687 「最後の撃鉄(1)」

 8月25日の夜、ヨーロッパから相次いで二つの情報が舞い込んできた。

 一つは、ポーランドとイギリスの間に相互援助条約が結ばれた事。もう一つは、ポーランドとフランスの間に軍事同盟が結ばれた事。


 これで普通に考えれば、英仏はポーランドを守る強い意思を見せたので、ドイツはポーランドとの戦争に踏み切らない筈だった。ポーランドに攻め込めば、英仏との戦争も意味するからだ。

 ミュンヘン会談の経験が活かされた英仏の外交成果、と言って良い筈だった。


 けど、私の知る前世の歴史では、当時のドイツ、というより外相のリッベントロップは英仏の対独宣戦布告はないと考えていた。多分だけど、大した根拠もなく信じ込んでいただけだろう。


 何しろ戦争が始まってしまうと、彼の出番は激減する。そしてヒトラー以外に頼る者のいない彼としては、無意識に戦争はないと考えたくなる。

 そんな現実が見えていない外相を信じたのか、彼自身の霊感にでも従ったのか、アドルフ・ヒトラーはポーランドとの戦争を決意してしまう。


 ソ連との間に不可侵条約を結んだ事で安心したのか、慢心したのかもしれないけど、現実は甘くはない。

 ポーランドへの侵攻によって、最後の一線を越えてしまうのだ。

 そしてこの世界で、私の視点から見て否定する要素がなかった。


 けどそこに、日本が強引に割り込んでいく。

 しかもこの世界の日本は、私が前世で知っている日本とは、外交上の立ち位置がまるで違っている。

 まず、国際連盟に属していて、しかも常任理事国。第二次ロンドン海軍軍縮会議に加わっていて、一応は軍縮条約も守っていた。さらに米英仏との間に不可侵条約を、軍縮条約とセットで結んでいる。

 その上に、日英米防共協定という何となく共産主義を防ぎましょうという、本来なら大した意味のない協定まで結んでいた。

 一方で、ドイツとの関係はほぼ最悪。さらに中華地域、大陸での全面戦争はその片鱗もない。


 誰がどう見ても、日本は米英仏と同じ立ち位置だ。

 満州を事実上牛耳っていようが、大陸で多少やんちゃしようが、大魔王ルーズベルトと不愉快な仲間達が日本を警戒しようが、欧米の世界でこの立ち位置が変わる事はない。

 しかも天敵のソ連とは、殆ど戦争と言える大規模国境紛争まで現在進行形で進行中だ。

 あまりにも優等生すぎて、目眩を感じてしまいそうな錯覚すら感じそうになる。


 そしてこれに加えて、ポーランドとの関係を結ぶべく動いていた。既に政府から全権を託された吉田茂が、ポーランド入りしている。

 当然、既にイギリスとの間には合意が成立している。フランスも日本の行動を是としていた。


 吉田茂は、チャーターしたイギリスの船でポーランド入りして、条約を結ぶとすぐにロンドンに引き揚げる。けどこれで、日本はこれから大変な事になるであろうポーランドは勿論、英仏と一蓮托生となる。


 そしてポーランドと日本の条約は、私にとって戦争そのものが止められないかという最後の希望でもあった。

 日本は、ソ連との戦いを否定しない程好戦的だと国際的に見られているくらいだから、その日本と英仏が肩を並べるのだから、ヒトラーは戦争をためらうかもしれない、という僅かな希望。僅か過ぎる可能性。

 でも、希望の一つも持ちたくなる。


 何しろ、第二次世界大戦が私の知る通りになれば、日本が大人しくて東アジアが大陸以外は平穏だったとしても、欧州では4000万人以上もの人が犠牲になる。

 大国一つが消えてしまうほどの犠牲者数だ。


 第二次世界大戦が、最初から止められない暴走列車のようなものだと漠然と思い続けていた事だけど、いざ目の前に迫って来ると、知っている事への罪悪感に近い感情が日に日に増していた。


