292 「北満鉄道買収」

 10月、今年も不作で日本中が大騒ぎだ。

 それでも政府はそれなりに対応しているし、鳳グループも可能な限りのセーフティーを投げかけている。

 だから私がこれ以上騒ぎ立てても仕方ない。


 一方で、10月1日に鳳製鉄広畑製鉄所が操業開始した。

 これで日本の製鉄業界の地図は大きく塗り替わる。操業当初は年産100万トンを目指すが、1931年までの日本の総粗鋼生産量が200万トン程度だから、大きな変化だ。

 しかも1年から2年間隔で、鳳だけで最低100万トン以上ずつ増える計画だ。

 主な商売相手は自分自身のグループになるけど、それでも当面は他の鉄を買わないと足りないほど開発計画が動いているので、気にもならない。


 また、この製鉄所に少しでも安価に鉄鉱石を供給する体制も、夏の終わりくらいから動き出している。

 夏の終わりまでに、オーストラリアでの鉱石採掘体制が完成し、秋口から稼働状態に入った。

 また、播磨、今治の巨大ドックでは、相次いで2隻の超大型鉱石バラ積み運搬船が完成。2隻の船は載貨重量7万トンと言う、この時代の日本最大級の商船であり、世界的にも貨物船としては破格の巨体を有していた。


 なんでも海軍の一部が研究していた新型の建造方法を半ば実験的に採用して建造したらしく、ドックで巨大な船を作った事そのものと合わせて非常に画期的らしい。

 ただし、どうやって作ったのかは、海軍の意向もあって軍事機密状態。建造中も、海軍陸戦隊の衛兵が門扉に立って、部外者立ち入り禁止にしていた。一方で、建造中は海軍だけでなく三菱、川崎の技術者、技師などが多数やって来て、技術習得もして行ったそうだ。

 加えて、私がなんとなく口にした横向きの小さなスクリューというものが、模型実験から始めて最終的に採用の運びとなったけど、何やら異常に高く評価されているらしい。これも機密事項とされ、警備の都合も良いから同じ船で実験採用すると聞いている。

 そして現在では、鳳が主に必要な事もあって、日本各地で大型の建造ドックが建設され始めている。


 また、鳳の播磨、今治では、試験的なものを兼ねて時間をかけて建造した最初と違い、猛スピードで需要を満たすべく大型の船の建造が開始されていた。

 大型の鉱石バラ積み船、石炭運搬船、そして巨大タンカー、欲しいものは幾らでもある。そして各社での体制構築とフル操業により、5、6年先にはどの船も10隻以上揃う予定だ。そしてその頃には、もっと大きな船も建造できる予定になっている。


 ただそれらの海の巨人達は、現時点では鳳が作った岸壁や桟橋にしか横付け出来ない。だから、一部で仕様を大きく拡大した設備の建設や改造も始まった。ただしここで、鳳側からは5万トンや10万トンではなく、将来的にでもいいから20万トン以上の船に対応する設備を作るように分析資料付きで詳細に伝え、方々の度肝を抜いたそうだ。

 


 同じく10月1日、鳳の本邸の本館一角の改装工事が完了した。その夏に使用人棟の新館が出来てすぐの工事開始だけど、それなりの面倒もあるのでこの日の完成となった。

 今までの風呂もお金持ちのお屋敷らしく広くはあったけど、着替え室も完備した新たな風呂はちょっとした旅館の大浴場なくらい広い。露天風呂はないけど、サウナすら完備している。

 このお風呂は一族のみんなにも好評で、子供達などは内線電話で誘い合って一緒に入ったりもするようになった。



 さらに同10月1日、東京市35区が成立した。東京市のままだけど区域の広さは23区時代のものになった。それに応じて人口も大幅に増えて、人口規模が世界第二位ともなった。

 ちなみに鳳の本邸は、この時代麻布区になる。


 街並みの方も、1930年代に入ると私が前世で見知っている建物が続々と建設されていた。あと数年もしたら、大半の建物が出揃う。あの国会議事堂がその最後の仕上げに近いけど、あれも1936年完成だ。


