360 「1934年、政治の季節の頃の陸軍(2)」
「そちらは分かりました。では上の方々、と言うよりも一夕会の精神論の方々は? 特に最近の人事を指示されていたと言う、小畑敏四郎様が気になります」
分からない事は聞けば良い。何しろ今私は、日本有数の頭脳を持つお兄様と話している。しかもお兄様は、陸軍の中枢にいる。
「小畑さんは、この春から陸軍大学校幹事だ。けど、小畑さんが推した荒木元大臣はあの体たらくだった。しかも真崎閣下も、支持が落ちたから上には立てない。現陸相の林大臣は、永田さんとの繋がりが深い」
「それで、どうされましたか?」
「一夕会内で二人を推した小畑さんの評価が落ち、当人も落ち込んでおられるそうだ。先日は、永田さんが小畑さんを慰めるため、飲み会をしたくらいだよ」
「じゃあ、お二人の仲は良いんですね」
「ああ。時折意見を対立させる事もあるが、純軍事的には対ソ連軍備で意見は一致している。そして今、満州には同期の岡村さんがいる。小畑さんも、そのうち元気を取り戻すだろう。元々、積極的な方だ」
「そうなんですね。けど、真崎閣下が教育総監で、小畑様が陸軍大学だと繋がりませんか?」
「荒木閣下、真崎閣下などの人事を推したのは小畑さんだから分からなくもないし、小畑さんは別に攻撃論に偏ってはいる。でも、精神論とは無縁だよ」
「それなら大丈夫ですね。他の方も?」
「まあ、転向というか、本来の道に戻られる方が殆どだよ。国力拡大に並行して軍の充実が進むのなら、別段精神論に偏るまでもない。陸軍将校なら、その程度はそれこそ幼年学校の頃から叩き込まれている。状況が劣勢だと悪い方に、精神論に傾く場合もあるだろうけど、そうでないのなら傾く必要もない」
「はい。本当にそうですね。じゃあ鳳は、ますます産業振興を頑張ります」
「ありがとう、玲子」
それで良い感じに話が収まった気が一瞬したけど、よく考えたら本題にまだ触れていない事に思い至った。
「あの、それで一夕会が解体して、精神論者が去った事が政局とどう関わるのでしょうか? 大臣の変更もなさそうですけど」
「一夕会が宇垣さんと和睦する」
その言葉に、一瞬こちらも絶句する。
聞いた途端の言葉の爆弾だ。
「……和睦という事は、どちらかが従うのではなく、対等の取引があったと?」
「まあ、そんなところだ。両者は手を携えて、漸進的な国家総力戦体制の整備を一致団結して実行する。陸軍は予算拡大するなら、政府というより政友会を支持する。さらに宇垣さんが、外相以上になるのを支援する。宇垣さんは遺恨を全部水に流し、旧派閥も協力させるし、政治家としても陸軍への協力を惜しまない」
「……陸軍としては、ある種の理想的な展開ですね」
「まあ、そうなるね」
お兄様は私の微妙な評価に苦笑したけど、この辺りが限界だろうと私も深く思う。沸点に達していないだけで、そこら中に不平不満は渦巻いている。
けどこれで、陸軍は政府との関係を円滑にしつつ、官僚的手続きで軍拡を実施する流れがスムーズになる。だからこそ、潜在的軍拡の景気拡大も支持する。
恐らくは、お兄様の論文や運動も大きく影響したんだろう。
ただ、この時期の陸軍にしては、良い子過ぎる気がしてしまう。
「……あの、なぜそんな急展開に?」
「ソ連の第二次五カ年計画だよ。あれが完成される1938年が終わるまでに、満州を防衛できる体制構築に他を捨て置いてでも取り組むべきだと、大半の者の意見が一致したんだよ。大油田がまた見つかったから、海軍も協力的だ」
「あー、なるほど。けど、」
続けようとすると「シー」と右手の人差し指を立てて口元に添える。表情も茶目っ気タップリだ。
私も小さく笑みを浮かべて頷き返す。
「数年後のソ連で大規模な粛清が起きるかもってのは、誰にも伝えてないんですね」
「誰でも、じゃないけどね。永田さん、東条さん、他数名には伝えている。だが伏せ札だ。そして調査と情報収集も兼ねて、辻をモスクワの駐在武官に送り込む」
言葉の後半は、鳳の人間らしいと言える悪い表情に変化する。
まあ、強引に割り込むのも、スパイするのも、引っ掻き回すのも辻ーんの得意分野だろうから、適任といえば適任すぎる。だから私は、思わず苦笑してしまった。
そして私の前世の記憶が確かなら、この12月に党幹部のキーロフが暗殺される。それが大粛清の導火線だ。
「それじゃあいっその事、時期が来たら『噂』を流したり、色々できるんじゃあないですか?」
「現時点ではそこまでは無理だけど、情報収集組織の構築はさせるつもりだ。あちらさんも、日本での動きを本格化させつつあるからね」
(確かゾルゲは今年ナチスに入って、そこから日本の中枢にアプローチ始めるんだっけか)