 自分自身が幸せ過ぎる事ですら、罪悪感を助長させるほどだった。

 けど、冷静、というよりもはや冷徹と言える自分自身の別の一面は、最初から、私が何をしようとも世界大戦は避けられないと結論していた。


 その証拠とばかりに、満州の僻地では日本とソ連の間で大規模な国境紛争が今も激しく続いていた。

 攻勢を仕掛けてくるのはソ連ばかりで、日本は守勢一方。まるで専守防衛の自衛隊みたいだ。


 そして多少危ない場面もあるけど、現地日本軍は戦闘を優位に運んでいる。24日の午前中にも、再び中州に上陸してきたソ連軍を追い落としたという情報が入っていた。

 現在戦闘は一時的だろうけど沈静化している。

 日本が条約を結ぶ絶好の機会だった。



「吉田様は、もうワルシャワで交渉に入っているのよね」


「はい。英仏の次、という形になりますが、ポーランド大使と共にポーランドの外務大臣との詰めの協議に入りました。現地時間の今日中には、条約締結は確実かと」


「となると、徹夜するより朝に報告を聞く方がいいのか。良い目覚めになって欲しいわね」


 夕食後に、本館の居間でこっちに出向いた貪狼司令からの報告を受ける。お爺様と時田は首相官邸で閣議などしているので、私が報告を聞く。

 みんな山場だと知っているので、顔を出せる人は話を聞くべく居間に集まっていた。


 もっとも、虎三郎達はいないし、善吉大叔父さん達大人の多くがお仕事中。龍也叔父様も陸軍省。

 私の執事達も、側にいるのはこっちで仕事をするセバスチャンだけ。輝男くんが大学を出たら4番目の執事か秘書にする予定だけど、それは先の話。


 あとは、秘書のマイさんと私の側近達、それに私の同世代の子供達になる。珍しく、虎士郎くんと瑤子ちゃんも顔を出していた。

 逆に日曜日じゃないから、龍一くんはいない。もちろん勝次郎くんが顔を出す事はないから、私に真剣な眼差しを向けてくる同世代は玄太郎くんくらいだ。


 そうして集まったけど、話すのは主に私と貪狼司令。もしくは、副官格の涼太さんが説明係となる。

 だから私は、笑みを収めて言葉を続ける。


「懸念か問題はある?」


「モスクワで、東郷茂徳駐ソ大使がモロトフ外相に強い態度で呼び出されました。それ以上は不明です」


「まあ、大体は想像つくわね。ポーランドと関係結ぶな。日ソ戦争になるぞ。お前らは、いたずらに状況を煽っている。こんなあたりでしょう?」


「外相に就任して間もない時期に、これ以上事を荒立てないでくれ。くらいは思っているかもしれませんな」


「『だが断る』よ。悪いのは全部あっちだし」


「それは日本側の見解ですな。ロシア人としては、そもそも係争地は全て自分達のもの。ポーランドは、本来自分達の領土。極東の弱小国の小さい東洋人風情が、ヨーロッパ情勢に口出しするな。最低でも、これくらいは思っているでしょうな」


「それくらいなら、可愛いものね。共産主義者の見解だと、世界は全て自分達のものでしょうから」


「ねえ、もう少し建設的な話を聞きたいんだけど」


 私と貪狼司令が楽しく毒舌を振りまいていたら、お芳ちゃんにウンザリげに苦言された。私への他の人の視線も、いい加減にしろと言っている。

 そして視線を回すと、マイナス方面の雰囲気と表情が並んでいた。

 私のガス抜きもここまでらしい。

 だから、軽く咳払いして気分を少し変える。


「それで吉田全権大使は、どっちで話をまとめるの? やっぱり相互援助条約?」


「はい。今日の閣議でも、軍事同盟はソ連を追い込み過ぎるという意見が強く、イギリスが軍事同盟に踏み切らない限りは相互援助条約の方向です。ただし、ソ連が条約締結までに紛争を収めるのなら、軍事同盟の可能性もありますな。その辺りは、状況と吉田全権大使次第でしょう」


「国境紛争の状況は? あれから変化なし?」


「はい。24日未明までに係争地の中州を叩き出されてからは、大人しくしております。ですが、攻勢再開の為の再編成を行なっているのは確実というのが、龍也様から伝わってきております。早ければ明日にでも、攻勢を再開するでしょう」


「ソ連軍は無尽蔵ね。日本軍は頑張れそうなのよね?」


「掴んでいる限り現地ソ連軍に増援はなく、制空権は確保出来るだろうと。また、川を越える舟艇や装甲車を随分と失っているので、普通なら増援が到着するまで攻勢を控えるのが常道だそうです」


「常道ねえ。けど、このままだと、現地ソ連軍は負けたままよね。大人しく引き下がるとは思えないんだけど」


「そうですな。将軍や高級将校達は、座して収容所や銃殺を待たないかもしれません。現場ではなく上の理由で戦闘が停止したという体裁を取るのなら、無理を押しても攻勢を維持・継続するでしょう」


「だそうよ。動きがあるとしたら明日の明け方くらいね。何もなければ、これで解散ね。明日の朝食後に集まる?」


「玲子達は、深夜でも集まるんだろう」


「赤ちゃん達が揃ってぐずってなければね」


 玄太郎くんが代表するように聞いてきたので、なるべく軽い雰囲気で返事を返す。

 不安であっても、恐らく話を聞く以上に出来る事はないからだ。


「今もそうだけど、朝集まったとしてボク達は話を聞くだけだよね」


「そうよねえ。戦争が始まるかもしれないって聞いたけど、もう何もできないのね」


 虎士郎くん、瑤子ちゃんのごもっともな言葉だけど、私にも出来る事はない。情報が世に出回った時に、周りを落ち着かせるくらいだろう。


「学校の人たちに聞かれたら、大丈夫って言ってあげて」


「じゃあ明日、学校行く前に一度こっちに寄るわね」


「ボクもそうしようかな」


「決まりだな。何時にする?」


「学校行く前なら、7時半くらいで大丈夫? 多分、長話にはならないと思うから。みんなもそれでいいわね?」


 私の同世代で話をまとめてしまったけど、順当な線だから異論も無かった。

 そして翌日の黎明頃、赤ちゃん達の世話をしつつ仮眠をしている間に歴史が動いていた。

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