第8話 涙のあとに

 「好きになった人と付き合いたい。俺は、ただそう思っただけ」

 「じゃあ、私の何を好きになったの?どうせ見た目だけなんじゃないの?そうだとしても別にびっくりしない。だって、みんなそう言うもの。綺麗だとか可愛いとか言って、こういう子がいつも一緒だったらいいな、とかバカみたい。私がいつもこの姿だと思ってる」


 どうにでもなーれ、という呪文の効果か、恥ずかしさなのか怒りなのか、それとも試しているのか自分でもよくわからなかった。風俗嬢を呼んでおいて手を触れなかったり、かと思えば地震が怖くて震えている私を抱きしめて「俺が守る」と言ってみたり、会社名の入った名刺を渡してみたり、私の裸を目の前にして勃たなかったり。このつかみどころのない人を丸裸にしてやりたいという気持ちもなかったわけではないのだ。


 「…理由が聞きたいの?話せと言ったら俺はいくらでも喋れるよ。だって営業マンだもん、セールストークなんてお手の物さ。どうでもいい、とりあえずヤれればいいような相手なら俺は一晩中でも喋る。でもさ」

 「でも?」

 「詩織ちゃんに対して、それは出来ない」

 「どうして」

 「惚れてるからに決まってんじゃん。俺は君みたいに、上手に演じる自信がない」


 思わず持っていたハンドバッグで殴るところだった。運転中にそれはできないけど、代わりに何故か涙が出てきた。「詩織ちゃん」じゃなくて「君」と呼ばれた。バカにされているのかと思ったし、自分でもわからない部分を見透かされているような恥ずかしさもあった。どこから出てきたのかわからないほっとした気持ちもあったような気がする。とにかくいろんなものがぐちゃぐちゃに混ざって、言い返せるような言葉も浮かばない。


 恥ずかしすぎて、穴を掘っても掘っても足りない時って何故か涙が出る。そしてやり場のない怒りが湧いてくる。人が恥ずかしいと感じるときは、人と違うと感じた時だという。自分が一生懸命取り繕って、演じていること。それは、本心では「普通はそんなことしない」ってわかってた。けれど私がそれを辞めなかったのは、完全に演じているという自負があったからだし、そうすることで精神の平穏を保っていると思ったから。


 けれどどんなに綺麗に装飾したところで、所詮は張子の虎。中身は空洞でしかない。しょうちゃんという掴みどころのない水の中に沈み、私は呆気なく壊れてしまったのかもしれない。


 このまま帰すわけにいかないね。しょうちゃんが言い、私はうなずく。


 どういうコトになるかわかっていたけれど、別に抱かれたかったわけじゃない。何だか心細くて、一人になるのが嫌だった。

 ただ、隣にいてほしかった。だから、ホテルに入って普通にお風呂に入り髪を洗い、メイクを落としてバスローブを着る。抱かれたいわけじゃない、という小さな意思表示だ。


 ふと思い立って、しょうちゃんの背中に抱きついてみた。戸惑いを隠せない、震える大きな手が私を包む。泣かせてごめん、だけど言わないと何も伝わらないと思ったんだと囁く声が心地よく響く。私達は初めてちゃんとキスをした。


 本当に好きな人ができた時って、肌も恋をするのだ思う。例え触れていなくても、肌は相手の体温を感じようと敏感になる。お金をもらって客を相手にするのとは明らかに違う感覚は、自分が恋をしたことを自覚するのに十分だった。


 もう「どうにでもなーれ」という気持ちは消えて、ただ、この人が欲しいと思った。大きな背中も、大きな手も、囁くと甘くなる声も全部。


 明かりをすべて消した真っ暗な部屋で、お互いの思いの丈を吐き出すかのように交わる。しょうちゃんは、普段の饒舌で慣れた感じとは正反対に、とても不器用に私を抱いた。私の手首を力いっぱい掴んでみたり、ディープキスは歯が当たるほどに荒々しい。突き上げるときに私の腰に回す手は、食い込んで赤く跡が残るほどだった。お返しとばかりに私も激しさで返す。腰に足を回し背中に爪を立て、大きな身体を全力で受け止めた。手を繋いで、キスして、もっとくっついて離さないでとわがままを言った。律儀に応えるしょうちゃんを心の底から愛しいと思った。


 お互いに「愛してる」と言って果てる。こんなに溺れるようなセックスは初めてだった。終わった後は、気恥ずかしくて何も話せなかった。いつもなら相手に笑顔を向けたり、飲み物を差し出したりするのに今日は乱れた髪をかき上げる余裕すらなかった。ふと隣をみると、しょうちゃんはいつかのように、両手で顔を覆っている。「終わってから、急に恥ずかしくなってきた…」と足をバタバタさせて。


 「なんで恥ずかしいの?」

 「こんなに中身の詰まったセックスはしたことないし、そもそもそんなに経験ないし。別にヤらなくたって、男子校出身の奴なんてだいたい素晴らしい妄想力で何とか出来るもんなんだよ」


 つい可笑しくて笑うと、笑うなよ!と真っ赤な顔をしてふてくされている。


 この幸せな時間がずっと終わらなければいいと思った。でも、そう言ってもいられない。この幸せを掴むためには片付けなければいけない問題が沢山ある。


 お互いの気持ちは通じ合っていても、私のハードモードな人生についてこられるのかどうかは別な問題だ。打ち明けなければならないことも多いし、元カレの時のように「大人の事情」で想いが叶わないことがあるかもしれない。それを考えると頭が痛くなりそうだった。しょうちゃんの無邪気さに、胸が少し痛んだ。


 今この場で打ち明ける勇気がなかった。もう少しだけ、この普通のカップルのやり取りを楽しんでいたい。


もしかしたら、これが最後になるかもしれないんだもの。


 

 

  


 


 


 


 


 


 

 


 


 

 

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