 鳳の関わる建物、つまり私の前世には無い建物も、町の区画ごと完成しつつある。

 主に鳳の本邸近くはゆとりを持った街並み、鳳ホテル、鳳ビルのある地域は、鳳グループのビジネス街。そうした違いはあるけど、東京の日常として馴染みつつある。


 そんな東京中枢の一角では、日ソの交渉が行われていた。「北満鉄道」の2回目の売却交渉だ。

 アプローチはソ連側から。しかも話し合いが東京開催という、最初からソ連側の事実上の譲歩。

 私も東京中枢の一角、首相官邸近くの地下深くで、その話を聞く。



「日本が、モンゴルを引っ掻き回し、内蒙古の東部を実質手に入れてしまった影響でしょうな」


「そうよねえ。内蒙古臨時政府は宇垣さんの大金星よね」


 角刈り丸メガネの悪相相手に、私は軽口を叩く。


「はい。これでソ連は、ますます北満鉄道を持つ意味が無くなった。しかも、満州や内蒙古に移民したモンゴルの連中は、同胞のアカどもと同様にソ連も恨んでいる。最低でも、今回の交渉で北満鉄道を満州臨時政府との合弁という形には持っていく気でしょう」


「けどそれなら、満州臨時政府と交渉すれば良いじゃない」


 分かっているのに、ちょっと意地悪気味の私の言葉。

 それに対する貪狼司令も、薄く唇を上げるだけの人の悪い笑み。実に悪役同士らしくて良い。


「日本政府、宇垣外相の仲介で、満州臨時政府の代表と満鉄の代表も東京に来ております」


「これで関東軍は蚊帳の外か。陸軍はどうなの?」


「宇垣外相から、懇意の者に話は通っております。おかげで、実務職を占める一夕会は後手後手ですな」


「しかも内蒙古を切り取ったのが、政府と宇垣外相だもんね」


「一夕会は形無し。ですが関東軍は、満州の成功がありますし、蒙古、内蒙古の件でも上手く立ち回った」


「それなのに、この交渉では蚊帳の外か。関東軍は怒っているでしょうね」


「ですが今の関東軍も、中ではアジア主義者と国粋主義者が対立している。しかも人を寄越す一夕会の連中は、満州で今以上に事を荒立てるのを望んでいない。むしろ、事を荒立てる連中を何人か、見せしめに異動させました」


「だから、日本での日ソ交渉になったのか。じゃあ一夕会も蚊帳の外じゃないのかな。意外にややこしいわね」


「はい。ですがソ連の譲歩、というのが表向きです。だから関東軍も文句は言えない」


「ソ連の申し出を受けた政府を恨みそうではあるけどね」


「それも、今申した通り内部対立があるので、大きくはならんでしょう」


「で、下手のソ連に対して、宇垣外相がまた株を上げるのね」


「リトヴィノフ外相より宇垣外相の方が一枚上手な上に、良い札を持っておりますからな」


 総研司令部の別室での密談状態で確認の為の話ではあるけど、私達にとってはほぼ雑談だ。

 そしてその雑談が一区切りついたところで、扉にノック。


「どうぞ」


「お嬢、司令、結果が出たよ」


 貪狼司令の言葉に反応してシズが扉を開けると、入って来たのはお芳ちゃん。ずっと、最新情報が入る場所にしがみついていたからだ。

 一緒にリズもやって来る。そして扉が開いた時に、チラリとマイさんの彼氏さんの姿が見えた。


「どうなった? ソ連と満州の合弁決定?」


「それ以上。売却が決まったよ」


 言いながら、お芳ちゃんが促された椅子に座る。私より1つ年下なのもあって、まだ小さくて可愛いままだ。


「幾らになった?」


「1億3000万円と鉄道警備の軍配備容認で決着」


「予想より1000万高かったか」


「早く決着したことと、ソ連側の譲歩に対する上乗せでしょうな」


「それでも、1000万円は安くはないわよ。けどまあ、そんなものよね。多分だけど、ソ連はもっと吹っ掛けて来たんでしょ」


「うん。値段は互いが出した2億と1億の間で、かなり揉めてたみたい。それにソ連側は、鉄道沿線を含む黒竜江省の関東軍配備の禁止と、北満鉄道の今の職員の退職金を求めて来た。