思い出して乾いた笑いが出る。こちらは既に特高が極秘中の極秘でマークを開始しているから、釈迦の掌の上だ。そしてさらに、向こうで起きる事でもちょっかいを出せる。
さらに、私が種を蒔いて5年目のアメリカは、色々と炎上している。
アメリカでの反共産主義運動は、一部ではドイツのナチス政権誕生で連携して共産主義を叩けという危険な方向もあるけど、自由の国アメリカでは全体主義も流行らない。単に共産主義が叩きたいだけ。
そしてルーズベルト政権は、社会主義的政策の推進に苦労している。既に一部では、共産主義者として吊るし上げられた政府関係者、協力者も出ていて、不景気脱出で支持を上げようとしているのに、今ひとつ支持は伸びていない。
そして日本の出城の満州だけど、満州事変の発端が共産主義のテロという事になっている。だから、満州での徹底した共産主義者狩りは、関東軍や日本人がしなくても現地組織が熱心にしている。
そして大陸の中では最も経済と治安が安定しているから、民衆も共産主義叩きに協力的だ。
すぐ向こうがソ連というのも、大きいだろう。
さらに満州には、安定と安全を求めて人が流れ込んでいる。
そして自治政府なので、税収の一部が張作霖の中華民国政府に流れ込む。だから張作霖は、満州情勢に文句を言うどころか協力的だ。そして大陸では、英米と共同での通貨安定政策に日本も加わっている。
そうやって見ていくと、今回の選挙の争点は殆ど何もない。今年から予備交渉が始まる、次の海軍軍縮会議が懸念といえば懸念だけど、海軍は基本おとなしい。
本音では軍拡したいんだろうけど、軍縮派が主流だ。ただ、どういう方向にするのか、そのあたりの駆け引きで政友会と民政党は海軍の幹部と色々話しているらしい。
それでも、今のところ悪い状況ではない。
そうなるとお兄様の懸念が、少し見えてこない。
「お兄様、聞いている限り悪い話は無いように思えますが、何が懸念なんでしょうか?」
「ん? 玲子は気づいてないのかい。陸軍にとって都合のいい状況だよ」
「陸軍に? 確かにそうですね。予算拡大と対ソ連に向けた戦備拡充。政府と協力しての国家総力戦体制の充実。けど、今は好景気だし、目がソ連に向かうのは基本的に良い事ではないですか? 私としては、英米を敵視するより百倍良い事に思えるのですが?」
「そう言う面から見るとそうだろう。けど、日本国内の政治的な状況は、必ずしも好ましいと言えないと思うんだけどね」
改めて言われたので、そこに答えがある。だから、キーワードを頭の中で整理する。
(選挙前の宇垣外相と陸軍実務派の和解。陸軍と政府の協力。クーデター予備軍の分散と抑え込み。大人しい海軍。ついでに、今の所日本にとって良好な外交状況……。何だろう、確かに引っかかる。……選挙前……。……選挙。そうか!)
「気づいたようだね」
「はい。下手したら次の選挙が荒れます。しかも陸軍が原因で」
「うん。陸軍は宇垣さんを推すけど、総理になりたい人は他にも多いし、政友会自体が田中さんと同じ手を今回も使われたら、政党政治が揺らぎかねないと思う人もいる」
「西園寺公もどう言われるか。それに場合によっては政友会が分裂して、民政党と連立して巻き返しを図ろうとするかもしれません」
「そして陸軍は、本来ならそれを許さない。だが、陸軍の求める事を丸のみするのなら、そっちに乗り換える。神輿は誰でも良いし、宇垣さんはむしろ邪魔だからね」
(陸軍が付いた側が勝つなんて実例が出来たら、議会選挙体制の崩壊一歩手前だ。それに選挙が混戦になって、連立内閣なんてできた日には、私の前世での重臣会議で総理決定とか十分あり得そう)
「お兄様、政友会を割らないようにしないと!」
「そうだね。出来る限り行った方が良いと俺も考えている」
私に答えるお兄様だけど、やっぱりいつものキレもない。
事が自分でどうにか出来る事じゃないからだ。
そしてお兄様が私に話してくれたと言う事は、事は私の領分という事になる。もちろん、お父様な祖父が一番頼りになるけど、これはお兄様ではなく私の領分だった。
だから私は、お兄様の目を見て笑みを浮かべる。
「任せて、何とかしてみるから」
「頼む玲子。俺も陸軍の内側から、出来る限りの事はしてみるよ」
次の選挙は荒れそうだ。
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対ソ連軍備で意見は一致:
史実の永田と小畑は、永田が支那一撃論、小畑が対ソ連軍備で激しく対立。これが一夕会が統制派、皇道派に別れる大きな原因になった。
この世界では支那(北部)が日本にとって安定しているから、対ソ連軍備一本で問題がない。
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