に発達した科学は魔術と見分けがつかない、なんて言葉があるけど、科学には限度があるし、逆に魔術には科学のような利便性がない。それぞれの良いとこ取りをすることで、人類はさらなる高みを目指そうとしたわけだ。実際、科学は魔法魔術からか派生したと言っても過言ではないし、現代魔術は科学から多くのヒントをもらっている。しかしながら、君の言うように国や地域によって魔術への認識に差があるのは確かだ」

「オレはこの才能、欲しくて持って生まれたわけじゃない……それでも、責任取らなきゃならないんですか?」

 魔術師というのは、幼いころに想像していたようなものではなかった。魔術を練習しても、いざというときに使えなければ意味がない。そもそも才能があるだけで忌避されるのだから、それで責任を取らされるだなんて理不尽ではないか。

 握りしめたままの手が震える。

「──現代魔術とは、奇跡を再現するためだけのものではない。神秘を探究するためのものである」

 黒縁の眼鏡の奥で、弥はスッと目を細めた。

「神秘を、探求する──」

 久遠は、その言葉を繰り返す。

「魔術師オズワルドの言葉だよ。この言葉をどう捉えるのかは君次第だ。認識も解釈も人それぞれだからね。だからこそ、君が探求すべき神秘とボクの神秘は違うのさ」

 それを聞いて、久遠は急に心細さを感じた。それまで自分を支えていたものがひどく脆いもののように思えてきて、思わず結んでいた両手を握り直した。自分が今ここにいるということを確かめるように。

「君はさ、まだ何も知らないよね」

「え?」

「その才能の使い方も、自分がどういう人間なのかも。何も知らない。これからどうしたいのかさえ判っちゃいない。それは本質じゃない。言っただろう? 経験と選択によって形作られる。そして、認識と解釈によって自分だけのものにしていく。だけど、君はそうすることすら放棄しようとしている」

 ガツンと頭を殴られたかのような衝撃だった。何もかもが砂になって崩れていくような。足元にぽっかりと穴が開いて、奈落の底に突き落とされるような──久遠はそんな喪失感を覚えた。

 同時に、君はどうしたい? と問いかけられているような気がした。自分自身を探究し切れていない。だから、決めつけるのは早すぎる──そう言われているようだった。

「本質を形作る経験と選択を得るためには、出会いが必要不可欠なんだ。人は出会いでしか変われないという言葉がある。それだけ出会いというものは人の在り方を左右するものなんだ。出会った誰か、もしくは出来事やモノから受けた影響によって築き上げられ、そして他の誰かや出来事、モノに影響を与えていく」

 因果と縁だよ、と弥は言う。

 自分には関係ない。なくても困りはしないだろう。これまでそう思っていたことばかりで、久遠はそわそわと落ち着かない。

「君は明日から神秘局の研修生だ。けど、だからといって魔術師になれと強制することはしない。研修生として生活し学んだ上で、どうすればいいのか決めればいい。これも一つの出会いであり、経験であり、選択だよ」

 そう言って、弥は久遠に向かって手を差し伸べた。

 これも選択なのか、と久遠は思った。

 これによって何が変わるのかは判らない。けれども今、この瞬間、確実に彼の中で何かが変わっているような気がした。

「ようこそ、探求の世界へ」

 久遠が手を握り返すと、弥は愉しそうに少年のような笑みを浮かべた。

 やっぱりよく笑う人だ、と久遠は恐れ入った。



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鬼胎 神秘局特別捜査課事件ファイル 三木谷 夜宵 @yayoi-mikitani

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