 それを宇垣外相が、馬賊などがいて不安定だから南満州同様に鉄道沿線と付属地の、最低限の軍配備を認めさせた。その代わり、ソ連も極東ソ連軍の増強をしないってのも約束させたよ」


 そう言ったけど、ちょっと人の悪い笑みが浮かんでいる。それを見て、私も、そして貪狼司令も薄く笑みを浮かべて言った。


「けどあそこ、馬占山将軍のナワバリよね。自作自演じゃないの? それとも、張作霖のところの張景恵が邪魔してた? それとも無軌道な馬賊の皆様?」


「張景恵は、中華民国の中央政府の政局と権力強化にシャカリキで、もはや故郷のことなど見ておりません。馬占山は、あの辺りを完全に押えています」


「じゃあ自作自演か。けど、それをソ連は知らない。ロシア人は乗せられたって事?」


「はい。それと、ご当主様が動かれたようです」


 これがアニメなら、眼鏡がキラリって感じな口調と仕草の貪狼司令。意外に自己演出好きな人だ。

 口にした事よりも、そんな貪狼司令に小さく苦笑してしまう。


「そりゃまあ、馬占山将軍はお父様のマブダチだもんね。けど、あの人がよく言うこと聞いたわね。石油利権でも約束した?」


「そこまでは。ですが、その辺りかと」


「何にせよ、これでターチン探しに行けるわね。まだいらないけど」


「ターチン?」


 貪狼司令の怪訝な顔。メガネの奥の細目が、さらに細くなって糸目になる。そういえば、彼には初出しの言葉だった。


「北満にある大油田の、夢の中で見た名前よ。大陸の人が見つけて、ちょうど何かの記念日なのもあって大いに慶んだから、大慶と名付けたのよ」


「けどお嬢は、そこまで嬉しくなさそうだね」


「そりゃあ100億バーレルの大油田よ。けど、内陸だし、運ぶの大変だし、また油層は深いし、質も良くないのよね。それに今掘っても使い道ないし、向こう3年くらいは遼河油田で十分だし。そもそも、北満鉄道は35年くらいに決着つくって思ってたし。宇垣外相、仕事早すぎでしょ」


「いい仕事してくれたのに、よくそれだけ愚痴が並ぶね。けど満州の安定化が総研の予測より早く進んでいるから、満州開発も早まるよ。現に鳳に満州進出の話がきたばかりじゃない」


「そんな話もあったわね。けどあの話って、北満鉄道買収前だから意味があるんじゃなかったっけ? これで満鉄は満州全土の鉄道を掌握できるから、鳳を丸ごと満州に移転するくらいじゃないと、太刀打ちできないわよ」


「しかも、アメリカ資本導入が鳳の大前提ですからな。総研内の研究でも、別の財閥に話が行くと分析しています」


「それで良いんじゃない。うちは国内で精一杯よ」


 そう言って軽く肩を竦める。軽口半分だけど、かなり本気だ。この5年ほどで大きく肥大化した鳳グループは、不景気で解雇されたりあぶれた人を、大量に集めてはいるけど、社長などそれぞれの会社を仕切れる上層の頭数が足りていない。

 不景気で解雇をどんどんしている各財閥も、優秀な人材の首は切っていないからだ。そりゃあ、財閥が恨まれると言うものだ。

 そして鳳も、大きな利権を持ちすぎて恨まれたくはない。けど、それが許されない事も理解している。目の前の真っ白な少女も同じように考えていた。



__________________


ソ連と満州の合弁:

北満鉄道は、史実では1933年5月にソ連と満洲国との合弁事業となった。

売却成立は1935年。

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